第9話 tender

 それきり岸野は何も喋らなくなってしまった。

 俯いたままこっちを見ようとせず、挙句の果てには無言でバッティングセンターを出て一人でとぼとぼと歩き始める。


 そのまま見送った方が良かったのかも知れない。

 恐らく岸野は帰るつもりだろうし、歩いて帰れない距離でもないんだろう。何より今は一人にしてほしいと、小さく丸まった背中がこちらに語り掛けてきていた。


「何処に行くつもりだ」


 それでも俺は声を掛けた。まるで何事もなかったかのように、苦笑交じりの声を出して。

 当然のように無視をして歩き続ける岸野。俺はその背中にそっと近づいて、あっけらかんと告げた。


「なあ岸野、さっきもらった権利、今使うわ」

 岸野の歩みがピタリと止まる。しかし振り返りはしなかったので、俺はそのまま背中に語り掛ける。

「行きたい所があるんだ。ついてきてくれ」


 返事はない。

 だから俺が岸野の前に行って、荷台に乗るよう促す。やがて岸野はゆっくりと歩き始め、俺の背中に体重を預けるようにして自転車に乗った。


 無言のまま自転車を走らせる。

 時折、岸野がすすり泣いている声が聞こえてきた。

 だからどうしても考えてしまう。どうしてこいつはこんな唐突に、勝ち目なんてある訳ない勝負を仕掛けてきたのか。


 聞くのは簡単だ。そして大方予想通りの答えが返ってくるんだろう。それでも尚、分からないことがあった。

 でもその答えを確かめるのは今じゃない。


 言葉だけじゃ伝わらない話をするためには、どうやら場所も重要らしい。そのためだけにヒールの付いたパンプスで山を登りきった女が言うんだから説得力は抜群だ。


 俺と岸野がそういう話をするために必要な場所。

 それはもう、一つしかなかった。


 重い沈黙を保ったまま自転車を走らせることおよそ二十分。橋を渡ってするすると公園の中に入っていけば、何処からともなく少年たちの大きな声が聞こえてくる。

 全く前を見ようとしない岸野でも、目的地に着いたことは察しがついただろう。


「着いたぞ」


 そう声を掛けて、降りるよう促す。何処から見るか悩んだが、ここが最適だと思った。


 ダイヤモンド型のグラウンドの最果て。

 ライトを守る少年すらも遠く見えてしまうほどに離れた場所。


 ここなら一応チームでは有名なOBになってしまう俺も、何処ぞの姫のような姿をした名監督のお孫さんもそう簡単に気付かれやしない。まあその代わり例の如くバッターボックスは米粒程度にしか見えないけど。


 その場に座り込む。レジャーシートなんて気の利いたものは持ってないが、幸いにも綺麗な芝が生え揃っていたので岸野も隣に座ってくれた。


「試合やってるっぽいな」


 俺の言葉に岸野はピクリとも反応しない。だからしばらく二人で後輩たちの勇姿を見守ることにした。

ここからじゃハッキリとは見えないが、まだ何人か見知った顔も残っているはずなので目を凝らして探してみる。


「って、あれ? いるか? 武内とか成嶋は絶対レギュラーだと思うんだけど……」

「…………」


 岸野は何も言わない。ちょこんと体育座りをして膝の中に顔をうずめている。どうやらまだ泣いてるらしい。もしかたら、いや、もしかしなくても俺のせいなんだろう。今俺がやってることは、岸野からすれば完全なる追い打ちだ。


「どうして」

 やがて岸野が俯いたまま言葉を紡いでいく。

「どうしてこんなことするの?」

 岸野はゆっくりと顔を上げた。そして、こちらを見る。その赤くなった目は、抱えた悲しみを隠すことなくジッと俺を見つめていた。

「ここはもう、貴方の知ってるチームじゃない」


 言われてグラウンドを見る。……薄々勘付いてはいた。さっきからずっとうちのチームが守りっ放しで、いつまで経っても相手の攻撃が終わる気配がなかったから。


「おじいちゃんがいなくなって、皆いなくなった。しばらくまともに練習できない間に皆辞めて、今ここにいるのは貴方の知らない子ばかり」

「いや練習って、三人もコーチいるんだから――」

「誰が監督になるかで揉めた」

「…………」

「誰も折れなかったから、皆いなくなった」

「――っ」

「貴方がこのチームを有名にした。だから皆野球に真剣だった。でも、それが仇になった」

「……そう、だったのか」


 知らなかった。

 恐らく俺や両親に伝えてくれる人すらもいなくなったんだろう。

 皆逃げるようにチームを去って、その後ろめたさが俺たちとの関係を途絶えさせてしまったんだ。


 その時岸野は何を想ったんだろうか。

大切な人を亡くして、チームがバラバラになって、それをただ見ていることしかできなくて。

 考えれば考えるほど、己の愚行が浮き彫りになってくる。

 知らなかったからと言って相手を傷つけていい訳がない。土足で人の心に踏み込んだ罪は、どうやったって償えないものだ。


 ……でも。それでも俺は――。


「改めてお前にちゃんと話しておきたいことがあるんだ」


 俺は岸野の方へ向き直った。生唾を呑み込み、乾いた喉から言葉を絞り出す。


「あのな、岸野。俺、もう野球やめたんだ」

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