ただ静かに、その時を待ちわびて。
雛星のえ
前編:記憶喪失の彼
待ち合わせは、土曜日の午前十時。手元の腕時計に目をやれば、約束の時間までにはまだ幾分かの猶予がある。だからこそ、早く来てしまったことを今、盛大に後悔している。
集合場所に指定したのは、改札を出てすぐ側にある時計台の下。照りつける強い日差しを跳ね返すように、日傘を片手に佇んでいた。
「お姉さん、可愛いね」
喧噪ひしめく雑踏の中、自分にかかる声を聞こえないふりしていた。かれこれ三分ほどは経過するであろうか。隣に立った男は、先ほどから執拗に声をかけてくる。
初めは自分相手ではないだろうと、無視を決め込んでいた。周りを取り巻く人物は、時間経過と共に変化している。動かないのは、この場にて待ちぼうける私のみ。対象が自身であることは、すぐにわかった。
あまりの反応のなさにしびれを切らしたのか、彼は控えめに肩をつついてくる。傘の中から一瞥すれば、サングラスをかけた短髪の男が立っていた。視線が絡むや、彼は笑顔で手を一振りする。
「一人? 美味しいケーキのあるお店を知っているんだ。よかったら一緒にどう?」
「待ち合わせしているんです。なので、貴方の出る幕はないかと」
下手なナンパだ。それでは釣れる獲物も狩れやしない。目線も合わせず適当にあしらえば、次第に飽きて標的を変えるはずだ。灼熱に焼かれるアスファルトを見つめながら返事をする。
「へぇ、そう……彼氏? 友達?」
「さぁ、どうでしょう。ご想像にお任せいたします」
「どっちだっていいか。この炎天下の中、待たせるなんて酷くない? そんな男なんかやめて、俺にしちゃいなって」
「私が好きで先に来ているだけなので、お気遣いなく」
「てか君、面白い傘使ってるね。ネズミに食われそうな猫? 窮鼠猫をなんとやら、ってやつ?」
「そちらの解釈にお任せいたしますよ」
存外しつこい男であった。ここまで雑に扱おうとも、一歩たりとも引く気はないらしい。けれども、私の予想通りであればそろそろ――。
「お前、俺の彼女に何か用か?」
怒気をはらんだ声と共に、突如として私の肩が引っ張られる。男と私の間に割って入ったのは、まさに私が望んでいたその相手であった。
雑誌の専属モデルと見まがうほどの高身長に、俳優顔負けの整った顔立ち。サラサラの黒髪を爽やかなツーブロックに刈り上げた、白いポロシャツ姿の男性。
蘇芳≪すおう≫志木≪しき≫――私が首を長くして、待ち合わせをしていた相手である。
闖入者の存在に、ナンパ男の目が点になる。次いで値踏みするような目線で視線を上下に往復させた後、「……へぇ」と小さく声を漏らした。
「お姉さん、これあげるから。まぁ気が向いたら連絡して」
そう言って彼は、私に一枚の紙切れを手渡す。強引に押しつけていくと、人混みの中へと姿を消した。その背中を呆気にとられながら見送っていると、隣の男が両手を合わせる。パチン、と小気味よい音が鳴り、小さく頭が下げられた。
「ごめん、葉月ちゃん。まさかナンパなんて……。俺がもっと早く来ていれば、こんなことには……」
「気にしないでください。待ち合わせには、まだ早い時間なのですから。こうなる可能性を想定できていなかった、私も悪いのですし」
「大丈夫? あいつに何かされていない?」
「平気です」
その返事に、志木さんは胸をなで下ろす。そして、私の手元に残るそれを忌々しげに見つめた。端正な顔を歪め、小さく舌を鳴らす音が響く。
「そんなもの、早くそこら辺に捨てちまいなって」
「ポイ捨てはよくないですから……。ちゃんとゴミ箱に捨てておきますよ」
苦笑いで返せば、彼は不服そうな顔をしながらも納得してくれたようだった。腰に回ろうとしていた太い腕をさりげなく回避すると、紙切れを鞄にしまい、代わりにスマホを取り出す。
「さぁ、行きましょう。ようやく退院できたんですもの。一分一秒だって、惜しいのですよ! ……というわけで、今日のデート計画は分刻みで立ててみました!」
