第6話

       ◆


 おい、と遠くで誰かの声がする。

 いやに眠い。このまま眠っていたい。

 目覚めてはいけない、と誰かが忠告している。そうだ、このまま眠っていよう。それで解決するはずだ。

「ギッ!」

 強烈な衝撃に目が開いていた。叫んだのも自分自身だった。

 視界がはっきりしないのは、涙が滲んでいるからだ。同時に、呼吸がうまく整わず、むせ、咳き込み、必死に息を吸っていた。もしここで息をしなければ、それこそ本当に眠れただろうが、人間の本能は呼吸を成立させた。

 四つ這いになって、やっと顔を上げると、少女が呆れたような表情で突っ立ってこちらを見ていた。

 レイス。正体不明の少女。

 その横に、亡霊が直立していた。

(落ち着いたか、我が弟子よ)

 違和感しかないが、間違いなく声は聞こえる。耳が聞いているわけではなく、頭の中で反響するような錯覚がある。

 最初ほど驚かなかったが、恐怖はする。おとぎ話の中での存在、現実にはありえないはずの亡霊が目の前にいるのは、事実だとすれば驚天動地の事態で、錯覚だとすれば自分の頭がどうかなってしまったと考えるよりない。

 ただ、どうやら常識を覆す事態が起こっているようだ。

 俺はまともだ。たぶん。

(立ちなさい)

 俺はゆっくりと立ち上がる。場所は、住み慣れたぼろ家のすぐ前だった。俺は地面に寝かされていたわけだ。正確には、転がされていた。

 頬や髪、服についている土を払い落とし、立ち上がってはみたものの、手足に不自然な痺れがある。体を酷使した翌日などに感じる痛みに近いが、違うような気がする。

 なんとなくて足を確認していると、亡霊がふいに手を挙げた。

 何かが爆ぜるような音の直後、光が瞬いた。

 瞬いた瞬間、強烈な衝撃が発生して俺の体を吹っ飛ばしている。

 体が宙を舞った次には背中から戸に衝突し、それを粉砕して体が屋内に転がり込む。

 ぐるりと体が回転し、背中から落ち、仰向けになっているのに理解が及んだとき、俺はぼろ家の見慣れた天井を見上げていた。

(しゃんとせい、しゃんと。さあ、出てこい)

 声が聞こえるが、さすがに動けなかった。

 無言のまま最悪なことを想像している俺だが、想像は事実らしい。

(もう一発、食らいたいか、我が弟子よ)

 弟子になったつもりはない……。

 しかし、逃げる場所がない。

 起き上がってみると、全身の痛みは少しはマシになっていた。超常現象の影響を超常現象で調整するとは、出来すぎている。それでも体が最悪の状態から脱したのは歓迎しておこう。

 俺はゆっくりと建物の表に出た。戸が粉砕されていて、新しくしないといけない。クソ。

 外ではレイスと亡霊がさっきと同じ場所で待っていた。亡霊の男が不敵な笑みを浮かべている一方、レイスは心底から呆れているような表情だった。

「あんた」

 俺はどうにか言葉を発する。亡霊に語りかけるのは滑稽だろうが、亡霊の声が俺に聞こえるのだ、亡霊に俺の声が聞こえないわけがない。というか、聞け。

「神権の力で亡霊になったのか? さっきのは神権だろう」

 亡霊は顔をしかめただけで、黙っている。

 この世界には神権と呼ばれるものがあると、俺は昔のレイスから教わっている。

 それは不可思議な能力で、人間の誰もが持っているわけではない。しかし神権を操るものは確かに存在し、虚空から火炎を生み出したり、触れずにものを動かすという。

 目の前の亡霊が俺を吹き飛ばした力は、間違いなく神権だし、神権ということを加味すれば、亡霊そのものの姿の存在がいるのも頷けるというものだ。あるいはどこかに本体の肉体が存在し、そこから精神だけが分離してここにいることもありうる。

 もっとも、そんな神権があるかは確信が持てない。俺の想像、憶測なのだ。

「俺を弟子にして、どうするつもりだ? レイスもあんたの差し金か?」

(察しの良さは認めよう)

 亡霊が微塵も動じていないが、褒められても特に嬉しくはない。

「ウルダはどうしたんだ? まさか死んだのか?」

(自分の心配をするべきではないかな、我が弟子よ)

「弟子になったつもりはない」

(お前は弟子になるために生まれたのだよ)

 弟子になるために生まれた? どういう意味だ?

