38.セイレーンの歌声

 聖地ヴゴの森。

 傾いた日の光が木々の間に差し込み、幻想的に光が舞う。水晶が木々から生え、宝石の森が広がっていた。かつて、この森の美しさに感動した人々が、女神オリビアが遺した聖地として崇め奉った。その神聖な地が今、おびただしい血を流す戦場と化していた。


 主戦力である黒狼隊の潤沢な武器の攻めにより、最初の内は順調に勝ち進んでいるかのように見えた。しかし、ルーナの言った通り、入り組んだヴゴの森の地形により詳しい獣公国側が有利に勝ち進める場面もぽつぽつと増えてきて、戦は全体として難航しだした。


 そんな中、ルーナ隊は敵に背後をつかれる形で敗走していた。予想外の濃霧と入り組んだ森の地形で味方を分断されてしまったのだ。


「死体だッ」


 ハイエナ男のジョエル副隊長が叫んだ。


「ルーナ! 奴らは戦死体を利用したと思われます! 大量の死体を森へ移送して放置し、セイレーン達を集め、霧を意図的に発生させたんです! セイレーンは霧を生み出すから......。いけない、このままではさらに味方が分断してしまいます!」

「一回本陣に合流するわよッ」


 ルーナが叫んだ。


殿しんがりは私がやるわ!」


 ルーナは隊の一番後ろまで馬を走らせた。


「ルーナ! 東の方角から敵兵が!」


 けたたましい雄叫びと共に獣公国の兵士達が東から走ってくる。


「なっ! なんで東から来んのよ! 向こうは黒狼隊が居るはずでしょ! ちぃッッ、ここは私が守るわ! 皆とにかく、全力で走りなさい! 行けッ! 行きなさいッ!」


 ルーナは隊を逃すため、自ら命がけの殿を務める。他の隊員が命令の通り真っ直ぐ馬を走らせる。

 しかし、アランはルーナが心配になって馬を減速させた。


「ルーナ......!」


 振り返ると、濃霧で何も見えない。おそらくはルーナが敵と戦っているであろう金属音は聞こえる。それとは別に、


 ......ズーン、ズーン


 という地鳴りの音がどこかから聞こえた。地震のようだが、そこまでの揺れではない。だが、その音を聞いたと途端、


「ヒヒーーンッ」

「えっ......ちょ、ちょっとうわっ!」


 アランの馬が暴れ出した。


「止まれ! 止まれったら! 怯えてるのか......? うわあ!」


 アランは馬を制御しきれず地面に投げ出されてしまった。馬はそのままどこか霧の中へ逃げていってしまった。


「え、嘘......」


 アランは呆然と立ち尽くした。気づけば周りに誰もいない。もはやルーナ達の戦う音も聞こえない。ただ濃い霧が広がるのみだった。


 アランは完全に孤立してしまった。


「お、おーい......。誰か、いない、......か......」


 途中で押し黙った。

 バサッバサッという大きな羽音が聞こえたからだ。アランは瞬間的にそれがなんなのか、理解した。


《危ないから一人で小便行ったりしちゃダメでござるよっ。アラン殿のように弱そうな男は狙われやすいでござるっ》


 ケンタウロスのケンのセリフが脳裏を過ぎる。


「キシャアアアアァッッ」


 アランは口を両手で塞いで木の影に隠れた。


 ――セイレーンだ。


「――――っ」


 最悪の状況だ。


 濃霧のせいでセイレーンが何匹いるかわからない。対して、仲間とはぐれたアランは一人。馬で逃げる事もできない。

 アランは、セイレーン達が荒野で牙を剥き出しにして死体を抉っていた姿を思い出した。襲われたらひとたまりもないだろう事は簡単に想像がつく。

 咄嗟に物陰に隠れたが、セイレーンはこちらに気づいているのだろうか?


(何やってるんだ、僕は......)


 仲間とはぐれ、ルーナを助ける事もできず、馬に置いてかれてしまった。戦で何か手柄を立てるでもなく、何故か一人孤立してセイレーンに見つからないように隠れている。自分の情けなさ、ふがいなさでぎゅっと心臓がはち切れそうに感じた。


 その時、美しい歌声が響いた。


 女性の歌声だ。

 まるで魔法のようだった。アランの心に響き、強く揺さぶった。力強く美しい歌声は耳をくすぶり、心を満たしてくれた。さっきまで悔しさでいっぱいだった心が嘘のように幸せな気持ちになる。


 アランはゆっくりと木の影から出た。目の前には歌声の主がいた。


 歌声と同じだけ美しい女性だった。


(ああ......なんて......綺麗だ......)


 感動で涙がこぼれた。

 目の前の裸の女性はすらりとした真っ白な右手で自身の体を触った。ふともも、腰、へそ......徐々に上へ滑らかに手を滑らせる。

 さくらんぼのように紅潮した頬。艶のある魅惑的な唇。底の見えない真っ黒な瞳。女性は妖艶な笑みを浮かべた。


「あ......あ......」


 アランはボロボロ泣きながら両手を伸ばした。


 ――もう戦とか、元騎士として戦士としての誇りだとかどうでもいい。


「僕は......僕は頑張ったんだよぉ......。皆して僕の事、雑魚だの弱虫だのママだの言ってぇ」


 女性は優しく微笑み、頷いた。


「うぇぇ……もう僕の事を理解してくれるのは君だけだ」


 涙が後から後から流れ出る。止める事などできない。今すぐ、あの白く柔らかな胸に顔をうずめたい。優しく抱いて頭を撫でて欲しい。


 一歩また一歩とアランの足が女性に向かっていく。


 一歩、また、一歩。その度に......その度に、――徐々に、


 顎が外れ関節部からありえないくらい伸びる筋肉が露呈する。


 けれども、アランの足は止まらない。


「シャアアァッ」


 女__セイレーンの大きな牙が、アランの頭の真上でギラリと光った。

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