4章:喜多島穣④

 実習棟へ向かってずんずんと歩いていく里安君。その背までの距離を埋める頃には、男子の更衣室にまで辿り着いていた。

 思い出したように立ち止まった里安君に気取られないように、弾む呼吸を押し殺す。

「――あ、鞄。すいません取ってきます」

「持って来てる」

 教室へ戻ろうとした自分の前に、鞄が差し出された。

「あ、ありがとうございます。……重くなかったですか?」

「いや、大して」

「そう、ですか……ありがとうございます」

 鞄を受け取って、改めてお礼を言う。そして

「…………」

 そして……

「……」

 里安君が何かを言おうとしている。と思うのだが、腕は鞄を差し出した形のまま固まって

 こちらをじっと見詰めたまま、何も語ってくれない。

「えと、じゃあ、あとで……?」

 気のせいだったのだろうか。女子更衣室へ向かおうと踵を返したそのとき

「悪、かった」

「――?」

 突然謝られた。

「別に邪魔、とか、するつもりはなかったんだ。なかったんだけど……」

「……先輩のことですか?」

 ばつが悪そうに首の後ろに手を当てて、里安君は頷く。

「えと、こういう場合は、多分自分じゃなくて、先輩に言うべき、じゃないかと……?」

「……まぁ、そう、なんだが……」

 どうにも里安君の言動の、歯切れが悪い。

「苦手ですか?先輩のこと」

 以前から感じていた微かな違和感。質問に対して、里安君は視線を逸らした。

「直接、あの先輩がってわけじゃない」

 そう呟く里安君の声は、なんとか聞き取れるほどに小さく、体もいつもより一回り小さく感じられた。

 目が合う。すぐに逸らされる。

「――?」

「……いや、なんでもない。……ごめん」

 堪り兼ね、意を決する。

「――く、くろ……さんっ!」

「――⁉」

 里安君は驚き、みるみる顔を赤く染めていく。

「自分、ずっとくろ、さんに、我慢させちゃってますよね?でも、その、ごめんなさい。それがなんのか、分かんなくて……」

 やっとこちらをちゃんと見てくれた。里安君に一歩近付く。

「教えてください。駄目なところ、頑張って直すので……っ!」

「駄目なとこなんか……!……駄目なとこなんかねぇよ」

 瞬間、里安君が声を荒げた。喧騒がその刹那、遠退いた。

「これは、俺の問題なんだ。だから」

 ゆるゆると首を振って、里安君が踵を返す。ひどく疲れたような足取りで。

「穣には関係ない」

 それ以上のやりとりを拒むように、その一言と同時に、更衣室の扉は閉められた。

「…………」

 その小さなぱたんという音と同時に、自分の中から何かが抜け落ちていくのを感じた。まるで浴槽の栓を抜いたように。

 踵を返す。更衣室へ向かう。足取りは重くはなく、至っていつも通りに。

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