第10話 これしかないと思った

 雨が降り始めた。

 いつ降ってもおかしくないほどに黒く膨らんだ雲から、溢れ出した雫が滴るようにして。その雨と同じような涙が、岸野の頬を撫でるようにつっと伝っていった。


「知ってる」

「あの頃の俺はこのチームの名に負けない夢見る少年だった。でも、今はそうじゃない」

「どうしてそんなこと言うの?」

「……言わなきゃいけないと思ったから、かな」

「聞きたくない」

「そっか」


 岸野はまた塞ぎ込んでしまった。俯いて、何度も鼻を啜り、強くなっていく雨を気にも留めず泣き続ける。

 そして岸野は、この雨音に掻き消されそうなほど小さな声で、


「今日は楽しかった。もう一生忘れられなくなった。でも、貴方が野球をやめるぐらいなら、今日なんていらなかった」


 嗚咽が混じり始める。


「ずっと見ていたかった。それだけで良かった。話しかける勇気もないし、邪魔もしたくなかった。貴方がいつまでも活躍する姿を、おじいちゃんと一緒に見ていたかった」


 それでも岸野は、最後まで話してくれた。


「教室で会った時、運命だと思った。でも、そうじゃないってすぐに分かった。貴方は野球をやめて、それでも毎日楽しそうに笑っていた。私にはもう、何も残ってなかった」


 ――あぁ、そうか。こいつの時間は止まっているんだ。

 俺がいて、監督がいて、皆がいて。

 全員が一つの目標に向かってただ直向きに走り続けていたあの日々の中で。

だからいつまでも俺なんかに期待して、固執してしまうんだ。そいつはもう、俺自身がとっくに見切りを付けたってのに。


 ――期待してもらえることがどれだけ幸せか、私は知ってるから。だから私は、貴方が続けるべきだったって思ってしまうのよ。


 不意に昨日の宮下の言葉が脳裏を過る。……確かにその通りなのかも知れない。

俺なんかにこれほどまでに期待してくれる人間は、世界中探しても見つかりっこないだろうから。


 そいつの為にまた頑張ってみる。それもまた、素晴らしいことなんだと思う。

きっと岸野は俺がどれだけ音を上げても、最後の最後まで見放さずにいてくれる。誰よりも傍で見守ってくれるはずだ。


 それが分かっていても……俺の答えは変わらなかった。

 あの試合だけじゃない。

 これまで積み重ねてきたものの全てが、もう俺自身の可能性を否定していたんだ。


 拳を強く握りしめる。

 どうしようもなく情けなくて、行き場のない怒りが込み上げてきた。


「岸野……ごめんな」


 それでも俺には謝ることしかできなくて。変わり果てたチームの姿を、ただ見ていることしかできなくて。

 俺の横顔を、温かい雨が伝っていった。


 雨の影響か、はたまた大差による結果なのか、まだ相手チームの攻撃が終わっていないのにグラウンドに選手が整列して挨拶を交わし始める。


 どうやら試合が終わったらしい。

 ここからスコアボードの数字は到底見えないが、きっと昔の俺たちなら考えられないような点差が刻まれているんだろう。


 そのはずなのに、俺には何故かそこにいる誰もが楽しんでいるように見えた。負けたことを物ともせず、雨の中はしゃぎまわっているように見えた。


 少年野球として、それは正しい姿の一つなのかも知れない。

 でも俺が知ってるチャレンジャーズは、そんなチームじゃなかった。


 ……だからだろうか。


 或いはそれはその場しのぎな、贖罪めいた思い付きなのかも知れない。でもここに来た意味があるとするならば――これしかないと思った。


「なぁ岸野、頼みがあるんだ」


 俺は立ち上がった。


「やりたいことができたんだよ。だからその、そのままでいいから、聞いててほしい」


 そして顔をうずめ、塞ぎ込んでいる岸野に語り掛ける。


「このチームを変えたいんだ。本当の野球の楽しさを知っている、あの頃のチャレンジャーズに。それが多分、今の俺にできる唯一の恩返しだから。だから、頼む……。一緒に手伝ってくれないか」


 自分でも分かるぐらいに声が震えていた。自信がないからだ。早々に挫折した人間が指導者に回るなんてあまりにも傲慢だと、自分でも思う。

 それでも一度嫌いになった自分を許せるようになるには、これしかないと思ったんだ。


 俯いたまま、岸野はポツリと零す。


「なんでも言うことを聞くのは一回だけ」

「じゃあ……やっぱダメか」


 抱きしめられた。

 まるで俺の存在を確認するかのように、強く。そのまま岸野は俺の身体に顔をうずめ、ぐしゃぐしゃに泣きながらハッキリと告げた。


「ダメじゃない」

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