「え、流石に冗談だよね!?」
残念ながら、本気です。
彼は一週間ほど前まで、病室の住人であった。なんでもバイトへ向かう途中で、交通事故に巻き込まれたらしい。命に別状はなかったものの、左足首を捻挫する怪我を負った。それだけでは飽き足らず、二ヶ月前は左腕を骨折。半年前には頭を切ってしまい、数針縫うことになった。なんでもこの頃事故や怪我に巻き込まれることが増え、果ては命の危機さえ感じることもあったそう。
そんな志木さんは、しばらくぶりに外の空気を吸う。だから私とのデートも、ずいぶんと久々のことだ。
本当に分刻みで立ててきた計画を見せれば、彼は苦笑する。けれどそれを責めることはなく、じゃぁまずはここに向かおうか、と優しく声をかけてくれた。
そうして、私たちは歩幅を合わせ歩き始めた。
*******
蘇芳志木という男は、記憶喪失を患っている。
なんでも、ここ数年の記憶がごっそりと抜け落ちてしまっているらしい――。以前、私にそう聞かせてくれた。
自分の記憶が消えてしまうというのは、どういった気持ちなのだろうか。
きっと、大変なことであろう。嬉しかったことも苦い体験も、全てまっさら消えてしまうのだ。
それが嫌だと感じた私は、彼の記憶を取り戻す手伝いをすることにした。具体的には、昔のデートコースをなぞる、というもの。そうしていれば、何かを思い出すかもしれない。
私と彼は、ある意味で元サヤのような関係性だ。だからその時期、何をしていたかを一部ではあるが知っている。
初めこそ拒否に拒否を重ねた彼は、今やすっかり協力的だ。理由は、外に出ればよからぬことに巻き込まれるからと言っていたが、引きこもり生活は流石に堪えたらしい。
ショッピングを楽しむ、レストランでご飯を食べる、映画を見る――。流石に分単位での行動は難しかったが、概ね計画通り。特にこれといったトラブルもなく、順調に進んでいった。
次の目的地に向かうその傍ら、私たちは映画の感想を語らい合った。
「いやぁ、面白かったですね! まさかあの男性が犯人だったとは。殺された婚約者の無念を晴らすための復讐。彼がいかに、婚約者を愛していたかが伝わってきて、感涙ですね~」
「俺は女性の自作自演だと思っていたんだけどなぁ。見事に騙された、って感じだよ」
「私もそう思ってました!」
同じ感想を共有できるというのは、実に喜ばしいことである。次の目的地へと向かうその最中、唐突に彼は切り出した。
「ねぇ葉月ちゃん、いい加減、敬語やめないかな?」
「そうと言われましてもねぇ。年上は敬ってこそですから」
「じゃぁさ、いい加減、手を繋ぐ、っていうのは……」
「あっ……そうですよね。えっと、試してみましょうか!」
入退院を繰り返す志木さんとのデートは、これが三回目となる。しかし私たちは、キスはおろか手を繋いだことさえもない。
それは主に私が恥ずかしいからだとか、緊張で手が湿ってしまい、その感触を悟られてしまうのが嫌だから、だとか。
様々な感情が渦巻く中、何かと理由をつけて断ってきたが……流石に今回も煙に巻くのは、難しいことであろう。
志木さんの、大きな手が堂々と差し出される。自分の小さな手とは格段に違う、男らしいゴツゴツとした手。
遠慮がちに手を伸ばし、触れた。すぐに引っ込めるつもりだったが、その一瞬を彼は逃さない。容易に絡め取られ、私たちの手のひらが合わさる。伝わってくるのは、焼け落ちそうなほどの熱さと、皮膚のぐにゃりとした感触。
それがなんだか気持ち悪くて、私は咄嗟に振り払ってしまう。
しまった、と思ったときには遅かった。志木さんは眉を下げ、明らかに傷ついた、そんな顔をしていた。
「ご、ごめんなさい。その……。やっぱり、また今度でお願いしますっ」
「あ、あぁ……わかったよ」
周囲ではカップルが、親子が、休日出勤のサラリーマンが、各々自分の世界へ浸り声を上げる。笑声、絶叫、怒声。これだけ騒がしいというのに、何故かとても静かに感じた。 私が拒否したことで、微妙な空気が流れてしまったのを、嫌でも感じ取る。
