第11話 若草山と自分語り 1
宮下の行きたい場所とやらは大阪にはないらしい。奈良行きの切符を買って、再び快速急行に乗車する。
難波から奈良駅まではおよそ四十分ほどかかる。その間、俺たちはまた岸野について話していた。
とは言っても、俺は岸野についてほとんど何も知らない。だからそれを踏まえて教室での岸野の様子や一緒に野球を見に行くことになった経緯なんかを話していった。
こんな話面白いか……? と思ったが、宮下にとっては興味深い話らしく、相槌を打つたびに微笑んでみせる。
やがて会話が途切れ、スマホを観たり外の景色を眺めたりして時間を潰す。そうしていると奈良駅にたどり着き、改札を出ると宮下はそのままバス停へ向かい始めた。
「なあ、そろそろ何処に行くつもりなのか聞いていいか」
「若草山」
「え?」
予想外過ぎる回答に思わず聞き返す。てっきりカフェ的なところに入るもんだとばかり思っていた。
「まさか登らないよな?」
「そのまさかよ」
宮下は微笑み、それから今度は悪戯っぽく笑ってみせる。
「食べた分しっかり消費しないとね」
「一応その意識はあったんだな……」
「まあ私は食べても太らないタイプなんだけど」
全女性を敵に回しそうな発言を聞き流し、バスに搭乗する。横並びで二人席に座ると宮下が尋ねてくる。
「ちなみに登ったことはある?」
「確か小学生だか幼稚園だかの頃に、遠足で一回だけ」
「そう、じゃあ夜に登ったことはないのね」
「というかそもそもあそこって夜に入れるのか?」
「受付時間内に入れば下山は何時でも問題ないの。ちょっとした裏技よ」
別に裏技ってほどじゃないだろ……と思いつつも一々突っ込むのはやめておく。
十分ほど経つと終点で下車。
そこからまた少し歩いたり階段を上ったりすると、麓の到着を示す立て看板と瓦屋根の小さな入場ゲートが見えてくる。
言うまでもなくこんな時間に登山者なんておらず、緩やかな傾斜を誇る若草山には赤々とした夕日が差していた。
「ギリギリ間に合ったわね」
「ほんとにギリギリだな……」
看板に書かれた開山時間とやらを見るに、後五分遅かったら無駄足だったらしい。ちなみに看板曰く、標高は三百四十二メートル。登山と言うよりはハイキングと言った方がニュアンス的に近いぐらいだろう。
……それでもまあしんどい。
なんせ今日は既に一日中歩き回っているのだから。
最低限の気遣いとして一応宮下の荷物を持ってはいるが、それでも宮下も結構辛いと思う。
実際俺たちの口数は極端に少なく、宮下の額には汗が滲んでいた。何故彼女は突然こんな提案をぶっ込んできたんだろうか。
疑問に思いながら石畳の階段を上っていく。
左手には山とは思えないほどに綺麗な芝が一面に広がっていて、時折鹿が集団で戯れている様子が見て取れた。
どうやら宮下の目的はあくまでも山頂にあるらしく、一重目、二重目を迎えても立ち止まることすらせずひたすら登り続ける。それに連れて傾斜もキツくなり、時折隣から宮下の吐息が聞こえるようになってきた。
たった三十分。されど三十分。
山頂に到着しても俺たちはしばらく会話をせず、ベンチに座り込む。そのままぼんやりとした気持ちで目の前に広がる景色を一望していた。
黄金色に輝く空。
正面には生駒山が見えて、眼下には奈良盆地が広がっている。視界を遮るものは何もなく、自分が住む街を見下ろすことができるのはどうにも不思議な気分だった。
「綺麗でしょ」
「……まあ、そりゃそうだが」
流石に今回ばかりは疑問を飲み込むことはできなかった。
「なんでわざわざこのタイミングで?」
「貴方と話したいことが山ほどあったからよ」
「…………」
「山だけに、ね」
「…………」
俺が無視を決め込むと宮下はコホンとわざとらしい咳払いをする。
「言葉だけじゃ伝わらないと思ったの。そういう話をするために来たつもりよ」
……その言葉の意味を全部理解できたわけじゃない。それでも宮下にとってここは大事な場所で、ここに来た意味があるんだということはハッキリと分かった。
「さて、何から話そうかしら……。そうね、相沢君は今日一日楽しかった?」
「あ、あぁ。おかげさまで」
「私も楽しかった。葵が来れなかったのは残念だけど、それも気にならないぐらい」
本当よ? と悪戯っぽく笑って宮下は続ける。
