後編:だって、貴方は

 ゴンドラから下りた私たちは、次なる目的地へと向かっていた。一時はどうなるかとも思ったが、幸いにして彼の機嫌はよさそうだ。

 

「志木さん、小腹が空きません?」

「それもそうかなぁ。お昼も早かったしな」

「そう思って、計画に織り込み済みです! ここから二駅乗ったところにある、ケーキの美味しいお店を知っているんです。そこでゆっくりしましょう」

「それ、信じても大丈夫? 葉月ちゃん、味音痴なところあろうだろう?」

「本当ですー! えぇと、今が四時四十分なので……よかった、四十三分発には間に合いそうですよ」


 人がまばらに行き交う駅の階段を上りながら、そのお店を目指す。早く早く、と彼を急かしながら、私は先を行く。

 その最中、誰かとぶつかった。黒いパーカーにフードを被ったその人物は、不思議なことに階段の上部で立ち尽くしていた。


「あ、すみません。前をよく見てなくて」

「……黒澤百合香さん、ですか?」

「え? いいえ? 私は、葉月ですけれども」


 小首を傾げ返答する。俯いているせいか、その人の顔はよく見えない。けれど、小柄な体格からして恐らく女性であろう。

 私に追いついた志木さんが、背後に立ち背中に触れる。それとほぼ同時、目の前の彼女が、歯ぎしりをする音が聞こえた。


「――――」

「え? 何を……――っきゃ!?」


 何かを呟いたかと思えば、私の身体は宙に浮いていた。突き飛ばされたのだと、瞬時に悟る。バランスを崩した私に為す術はない。重力に従い、後ろへ倒れるだけだ。弾みで志木さんに寄りかかってしまい、無抵抗なまま、彼と共に転落していく。


「いたいッ……って、志木さん!」


 激しい音を立て、私たちは落下した。幸い、自身に怪我や痛みはなかった。というのも、後ろにいた志木さんがクッション代わりになってくれたからだ。それに気づいた私は慌てて彼の上から退く。

 せめて犯人の顔を見ておこうと振り返るも、群衆の中にそれらしき陰は見当たらない。件の人物は、既に姿を消しているようだった。

 丁度電車がきた時間なのであろう。上からは、降車した人間がわらわらと押し寄せていた。この人混みの中を追いかけるのは難しいであろうと、早々に犯人捜しは諦める。それより今は、目の前の彼だ。

 

「志木さん、しっかりしてください!」


 激しく揺さぶるも反応はない。まさか、と思い、その口元に耳を当てる――か細いながらも反応はある。しかし、高所から転落しのだ。骨折ないしは頭をぶつけた可能性も捨てきれない。

 スマホを取り出し、救急車を呼ぶ。場所や状況を伝え、数分で到着する旨の連絡をもらった。

 なおも名前を呼び揺さぶっていれば、野次馬の一人に止められた。頭を揺らすことで脳にダメージが、なんて言われたけれど、正直そんなことを気にしている場合ではなかった。

 私自身、混乱しながらもその指示に従い、路肩に身体を横たえた。念のため、羽織っていたカーディガンを上半身にかけてやる。

 そうしていれば、救急車はすぐにやってきた。志木さんの身体が担架に乗せられ、車内へ運搬されていく。付添人として、私はずっと俯き、膝上で両の拳を握っていた。

 

 

 診断結果――右足首に亀裂程度の骨折。入院期間は三週間。

 そうして彼は再び、ベッドの上の住人と化したのである。


「ごめんなさい、私のせいで……」

「気にしないで。葉月ちゃんに怪我がなくて、本当によかった」

「それでも、せっかく退院できたのに、また入院生活に逆戻りだなんて」

「確かにね。もう、そろそろ看護師さんに『また貴方ですか』って文句を言われてしまうな」


 自虐的に語る彼の足首にはギプスが強固に巻かれている。石膏を混ぜ合わせたくすんだ白を見るのは、これで三度目になるだろうか。丁寧に患部を固定するそれが、どうにも痛々しい。