「……あ、あの、お手洗い、行ってきますね。ここで待っててください。動いちゃダメですからね。私のこと置いていくなんて、もってのほかですから!」
いたたまれない。そうして逃げるようにお手洗いへ駆け込んだ私は、洗面台へ向かい、備え付けのハンドソープで入念に手を洗った。仕上げにいつも携帯しているハンドクリームを塗れば、ふんわりと甘い匂いが漂う。上品で優雅な白百合の香りは、私のお気に入りだ。
そういえば――、と、ふとその存在を思い出した。あのナンパ男から押しつけられた紙切れ。志木さんとのお話に夢中で、すっかり捨てるのを忘れていた。
四つ折りにされたそれを丁寧にほどけば、中には数字が並んでいた。
『1640』
その羅列に瞬きを一つ。紙切れを鞄にしまい直すと、化粧室を後にした。
戻った先で、確かに彼は待っていた。それも二名の女性を侍らせ、歯の浮くような台詞を口にしながら。
どうやらこの男、他の女を引っかけている最中らしい。せっかくデートの最中だというのに。私というものがありながら、何故そのようなことをする必要があるのだ、と内心呆れ返った。
彼女らも彼女らで、時折黄色い声を上げながらそれに応じている。心なしか、その顔はほんのりと赤らんでいる様にも見えた。
確かに、志木さんは外面はいいからなぁ。
なにも私とて、異性と話しているだけで機嫌を悪くするほど心の狭い人間ではない。ある程度の交友関係は必要だ。しかしそれが、口説き落とすとなれば話は変わってくる。
彼はこちらに気づく様子もなく、ナンパを続行する。こうしている間にも、彼らは連絡先を交換しようとしているのか、スマホを取り出し始めた。
……全くもって、困ったものだ。
「志木さん! お待たせいたしました!」
流れを絶とうと、声を上げながら駆け寄った。どこの馬の骨とも知れない者らを牽制する意味合いも兼ね、わざと彼女らの間に割り入りその存在を訴える。
「ああ、お帰り」
私の姿を捉えた志木さんは、ふんわりと優しく微笑んだ。突然邪魔をされた彼女らは、なんだ待ち合わせだったの、なんて言葉と共に、つまらなそうな顔をして人混みに消えていく。
「次の場所までには、まだ時間があるだろう? 慌てなくともよかったのに」
「そうすれば、あのお姉様方ともう少しお話しできた、とでも?」
私の指摘を受け、志木さんの身体がわずかに跳ねた。頬を引きつらせ、その目線が左右に揺れ動く。図星なのであろう。
残念なことに、彼のナンパ癖は今に始まったことではない。彼は私が離席するそのわずかな時間、暇さえあれば他の女性とお近づきになろうと声がけを繰り返していた。
言動を咎められた彼は、動揺しながらも必死に弁明を図らんとする。
「見ていたの? 違うんだ、あれはたまたま道を聞かれていただけで――」
「その割には、口説いているように見えましたけれどもねぇ?」
「――だったら、なんだよ?」
穏やかな態度が一転、地を這うような低音に変化する。
その急激な態度の変化に、大げさなほど身体をはねさせた。
またか……。
「え……あの、志木さ」
「お前だって俺が来る前に知らない男と喋っていただろ。別にこれくらい、よくね? もしかして、異性と喋ることすら制限するっていうのかよ、お前は」
「あ、あ……の」
どうやら彼の中で何かが切れたらしく、従順に応じる姿勢から、攻撃態勢に切り替えたようだ。ため息をつき、目尻を吊り上げ、あからさまにこちらを下に見る顔をしていた。
こういったとき、下手に刺激するのが得策でないことは経験済みだ。謝罪をして、彼の気を静めるのが最善なのである――例え、私自身が悪くなかったとしても。
「ごめんなさい……器の狭い女で、ごめんなさい」
「だったら――」
「でも、志木さんが他の女性と親しげにしているのは! やっぱりなんだか、いい気分ではないのです」
「そう言うくせに手を繋ぐことすら拒否っただろ。お前、本当に俺のこと好きなわけ?」