「でも、最後にピアノを弾いた時に思ったの。私、ピアノ好きなのにどうしてやめちゃったんだろって。……後悔だけは絶対にしないって決めたはずなのに。だからちょっとだけ、貴方に八つ当たりしちゃった。同じかなんて分かるはずないのにね。ごめんなさい」
唐突な謝罪を手で制する。
同じかどうかは分からないと宮下は言うが、少なくともその言葉に共感してしまっている自分がいた。
「ねぇ、私の話、聞いてもらってもいい?」
「そのためにここまで来たんだろ」
「それもそうね」
宮下は少し間を開けた。
それから何かを決心したかのように頷いて、言葉を紡いでいった。
「私ね、両親が音楽家なの。父は指揮者で母はヴァイオリニスト。だから当然自分もそうなるんだと思って、物心ついた頃から毎日ピアノの練習ばかりしていたわ。妹と一緒にね。相沢君は私の演奏、上手いと思った?」
「あぁ、疑いようもなくそう思ったよ」
「ありがとう。私もそう思ってる。……今でもね」
宮下は言葉を止めて、静かに街を見下ろす。それから長い息を吐いて、続けた。
「両親はあちこちに飛び回っているから中々帰って来れないんだけど、会うたびに私の演奏を誉めてくれたわ。また上手くなったねって。でも、妹は怒られてばかりいたの。それも私の時とは大違いで、時には声を張り上げて怒られる時もあったぐらい。私はそれを妹に才能がないから怒られてるんだとばかり思っていたわ。当時はあの子もそう思っていたでしょうし。でも、どうやらそうじゃなかったみたい。それを疑うようになったのは、いつからだったかしら」
宮下は自虐的に笑って続ける。
「連弾したりするとね、どうしても気付いてしまうの。足を引っ張てるのは自分の方だって。最初は信じられなかったわ。だって今でも二人は私を誉めてくれるし、妹は怒られてばかりいる。でもコンクールで先に名前が挙がるのはいつだって妹で、私はその次に甘んじていた。その意味が分からないほど私も馬鹿じゃない。二人があの子を怒っていたのは、期待していたからこそなんだって気付いたわ。でもね、私がその意味に気付いた頃には妹は二人と一緒に海外で暮らすようになったの」
俺は何も言えなかった。
努めて明るい口調で話そうとする宮下の話を、ただ黙って聞くことしかできなかった。
「それから三人が帰ってくる頻度は目に見えて減ったわ。私はおじいちゃんおばあちゃんと仲良く三人暮らし。もちろん毎日楽しいし、両親が帰ってきてくれた時はうんと優しくしてくれる。いつだってそれが二人の優しさだったんだもの。何不自由なく、寧ろ贅沢なぐらいの暮らしをさせてもらっているわ」
宮下は視線を自分の荷物に向けて、子供のように笑ってみせる。
「それでもピアノはやめなかった。寧ろやる気になって、絶対に追いついてやるって毎日必死に練習して。でも、妹のコンクールを海外まで見に行った時にありありと浮かんでしまったの。三人がコンサートで一緒に演奏している光景が。どう考えてもそこに自分がいないことだけが、ハッキリと分かっちゃった。だからその日に両親にピアノをやめるって伝えたの。二人とも全く怒らず、静かに私を抱きしめてくれたわ」
宮下の話はそこで終わった。
何も言わず、ただジッと街を見下ろし続けている。
俺は相変わらず何も言えず、というか何かを言うことを烏滸がましいと思うようになっていた。
間違いなくこの話に、気休めにもならない慰めの言葉なんていらない。
「相沢君はさ、野球をやめて毎日楽しい?」
「いや、それは……。正直まだよく分からんとしか」
「私もよ。だから貴方とは初対面な気がしなかったんだと思う」
「というかずっと思ってたんだけど、どうしてお前はそんなことまで知ってるんだよ」
「察しはついてるでしょ?」
「そりゃまあそうだけど……。そもそもまずそこに疑問があるからな俺は」
「その答え合わせをするのは貴方の話を聞いてからにしましょう」
宮下は楽しげに笑って、ビシッと俺の方を指さす。
「貴方のターンよ」
「これターン制だったのか……」
こんな壮大な話の後に自分語りするとか嫌すぎる……。俺と宮下、似て非なる者どころか全然違うものじゃねーか。同じだなんてとんでもない。
「嫌だなぁ……」
俺は独り言を零し、どうにも情けない自分語りを始めることにした。
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