 問いを向ける前に、亡霊が不意に動き、俺の体を頭からつま先まで、確認するようなそぶりをした。

(なるほど、体はできているらしい。剣を持った経験は?)

 剣。

 そう、気を失う前、亡霊と遭遇する前に、レイスは何か言っていなかったか。

 剣術を学ぶとか、なんとか。それで、外で指導者が待っているとか言ったはずだ。で、外に出てみたら、亡霊に出会った。

 まさかとは思うが、まさかだろうか。

 俺は一応、レイスに確認した。俺があまりに真面目で、真剣な表情をしていたせいだろう、彼女はキョトンとしていた。

「レイス、俺はこのモヤモヤした亡霊に剣術を学ぶのか?」

「ええ、そうよ」

 実に簡単に頷いてから、レイスは補足した。あまりして欲しくない補足だった。

「彼の実力は超一流よ」

 問題はそこではない気がする。

 どう自分の意見をまとめようかというところで、亡霊が声をかけてくる。頭に直接、送られる思念が声と呼べるかは謎のままだが。

(剣を持ったことはなさそうだな。よろしい。棒でも用意せよ)

 亡霊をちらりと見てから、俺はレイスに不満を訴えようとした。

 剣術の経験はない上に、亡霊などという荒唐無稽なものに指導を受けるなど、飛躍が過ぎる。

 だが、俺がレイスに食ってかかる前に、亡霊がさっと手を振った。

 強烈な衝撃が俺の体を改めてすっ飛ばした。今度はぼろ家の壁に衝突し、痛烈な痛みに息が詰まる。

(棒を用意せよと言った。聞こえなんだか?)

 ふざけやがって!

 起き上がり、精一杯、亡霊を睨みつけてやる。だがまるで亡霊は意に介さなかった。

(稽古を始めるぞ。基礎からだ。適当な棒を取れ、我が弟子よ)

 無視してやろうとしたが、すっと亡霊が手を挙げる。

 また正体不明の力で打ち据えられたくはない。死ぬかもしれない。

 俺は渋々、視線を周囲に向けた。棒を取らなければ何度でも吹っ飛ばされそうだった。もしかしたら、足腰が立たなくなるまで。足腰が立たなくなっても亡霊が本気なら、死ぬまで不可視の力で打ち据えられる可能性も想像できる。

 そうしない保証はない。

 建物のそばにいつ、誰が使っていたか知らない古い鋤のようなものが落ちていた。手に取ってみると、長さはちょうどいいかもしれないが、棒とは言い難い。

(それで良い)

 頭で響く思念の直後、俺の手から鋤らしいものがもぎ取られていた。

 強烈な力が不意にかかって手からもぎ取られたのだが、どれだけの力がどういう形で加わったのか、鋤の名残が全部弾け飛んだ結果、それは一本の棒となって地面に突き立っていた。

(さ、手に取れ)

 亡霊を振り向くと、ぞんざいに手を振っている。

 反射的に棒を手に取るあたり、あっという間に俺の意識には亡霊の身振りと察知できない攻撃の印象が紐づけられてしまったようだ。

 まるで折檻を恐れる動物のように、俺は片手に棒を下げて、亡霊の前に戻っていた。鷹揚に亡霊が頷いて見せる。

(よろしい、まず構えてみよ)

 構えてみよ?