「それで、志木さん」


 彼の目をしっかりと見て、私は切り出した。


「何か、思い出したことはありますか?」


 一瞬にして、合間の空気が張り詰めるのを感じた。唾を飲み込んだのか、志木さんの喉仏がわずかに上下する。

 これは彼の記憶を巡る旅だ。故にその質問を投げかけるのが、デート終わりの恒例行事となっていた。しかし彼が何かを思い出す気配は一向にない。


「……ごめん。やっぱり、どうしても思い出せないや……」

「そうですか。なら、仕方ないですね。まずは一刻も早く退院してください。そしてできれば、ちゃんと記憶を取り戻してください」

「そうだねぇ……葉月ちゃんが俺にキスしてくれたら、思い出せるかも! ……なーんて」

「えっ、そんな、キっ……!?」


 冗談めかして伝えられたその言葉に動揺すれば、彼はケラケラと声を上げて笑う。


「うそうそ、葉月ちゃんがあまりにも可愛いから、少し遊んでみた」

「もう! そういうのは大事なことなんですからぁ! きちんと思い出して、誠実に向き合ってからじゃないと、私は許可しませんからね!」

「そうだよね。俺も誠実であるべきだと思う」


 彼の神妙な顔持ちに、膝上で拳をぎゅっと握る。

 面会時間もそろそろ終わりそうなので、またお見舞いに来ますね、と言って、病室の外に出た。振り返り、壁を見やる。

 四人一組の相部屋。そこへ本日、新しく追加された名前。

 蘇芳志木。油性ペンで丁寧に書かれたネームプレートを、ゆっくりと指でなぞった。

 


 電車を乗り継ぎ、帰宅する。靴を脱ぐなり真っ先に洗面台へと向かい、入念に手を洗い始めた。

 ハンドソープのボトルを叩きつけるように押し、出てきた泡で激しく両手を擦る。皮膚をそぎ落とすかのように、爪のごくわずかな隙間までにも入り込んだ雑菌を、逃がさないと言わんばかりに。

 底冷えするような流水に手をかざし、コップに注いでは口内に流し込む。

 目に見えない何かを洗い落とすかのように、うがいを十回ほど繰り返す。

 顔を上げ、鏡に映る自身を鋭く睨みつける。先ほどまであの男の前で見せていた、愛らしさの面影なんてどこにもない。

 リビングへ戻れば、男が一人。二人がけのソファに座り、勝手知ったる様子でくつろいでいた。彼は私に気づくと、こちらを振り向きひらりと手を振る。


「やあ、可愛いお姉さん! ようやく俺と遊んでくれる気になった?」

「ねぇ、ずっと思っていたんだけれど、あの下手なナンパは一体何なわけ?」

「キャラを変えた方が、足がつきにくいと思ったんだけれどね。葉月ちゃん的には、不評?」

「百点満点中二点」

「これは手厳しい」


 言葉とは裏腹に、軽い笑みを浮かべた男は、音切颯汰――もとい、今朝のナンパ男。

 あそこで追い払ったこの男が、何故私の部屋にいるのか。そして何故、私とこうも親しげに会話をしているのか。

 答えは、簡単だ――。


「十六時四十分。あの駅に実行役を配置する時刻。その通りに私が現れ、怨恨によるトラブルと思わせて、突き落とす――。なかなかいい案だとは思うわ。けれどね……」


 ため息をついて、一拍置いた後言葉を続ける。

 

「音切くん。ちょっと下手すぎるかな。危うく、無関係な人たちを巻き込むところだったわ」

「それはごめん、葉月ちゃん。実行役の手際が悪すぎたかな~……。まぁもう、連絡を取ることもないのだけれど」

「謝罪なんて必要ない。貴方は、あの男を着実に追い詰めていく方法を考えていればいいのよ」


 私には姉がいた。過去形なのは、もうこの世にはいないからだ。

 私と同じ日に生まれた、双子の姉。一卵性双生児であった私たちは、身内以外の誰も区別がつけられないほどそっくりであった。

 優しくて可愛くて、老若男女誰が相手であろうと分け隔てなく接する、『慈愛』の文字を体現したかのような人物。そんな彼女の妹であることが、とても誇らしかった。

 早くに両親を亡くしてしまい、その後に祖父母までもを失った私にとって、存命するただ一人血の繋がった存在。そんな彼女は光であり、希望でもあった。

 高校卒業後は二人で暮らし始めた。就職して大変そうなお姉ちゃんを見かね、私も学業の合間にバイトを始めた。生活は慎ましやかなものであったけれども、お姉ちゃんが一緒なら不満なんてなかった。なにより笑いの絶えない日々は、とても心地よいものであった。