「す、好きですよ。もしかしたら、そこら辺の価値観は合わないのかもしれません……。でも! 私は、こんなことで、お別れなんて、したくないです……」
どうして、私はこんなにも必死になっているのだろうか。理由は簡単だ。さもなくば、彼が離れて行ってしまいそうで怖いから。
私は、どうしてもまだ彼と一緒に居なくてはならないのだ。
あまりの姿に志木さんの良心が咎めたのか、あるいは機嫌がよくなったのか。頭上にそっと手が乗せられ、彼が顔をのぞき込んでくる。
「ごめん。少し、言い過ぎたね」
「う、うぅうう……」
「確かに盛り上がったけれど、浮気しようなんて思っていないから。俺には葉月ちゃんだけだよ。それは、わかってくれるかな?」
「はい……。わかりました。あ、ええと。次ですけれど、あれに乗りましょう」
気持ちを切り替えるように、次の計画を彼に示す。そう言って指さす先にあったのは、観覧車。ショッピングモールのすぐ近くにある、小さな遊園施設に併設されているものだ。
「いいよ。行こうか、……ッ」
突如として、彼が頭を抱えた。項垂れ、その場に片膝をつく。
顔がよく見えないが、恐らく苦悶の表情を浮かべているに違いない。心なしか、呼吸も徐々に荒いものへと変化している気がした。
同じようにしゃがみ込み、その広い背中を激しくさする。
「志木さん? どうしました?」
「いや、わからない……。けれど急に、頭が……」
「元気とはいえ、病み上がりですものね……。今日はやめておきますか? それとも、何か――」
「いや、大丈夫。少し休めば、なんとかなるからさ。ようやく退院できたのから、一分一秒だって惜しいのだろう?」
遮るように発せられた言葉が、私の発言を返されているのだということはすぐに理解できた。心なしか、口調も穏やかな波のように優しい。
ああよかった、どうやら機嫌を直してくれたみたいだ、と安堵する。
志木さんを引っ張り、観覧車へと誘導する。人が少なかったおかげか、すんなりとゴンドラ内部に乗り込むことができた。
「そういえば、高いところとか平気?」
「大丈夫だと思います。流石に全面ガラス張りだったら、怖くてたまりませんけれどね」
窓に手をつけ、ゆっくりと上昇していく景色を眺める。ショッピングモールも、駅も、道路をせわしなく通行する車だっていっぺんに見渡せる。こうするだけで、自分が普段生活しているその場所が、模型のようにひどく小さく見えてくるのだから不思議だ。
そんなことを考えていたからか、不意に言葉が漏れ出した。
「……ここから落ちたら、痛いのかなぁ」
「葉月ちゃん? ……どうかした?」
「んー? いやぁなに。高いところから落ちたら、ひとたまりもないですよねぇって、お話です」
「まさか、どこかから飛び降りようとしているの?」
「ふふ、冗談ですよ。少々、脳裏をよぎっただけです」
「……頼むから、そんなことは考えないでくれ。葉月ちゃんに限ってそんなことはないと思いたいけれど、親しい人が死ぬのは、悲しくて辛いことだよ」
私の言葉に、志木さんは眉尻を下げる。顔を歪ませ、悲痛な叫びのように訴えられた。
その台詞には、概ね賛同だ。
けれど、私は――。
「――本当に……?」
「葉月ちゃん? 何か言った?」
彼の返答に、私はゆるゆると首を振る。
聞こえていないのならば、それでいい。
「いえ、特に何も。……そうですよね。とってもとっても、悲しいことです」
心にぽっかりと大きな穴が開いたように、空虚な気持ち。何事も手につかず、頭には入らない。
茫然自失。絶望。怒り悲しみ、そしてあふれ出てくる、どうしようもない後悔。
ああしておけばよかった。あんなこと言わなければよかった。そう思えど、当人が帰ってくることはな二度とありえない。彼は、彼女らは、生者の思い出の中でしか生きられない。
それが、大切な人を失うということ。
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