第8話 無謀な賭け


 フードコートで昼食を済ませ、ミ・ナーラを後にする。

 相変わらず横座りな岸野を振り落とさないよう慎重な運転を試みてゆっくりとペダルを漕ぎ始める。


「行きたい所がある」と岸野が提案してきたのはカラオケを出た直後だった。相変わらずな真顔で告げられたその場所は正直意外な場所で、俺にとっては懐かしい場所でもあった。


 だからここからでも行き方はすぐに分かる。

 車通りの多い道をひたすら直進するのは色んな意味で心配だったが、十五分もすれば自ずと目的地が見えてくる。どう考えても今の岸野には似つかわしくなく、正直もう二度と来ることはないと思っていた場所。


 バッティングセンターだ。


 見るからに古びた赤錆だらけの看板や、整理が行き届いておらず無造作に色んな物が置かれている店内は如何にもな昭和感が漂っていて、それがある種このバッティングセンターの〝味〟になっている。


 雨が降りそうだからか、はたまたこれが日常になってしまっているのか客入りは少なく、バッティングセンター特有の小気味いい金属音も聞こえてこなかった。


 ……三年ぶりぐらいだろうか。

 ボーイズリーグに入ってからは軟球しか取り扱っていないこの店に訪れることはなく、毎週のように顔を合わせて仲良くなっていた店長ともそれ以来会わなくなっていた。


 だから正直、また顔を合わせるのはちょっと気まずいと思ってしまう。というか出来れば会いたくなかった。夢に向かって我武者羅に努力を続けていた自分が、こうもあっさりと野球をやめてヘラヘラしてる姿なんて、わざわざ見られたくなかった。

 だからなるべく目立たないよう、一番手前の席を陣取って荷物を置いていく。


 横目で岸野の様子を伺う。椅子に座ったまま動く気配はなかった。まあそりゃそうか。いくら人目がないとは言え、その格好で打つわけにもいくまい。

 でもだったらなんでこんな提案したんだ、俺が提案した時はあんだけ渋い顔してたくせに……。そう思いつつ立ち上がると、


「待って」


 突然岸野に呼び止められた。「へ?」と反射的に間抜けな声が出て、同時に振り返る。


「お前が打つの?」


 俺が尋ねると岸野はコクリと頷いた。しかし一向に立ち上がる気配はない。ジッと下を向いたまま、深呼吸でもしているのかわずかに肩を上下させている。

 長い沈黙の後、岸野は上擦った声で言った。


「お願いがある。…………一生の、お願い」

「なんだよ急に。小学生みたいなこと言い出して」

「賭けがしたい」

「賭けって、俺とお前が、野球で?」

「そう」

「…………」


 冗談だろうか。それともさっき俺が完敗したから気を遣ってるとか?

 でも岸野の様子を見ると、とてもじゃないがそんな雰囲気は感じられなかった。未だに下を向いたままポツポツと言葉を零していくその声は、さっきから明らかに震えている。


「一応聞くけど、ルールは?」

「……ヒット性の当たりが多い方が勝ち」

「いや、それじゃ勝負にならんだろ。俺が右で打つとかか?」

「ハンデはいらない」

「いやだから――「その代わり何を賭けるかは私に決めさせてほしい」


 岸野は顔を上げた。

 曇りのない瞳に俺を捉えて、真っ直ぐこちらを見据えている。

 一目で分かる。その目は真剣そのものだった。岸野はこのとんでもなく無謀な提案が冗談ではないことを、目だけで伝えようとしている。


「……何を賭けるんだ」

「権利を賭ける」

「権利?」

「勝った方がなんでも言うことを聞いてもらえる権利」

「は? え、なんでも……?」

 岸野はコクリと頷く。



「私が勝ったら、貴方に野球を再開してもらう」



「…………は?」

「もちろん遊び半分じゃなくて、本気で。うちの部活じゃなくてクラブチームに入ってもらう」


 そう言って岸野はつらつらと自分の計画を語り始める。

 所属するクラブチームは奈良で比較的実績があるチームであること、自分は祖父の繋がりでそのチームとも面識があること、過去に高校野球ではなくクラブチームに所属していながらも後にプロになった選手が実際にいることをまるで暗記した文章を読み上げるかのように淡々と話していく。


 当人が全く以て知らないその計画はやけに綿密で、それが一朝一夕で組み立てられたものではないことが否が応でも分かってしまう。


「お前、本気で言ってるのか?」


 だからこそ確認してしまう。それだけ真剣に練り上げたものを、こんなふざけた勝負に託すなんてどうかしてるとしか思えない。これならまだ、正面切って一生のお願いとやらで頼まれる方が遥かにマシだった。


 しかし岸野は無言で頷く。……まるでそれしか方法を知らないかのように。

 俺はそれが悲しくて、そのままバッターボックスに入っていく岸野を見送ることしかできなかった。


 ヒット性の当たりというのはどうにも定義が曖昧だ。

強いゴロだろうとライナーだろうと、正面だったらアウトになってしまう。

 その球が実際に抜けるかどうかをバッティングセンターで証明するのは、ハッキリ言って不可能に近いだろう。


 しかし、そんなことを心配する必要は全くなかった。

 待てど暮らせど、岸野のバットから快音が聞こえてこなかったからだ。


 百十キロに設定されたマシンが投げ続ける二十五球の速球は、当然のように一度も岸野のバットにカスることはなかった。

 俺は何も言わず、俯いてこちらを見ようともしない岸野と入れ替わりでバッターボックスに入る。


 恐らく岸野はこのまま顔を上げやしないだろう。

 だから俺がどれだけ強い当たりを打とうとも、それがヒットになるかどうかなんて判断できない。


 だけど一つだけ。

 文句の付けようがない勝ちを演出する方法がある。


 一球で決めようと思った。そうすれば岸野が悲しむ時間が少しは減るだろうから。

 一球で決まると確信していた。この程度のプレッシャーは、これまでだって何度も跳ね除けてきたから。


 マシンから放たれた速球を力感ないスイングで打ち返す。カキン、と気持ちの良い音を上げて飛んでいく打球は放物線を描いて左中間に伸びていく。

 ネットの真ん中にある、小さな丸い的。

 そいつに当ててお気楽なファンファーレを鳴らしてやった。


『ホームラン、ホームラン』


 俺はバッターボックスから出て、岸野にハッキリと告げた。


「俺の勝ちだ」

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