 そんな生活を続けて、私が大学二年生になった、夏の日のこと。

 

 彼女は、自殺した。

 

 廃ビルの屋上から身投げした。即死だった、らしい。

 訃報を耳にした私は、無論動揺した。その場に膝を折り、時間をおいてあふれ出る嗚咽を両手で無理矢理せき止める。

 ありえない。あのお姉ちゃんが、いきなり命を絶つなんて。

 悩みを抱えている、苦しんでいるといった様子が一切見受けられなかった故に、浮かぶ疑念は膨れ上がるばかり。

 妹である私にも、唯一残された肉親である私にですら、言えない何かがあったというの?


 葬式、告別式。厳かな儀式を経て、彼女は軽くて白い、思い出の中の人となってしまった。

 永遠の別れを告げたその日から、彼女の周囲を徹底的に調べ始めた。お姉ちゃんの身に一体、何があったのかを知るために。人間関係や行動パターン、更には踏み込んで検索やトークの履歴、最近買ったものなど。調査の手はプライバシーの文字もないような領域にまで及んだ。

 そしてわかった……――彼女は、恋人に浮気され、酷い方法で捨てられたのだ、と。

 とあるSNSにて発見した、非公開の鍵付きアカウント――所謂、『裏垢』と呼ばれるもの。彼女は秘密裏にそれを作成し、誰もフォローせず、後ろ向きなことを書き連ねていたのだった。

 三年前に作成されたその内容は、誰かに対する不満や愚痴ではなく、一人反省会であった。

 友人を怒らせてしまった。期待に応えられなかった。妹には苦労ばかりかけているようで、申し訳ない。

 他者を責め立てず自らの非とし、向き合う姿勢は思いやりにあふれた彼女らしい。一年前からは、意中の人に対する思いも呟かれていた。

 思いが成就したのか、半年前からは恋人に関する書き込みばかりとなっていく。いわゆる、のろけの類いである。その中に時々紛れ込む、何かに怯えるような呟きがやけに引っかかったが。

 やがてその内容も、彼女が自殺する日付の一週間ほど前には、悲惨なものへと変化を遂げていく。

『どうして』

『私のこと、愛してるって言ってくれたのに』

『全部遊びだったの?』

『そんなこと言わないでよ』

『わたしは、ほんきであなたをあいしていた』


 ……それが最後の書き込み。彼女の遺書。

 自殺に踏み切った根源たる出来事。


 彼女の写真フォルダに残された画像を見る。お姉ちゃんと二人、幸せそうな笑顔を浮かべ並び立つのは知らない男。

 軽薄そうで他人の感情なんて推し量れなさそうなほどには、頭が空っぽに見える男であった。お姉ちゃんはこんな男の、一体どこに魅力を感じたというのであろうか。

 会話履歴や行動範囲からおおよその住所を割り出し、付近の徘徊を繰り返した。近辺に大きな商業施設が建てられているのが幸いした。でなければ、何もない住宅街をうろつくただの不審者になっていただろうから。

 何度この建物に足を運んだだろうか。片手では数え切れないほどになった、そんなある日。私は、かの男とすれ違った。

 ほんの一瞬の出来事。しかし、仇敵を見間違うはずもない。

 あいつだ。

 群衆に消えゆくその背中を追いかけ、文句の一つでも言いに行ってやろうと、声をかけた。

 背中を叩けば、やつはゆっくりとこちらを振り返った。


 ――ええと、すみません。どちら様でしょうか?


 首を傾げ、疑問を口にする男。

 その質問は妥当であろう。だが、私とお姉ちゃんをぱっと見ただけにおいては、その言い訳は通用しない。両親と祖父母以外見分けることのできなかった私たちを、目の前の人物が理解するはずなどない。

 それに、この違和感はなんだ。

 どうしてこんな丁寧な言葉を話している。お姉ちゃんのトーク履歴を見たときは、もっと高圧的で偉そうな口調が目立っていたというのに――。

 まさか、と、最悪の想像が脳裏をよぎる。


 そう、あろうことか、そいつは記憶を失っていたのだ。


 どうしてこうも間が悪い。これでは恨み言をぶつけても、何のことだか理解されずに終わってしまうに違いない。このまま一矢報いることもなく関係性が切れてしまう、だなんてごめんだ。