 見よう見まねで棒を正眼に構えてみる。これくらいなら何も知らない俺にもわかる。

(両手の位置を加減せよ)

 亡霊が滑るように近づいてくると、その手が棒を握る俺の両手の間隔を調整した。

 正確には、両手にそれぞれ触れたわけだが、亡霊の靄が触れると鋭い痺れが走る。声が漏れそうんいなるのを息を詰めてこらえ、弱みは見せないように手の間隔を変えた。

(足の位置を変えよ、それでは相手への対応が遅れる。ここだ)

 今度は亡霊の足が俺の足の位置を正すが、やはり足が痺れる。

 くそったれめ。

 レイスは「料理でもしましょうかね」と独り言を言ってぼろ家に戻っていった。戸を修理して欲しかったが、そんな声をかける余地はない。

(我が弟子よ、誰もが最初は素人だ。落ち込むことはない)

 亡霊がどこか楽しそうに言いながら、俺の体に触れ、痺れさせながら構えを示してくる。

 誰が落ち込むか。

(時間はたっぷりとはないが、充分にある。しかし早いに越したことはない)

 時間があるのかないのか、はっきりしてくれ。急ぐ理由が何かあるのか。

 もし優れた剣術遣いが欲しいなら、全くのど素人である俺を鍛えなどせず、どこへでも好きなところへ行ってすでに剣術を修めているものを探す方が早い。そいつに技でも術でも、仕込めばいいのだ。そう簡単にはいかないのかもしれないが、少なくとも俺を鍛えるよりは効率がいい。

 そう指摘してやりたい俺だったが、亡霊はひたすら俺を指導し続ける。根気強いというより、執念深いといったところだ。

 結局、日が暮れかかるまで俺はひたすら棒を構えたり振ったり、立ち方を変えたり、足を送ったりなんだり、動き続けるしかなかった。亡霊は疲労の色など微塵もないが、俺は頭の中で(これくらいにしておこう)と声が聞こえた時には、座り込みたいほど疲労していた。

 俺はよろめく体を支えるべく棒を杖のようについたところで、やっと最低限の問いを発した。

「それで、あんたの名前は? 俺はアルタだが、ま、知っているか」

(私の名か?)

 亡霊はその思念の後、不意に黙り込んだ。表情を読もうとしたが、そっぽを向いている上に、強い夕日を背景にしているので判然としない。もっとも実際の体のある人間でも、この角度では影になって表情など読み取れなかっただろうが。

(私の名はルードだ)

 やっと返事があった。もちろん、知らない名だ。そもそも亡霊の知り合いはいない。

「ルードね。俺がいつ、まともな剣士になるかは想像もつかないけど、二日に一度くらいは稽古とやらに付き合うよ」

 その一言に、亡霊がまっすぐに俺を見て、この時は不機嫌そうな顔がはっきり見えた。

(二日に一度だと? お前は毎日、稽古を受けるのだ)

「毎日? 畑仕事がある。そうしないと飢えちまうよ。銭を稼ぐ方法も考えないといけない」

(当分はレイスが面倒を見る。余計なことは考えず、稽古に集中せよ)

 絶句、というのはこの時の俺のことを言うのだろう。

 畑仕事が嫌だと思ったことはない。しなくていいと言われると、逆に不安にもなる。しかも剣術を学べと言われてすぐに受け入れるのは難しい。そもそも稽古はいつ終わるのだろう?

 俺が何も言えずにいるところへ、建物の方から「夕食にするよ」とレイスの声が聞こえた。亡霊を確認すると、彼は堂々と頷いた。

(また明日だ。今夜はせいぜい、ゆっくりと休めば良い)

 どうも、とやっと返事をして、俺は亡霊に背を向けた。

 あんたはどこで休むんだ? と言葉を返す気になってすぐに振り向いたが、その時にはもう亡霊の姿はなかった。どこにもない。痕跡は一つも見当たらなかった。

 夢を見たわけではない。俺は棒を手にしているし、全身に痛みが走るのも間違いない現実だ。

 また明日、か。

 レイスが建物の中からまた声をかけてくる。

 俺はゆっくりと痺れの残る足を送って家に向かった。

 まだ一日も過ぎていないのに、ウルダのあの無言や、そっけない態度が懐かしかった。

 今すぐにでも彼に戻ってきて欲しかった。

 足を止めて周囲を見ても、人の気配はない。遠くに見える建物から、炊事の煙がうっすらと上がっているのが、夕日に霞んで見えただけだった。



(続く)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る