4章:喜多島穣⑨

『くまのみ』のフェロモンはヒトを、オスのケモノへ変える。

 それ故に、社会秩序を乱す存在として『くまのみ』に差別的な意識を向ける者は、未だ根強く残っている。

 そしてフェロモンを口実に、強姦を行う輩も、後を絶たない。

「…………」

 だから、警戒しておくべきだったのだ。

『くまのみ』の居住用に改装改築された家屋には独特の特徴が表れ易い。

 にとっては寧ろ、目印にさえなるだろう。

「はぁ、はぁ……ふへへ」

 汚い、男の声だった。良かった。知り合いに似た声はない。

「ずっと、ずっと狙ってたんだ」

 サングラスを、次いでマスクを引き剥がし、男の整えられていない口元が露わになる。暗がりでもそうと分かる、黄ばんだ歯が見えた。

「今飲ませたのは、誘発剤ですか?」

「へぇ、よく分かるね。そうだよ。キミらの体から採れたやつさ」

『くまのみ』のフェロモンは生殖機能に関する薬にもなる。

 田所医師から聞いた話だ。不妊治療や勃起不全など、様々なことに効果があるらしい。ヒト由来であるため効き易く、拒絶反応も現れ難いのだとも。

 そしてそれらの薬の一部は、『くまのみ』に投与すれば

 生理周期を無視して、発情期に近い状態を再現出来る。のだとも。

 そして、それを悪用する輩も居ると。

 そのクソ野郎の一人が、今回は自分を標的にしたらしかった。

「残念でしたね。起伏の少ない体で」

「そこがいいんだよ。その制服、ボクも通ってたからわかるよ。県農だろ?」

 堪え切れなくなったように、男は啜り笑いをする。いちいち不快な人だと思った。

「高校生でっ、その見た目、ぐふゅ、ささ、最高すぎるよぉ……!」

 今までで一番、褒められて嬉しくない。

 幸い、今のでどこかを痛めたわけでもない。動ける。

 薬もまだ効いてない。

 問題は

「ふひっ!落ち着いてるね。こういうの、やっぱり期待してた?」

 何処へ逃げるにしてもクソ野郎が近過ぎる。

 触んな

「ふぉ、ぷにぷにだぁっ……!ほっぺも、く、くちびるもぉっ!」

 苛々も恐れもどこか他人事のように遠い。自分でも思いの外、自分は冷静だった。

 さて

 調度良いところに指が来たので

 やることをやろうと思った。

 不本意ではあるが。

「――いっ⁉」

 男が手を引っ込める。指には血が滲んでいる。

「ぶっ⁉」

 その手を、立ち上がる勢いをそのままに目、鼻を狙って押し込む。親指は唇に、人差し指は鼻の穴を引っ掻いて

「うおおぉ⁉」

 体勢を崩した男は玄関の段差を踏み外し

「――――」

 調度良い高さにまで下がった顎に掌底を叩き込む。

 オートロック式の玄関扉は、男がぶつかった程度では壊れることはなかった。

「――」

 緊急時はこの頑丈さが却って危険なのでは?リビングへ逃げながらふとそんなことを思った。

 裏庭から外へ。避難経路を組み上げていく頭に

「きぃやああぁああっ!」

 甲高い男の絶叫が響いた。

「――!」

 ドアモニターの下に設えられた赤いボタンを、カバーの上から力任せに叩く。病院に繋がる緊急通報ボタン。運が良ければ警察か警備会社へ通報してもらえるだろう。

 食卓を横切り居間へ。いつもはすぐに着く筈の、裏庭へ出るための窓が、今は少し遠く感じられる。

「ぃあぁっ!」

「――っ!」

 奇声。不意に体を横へ少しずらす。ただなんとなく。そうした方が良い気がして。

 次の瞬間、横のソファの背もたれに何かが刺さった。

 ナイフ。家のものではない。そう認識して、取り敢えず抜いておく。また走る。

 窓まであと少し。

「――?」

 あとほんの数センチで鍵に手が届く。そう思った瞬間、

「ぅ”っ!」

 そしてしたたかに窓に頭をぶつける。

 硝子が割れなかったのは幸か不幸か。気を失わなかったのは間違いなく幸だろが。

 すぐに後ろを振り返る。食卓と居間の境目のあたりにに居る男が見えた。足下に転がるテレビのリモコンもついでに。

「……っ!」

 頭が痛い。片目が上手く開かない。流血で塞がれでもしたのだろうか。

「オスガキが、病人のくせに調子乗りやがってぇっ!」

 怒りで顔を皺だらけにした男がよたよたと駆け寄ってくる。

「――――」

 左手の硬い感触に、いやでも意識が向いてしまう。

 逡巡は、それが許される時間はほんの一瞬だけ。

「――ひっ⁉」

 迫る男へ向けて、ナイフを差し向ける。

 案の定、男は血相を変えて急停止した。

「…………」

 ナイフを向けたまま立ち上がる。

 後ろ手で鍵を開ける。

 音でそれに気付いた男が、向かって来ようとするが、そこに壁でもあるかのように踏み込んでは来ない。

「い、いいのか?ボクを殺してっ!捕まっちゃうぞぉ!」

「……」

 窓を開け放つ。男の焦燥が見て取れた。

『――もし?――もしもし⁉』

 看護師さんの声がドアモニターから聞こえた。

 反応が無いからだろう。声に次第に焦りが滲み始める。カメラで今の状況を確認するまで、あとどれだけかかるか。

「――助けて下さい!襲われてます!」

 駄目押しに叫ぶ。

「っ、このぉ……!」

「――」

「っぐぅぅぅっ!」

 男は声を絞り出し、震えている。トイレを我慢してるんだろう。

 ドラマで松田優作さんがやっていたアクションシーン。人は武器を向けられれば、迂闊には近付けない。

 開け放った窓を目で示す。出て行けと。

「~~~~っ、くそがっ!」

 捨て台詞を吐いて、男は横を通り抜けていく。出て行った瞬間にすかさず窓に鍵をかけた。

「――もしもし」

『⁉良かった穣さん!大丈夫?今見たら、なんか――』

「はい。取り敢えず自分は大丈夫です。里安君は外出中です」

『良かった……っ!警備会社と、警察にも通報したから、ちゃんと隠れててね⁉』

「ありがとうございます。ご心配おかけしました」

 看護師――宮野さんは、かなり迅速に対応してくれたようだった。

『――――――!』

 男の絶叫が窓越しにも聞こえる。

「――もしもし。――はい。家に変な男が押し入って来て、――はい。外には追い出せたんですけど、まだ庭に居て、すぐに来てください」

 こちらからも警察へ通報。

 侵入防止のため『くまのみ』用に改装された家屋は、塀や生垣で周囲を囲まれている。

 唯一の出入り口である扉もオートロック式で、出る際にもキーを使うか、家の中から操作をする必要がある。

 扉以外からの出入りは容易ではない。

『――――――っ!』

 裏庭へ戻ってきた男が、窓ガラスを叩く。

 見たところ、男の運動能力はそれ程高くない。

 つまりはそういうことだ。

 程なくしてサイレンが聞こえてきた。

 乗り切れた。そう息を吐く。

 に似た感覚が、体を芯からじんわりと、熱し始めた。

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