3曲目

夏の日差しが動けない自身の肌を刺す。ついさっき迄小雨がちらつく程だったのだが、急に日差しが出てきた。此れだけ暑くては砲塔も嘸かし熱くなっているだろう、と戦艦榛名は黒光りする主砲を振り返った。兄弟とお揃いの、三十六糎砲。とは言え、同じ大きさの砲を持つ彼等はもう何処にも居ないのだが。

(此れからどうなるんだろうか、僕達。身じろぎすら出来やしないのに。生きていると、言えるのだろうか。ねぇ、金剛お兄、僕も一緒に沈んでいれば、こんな事考えなくても――)

榛名の思考は、その時波の向こうから聞こえてきた微かな歌声に遮られた。

「――れは――みのこ、しーら――みーの――」

風に乗って来たのだろうか。切れ切れだが、其れでも歌だという事は分かった。少し掠れの混じった、青年の声。その響きを耳にして、榛名はふっと声の主に目をやった。

「……伊勢?」

「ん、榛名か。どうした」

「いや、伊勢、何か歌ってたでしょ?」

彼がそう指摘すると、伊勢と呼ばれた青年は少し照れた様に頭を掻いた。

「って、聞こえてたのか……ま、そりゃそうか。日向に届くならお前にも分かるわな」

「日向に?」

軽く頷いて、伊勢は口を閉じた。耳を澄ませてみると、確かに島の向こうから囁やかな歌声が聞こえてくる、気がする。先程の歌の続きだろうか。

「な?」

「ああ、うん、本当だ……日向も歌ってるんだ。でも目立たない? これ」

自身の艦橋に張った網と砲塔に施したダズル迷彩を横目に見つつ、榛名は浮かんでいた疑問をぶつける。必死に隠れているのを棒に振る様な歌声だったが、彼は「何を今更」と肩を竦めるだけだった。

「どうせとっくにばれてるって。ほれ、其処の、天城だったか利根だったか、に彼方さんからビラ撒かれたらしいんだから。擬装の木ぃ枯れてるぞー、って。あいつら怒り散らかしてたぜ」

「そう……」

榛名の微妙な顔に気付いているのかいないのか、伊勢はひらひらと直ぐ近くの空母に手を振った。相手の空母を見ると、成る程此れは、確かに樹木が茶けている。天城、と呼ばれた空母上の少年も此方に手を振り返している。そんな彼等の様子をぼんやりと見ていると、不意に伊勢が振り返った。其の顔は薄く微笑んでいる。

「どうだ、榛名。お前も一緒に」

「え……でも、」

(……僕だけが、そんな、楽しんでも……皆頑張ってたのに、僕だけ……金剛お兄は怒らないだろうか。比叡お兄は呆れないだろうか。霧島は笑わないだろうか)

「……いや、僕はいいよ。兄弟に……悪いし」

そう遠慮すると、伊勢は一瞬きょとんとして軽く目を見開いた。断られるとは思っていなかったらしい。だが其れも束の間、「逆だ」と榛名を指差した。

「て言うか、榛名。お前、ぼく達がただ楽しいからみたいな単純な理由で歌ってるとでも思ってんのか」

「え、いや、違うの?」「違う」

即答だった。誤解されていたのが不満なのか、伊勢は微かに不満げな顔で目を逸らした。

「ぼくは此れ以外に、声を届ける術を知らんからな。遠く離れた所にも……海の底にも」

「……海の」

「自己満だって笑いたきゃ笑え。なら、届く。はず。きっと。はは、鎮魂歌、ってな。上手く行きゃ長門ん所まで聴こえるかも。其れに……歌っている間は何も考えずに済む。忘れられるだろ」

「忘れて……いいの?」

榛名の問い掛けに、伊勢は軽く肩を竦めるだけで答えを返した。

「さぁ? ぼく達は忘れる様には出来てないからな。でも……態々人間様の真似してるんだ、此れ位は赦されて然るべきだろ。多分」

そこまで言うと、話は終わったとでも言う様に彼はついと島の遠くへと顔を背けた。暫く押し黙っていたが、やがて其の口から再び歌声が洩れ出る。

「――うーま――て、しーおに、――あみしーて――」

「……なーみを、こーもりーの、うーたーとー、きき」

何となく背中を押された気分になって、つい釣られて口が動いた。聞き覚えのある歌詞だから、勝手に旋律が出て来る。ふたり分、と遠くから鳴り渡るもうひとつ、歌声が軍港に響いていた。

(ああ、この歌やっぱり聞いた事ある……昔、確か進水したての頃……真っ暗闇が怖くて霧島と震えていたら、比叡お兄が歌ってくれたっけ。比叡お兄、歌上手かったなぁ。金剛お兄の鼻唄も綺麗だった……)

「わーれはまーもらーん、……っーみーの、くに……っ」

不意に声が詰まった。知らぬ内にズボンを握り締めていた手の甲、其の上にぽつりと雫が落ちる。其れが自らの目から落ちた物だと榛名が気付くのには、数瞬の刻を要した。

「……?」

拭っても拭っても、頬が乾く事はない。其れどころか鼻は詰まるし目頭は熱くなるしで散々だった。

(ゔう、目立つだろこんなの……! っ、其れに、此れでも僕、一番年上なんだから……でも……!)

「……でも、やっぱり、逢いたいよ……金剛お兄、比叡お兄、霧島……っ!」

今まで押し込めてきた感情が、堰を切ったように溢れてくる。堅く握った手の平に爪が喰い込むのも、最早榛名にとっては問題では無かった。

「ひとりは嫌だよ……置いて行って、欲しくなかった……」

榛名の様子を見かねたのか、伊勢は無言で榛名に小さな布を投げて寄越す。いつしか其の口から歌声は止まり、何かを堪える様に堅く結ばれていた。そんな伊勢の様子を見て、未だ榛名の眼は湿ったままだが、其れでも強い決意が浮かんできた。

(……そうだ、まだ伊勢も日向もいる。長門だって、きっと横須賀でひとり立っている。休めないよ、年長だから。逢いたい、逢いたいよ。でも、まだこの国の為に立っていたい。此れだって、僕の本心なんだ)

「――ありがとうね、伊勢。大丈夫だよ」

此れ以上心配は掛けまいとして、無理矢理微笑む。そんな榛名の機微を知ってか知らずか伊勢は一言、そうか、と呟くだけだった。

「もう少しだけ立ってなくちゃね。折角、兄弟の分まで帰って来たんだから」

「さっき迄べそ掻いてた奴が何言ってんだか……」

「う、うるさいな!」

先程受け取った小さな布を、抗議の意味も兼ねて力強くぶん投げる。伊勢は呆れた様に微苦笑していたが、特に避ける事もせず飛んできた其れを掴んだ。一瞬の間の後、押し殺した笑い声がふたり分軍港を満たしてゆく。港でも一、二を争う巨艦が笑い出した事に周りの空母や巡洋艦はきょとんと様子を伺っていたが、其れでも付近の艦艇の様子は以前より明るく綻んでいった。


時は昭和二十年七月二十三日。薄曇りの空から日光が射していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る