4章:喜多島穣⑥
「いや、すまないね。勇魚の様子を見に来たんだが、……そうか。実習か」
取り敢えず麦茶を出した。夕飯の準備を進めていいと、言われはしたものの、話し掛けられている中で、それは中々に無理があった。
「殆ど経験が無いな。やっぱり手や服は汚れたりするだろう?」
「そうですね。トマトの世話なんかは特に」
「あの子にもさせた覚えが無い。――どうだろう穣さん。君の目から見て、勇魚は今、楽しそうかな」
里安君の話から抱く印象と、今ここに居る里安さんに抱く印象はあまり一致しない。
寧ろ、好感を抱いている。
「少なくとも文句、というか不平は聞きませんね」
「――そうか」
そう呟く声もどことなく、嬉しそうに聞こえる。
「君は?」
食材に伸びかけた手が引っ込んだ。
「あの子と一緒に暮らしていて、何か不都合を感じたりしていないかな?」
「……?」
「恥ずかしい話、一緒に居る時間をあまり作れていなくてね。妻と別れてからは特に。家事も家政婦に任せていたから、させた覚えもない」
いや違うな。そう話を一旦切り、里安さんは首の後ろを揉んだ。
「何が出来るのか。私はちゃんと分ってやれていなくてね」
苦笑する里安さん。それは本心を語っているように思われた。
あくまで、自分の感覚に過ぎないのだが。
「だから、どうだろう?」
「不都合なんて、とくに……」
寧ろそれは自分の方だろう。それが何か分からずにいるが。
「家事も、やったことがないから覚えたいって、積極的に、色々と助けていただいています。特に料理は、楽しそうに、見えます……」
「ほう。綺麗にされているとは思っていたが、そうか……」
「彩崎さんにも来ていただいていますから」
「そう言ってもらえると気が楽になるよ。彼女は――彼の娘でね」
「――っ⁉」
里安さんの視線を追うと、リビングの入り口に一人、中年男性が立っていた。彼は目を伏せたまま反応を示さない。
「そう、だったんですね。――いつもお世話になってます!」
「恐れ入ります」
そう静かに一礼した。当然のことなのだが、「動いた」「喋った」と失礼なことを考えてしまった。
「君は、元々アルバイトをしていたのだったかな?」
「はい。スーパーで」
「なるほど。道理でしっかりしているわけだ」
里安さんが声を弾ませた。
「いえ……」
「何事も経験だ。君が経験したことは君だけの強みになる。自身を持っていいことだ」
「――はい」
使い古された言葉。しかし不思議と染みる。決して嫌ではない、恥ずかしさ。
「これからもアルバイトはするつもりかい?」
「出来れば……はい。進学を考えているので」
「そうか。なら市役所に相談してみると良い。受け入れてくれる職場は申請することになっているから、一般のサイトやアプリよりも簡単に見つかるだろうから」
「――は、はい!ありがとうございます」
知らなかった。
里安さんが立ち上がる。
「お茶ありがとう。勇魚に会えなかったのは残念だけど、君と話せてよかったよ」
「あ、こちらこそ、ありがとうございました……!」
リビングの入り口からちらりと台所を覗いて、里安さんは苦笑を浮かべた。
「夕飯の準備のことごめんね。君や勇魚の作った料理をいつか食べてみたいな」
「はい、いつか、ぜひ……っ!」
「体質のことは色々大変なこともあるだろうけど、応援しているよ」
見送りはここまでで構わないからと、里安さんは帰っていく。彩崎さん、のお父様が最後に一礼して扉が閉まり、ほどなくして車のエンジン音は遠ざかっていった。
「…………」
………………
「はぁ……――――」
何だかどっと疲れた。
気晴らしのためにも、台所へ戻る。
それから時間を置かず、里安君が帰ってきた。
里安さんが来たことは、なんとなく黙っておいた。
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