 いや、けれど――これはきっとチャンスだ。

 即座に思考を切り替えた私は、微笑を浮かべ、あたかも知り合いであったかのように振る舞い始める。


「お久しぶりです。私、以前貴方とお付き合いをしていた、黒澤葉月と申します。大変おこがましいとは存じますが、また、昔のような関係に戻れたらいいなって、思うんですけれども……。どうでしょうか?」


 厳密に言えば、付き合っていたのは私ではなく、お姉ちゃんの方であるが。

 予想通りと言えばその通り、彼は二つ返事で了承した。

 こうやって彼女とも交際を始めたのであろう。どちらから仕掛けたのかはわからないが、きっとあいつはこの時みたいに、軽い気持ちで頷いたに違いない。

 お姉ちゃんの気持ちを、蔑ろにして。

 ああ心底気持ちが悪い、反吐が出そう。汚く濁った都会のドブ川のような、掃きだめのような精神にして魂胆。それら汚泥の方が、まだマシだと思える日が来るだなんて。

 そんな最低最悪で、ゴミくずを体現したかのような男。

 この世から消し去りたくて、仕方のない男。


 その名を、蘇芳志木という。


 先の発言を思い返しては、また怒りがぶり返す。奥歯を強くかみしめた。ギリ、と上下の骨がきしみ合い、嫌な音を立てる。

 顔を見るだけでも不愉快極まりないというのに、今日は手まで握らされた。三回目のデートだ。おまけに、復縁した元カノ設定。以前までは断っていたが、ここまで引っ張るのはいささか不自然だ。

 それだけでは飽き足らず、私の腰に腕を回そうとし、挙げ句の果てにはキスをねだるときた。

 感情をわずかな理性で抑え込み、最もらしい言葉で拒否したが、限界であった。

 何が「誠実であるべき」だ――、一体、どの口がほざく。お前が真に誠意を見せるべきだったのは、お姉ちゃんに対してだったのに。

 今日の計画だってそうだ。集合時間も、場所も、プランも、鑑賞した映画の内容以外は全て、彼女と回った箇所だというのに!

 観覧車を見て頭痛を訴えていたから、何かを思い出すと期待したのに――甘かった。


「百合香お姉ちゃん――」


 思いに反して漏れ出たその名前は、どこか寂しげであった。

 煌々と燃え上がる復讐の炎が潰えることはない。むしろ、日に日に激しさを増す一方である。

 入院することが増えた。怪我をすることが増えた。命の危険を感じることが、多くなった。

 そう聞いたとき、思わず笑いがこみ上げそうになったのを、なんとか耐え忍んだものだ。かの人物は特別勘が鋭い訳ではないが、万一に備え足跡を残さないようにしておくことは重要である。

 

 まぁ、それはそうでしょうね。だって、全て私が裏で糸を引いているのだから。

 残念ながら、お前に恨みを持つものは少なくない。甘い言葉をかけて、その気にさせてやれば――ほら、立派な私の協力者のできあがり。

 あとはこちらで指示した通りに動いてもらえば、あいつを追い詰めていくことはたやすい。

 今日の作戦は失敗に終わったけれども、チャンスはまだ、いくらだってある。

 それは死ぬまで。後悔するまで。自身の罪を思い出し、償うその時まで続くであろう。


「次は三週間後、あいつが退院してからよ。例の彼女とは、連絡取れそう?」

「ばっちりだよ。あの子も蘇芳に対して、かなり強い恨みを持っている。ほぼ確で、協力してくれるとみたね」

「じゃぁそっちはよろしく。また連絡するわ」


 そう告げれば、音切くんは立ち上がり私の家を後にした。

 頭を巡るのは次なる計画。事故に見せかけて、というのは……使い古してきた。それならいっそ、本当に刃物でも握らせてしまえばいいか。

 今は記憶がないからか、それはただの人のいい好青年だ。しかし手の早いところ、気に入らないことは怒鳴り散らすなど、徐々に化けの皮は剥がれているようにも見受けられる。

 ねぇ、お前が全てを思い出すことと、その命を落とすこと――さて、どちらが先になると思う?

 その結末が、降りかかる災厄が、私は今からすごく楽しみでたまらないの。

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ただ静かに、その時を待ちわびて。 雛星のえ @mrfushi_0036

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