三章:秘匿 独占 ひとりじめ④

 入浴までを手早く済ませ自室へ、この焦りを気付かれないように静かに駆け込む。

 カレンダーには印が付いている。それは今日から二日後だった。

 ピルケースから薬を取り出し。口に突っ込むように服用する。本来は飲んでおかなければならなかった薬を。

「――――」

 発情期だ。里安君と二人だけで迎える、初めての。

 フェロモンは、きっと薬が抑えてくれる。夕飯までは後二時間弱、薬が効き始めるまでには間に合う筈。あとは――

「…………」

 呼吸が荒い。――気のせい。胸がうるさい。――それもきっと気のせい。異変を全て気のせいにして、深く考えないようにする。

 発情期。意味を知っている人はきっと、性欲が高まるのだと考えるだろう。

 間違ってはいない。それもある。しかし『くまのみ』の発情期はそれだけではない。寧ろ性欲よりも厄介なことがある。こればかりは体験しなければ理解出来ないだろう。

「――」

 寒い。――そう、寒さのせい。寒さのせいだ。四月も末とはいえ朝晩は肌寒い。この体になってから、寒さに弱くなったから。

 呼吸を整える。それでも体の芯は震えている。じんわりと熱を灯して。

 肌に感じる虚しさを埋めたくて布団にもぐり込む。まだ足りない。枕を抱き締め、胎児のように体を丸める。

「――、――、――」

 まだ足りない。まだ、収まらない。枕の端を噛む。歯ではなく、唇で啄むように。

 寂しい。

 切ない。

 もどかしい。

 里安君の、あの顔が脳裏に浮かぶ。

 包丁を握る手が浮かぶ。

 見上げる程に大きな体が浮かぶ。

「穣」自分を呼ぶ声が浮かぶ。

「――――っ!」

 浮かび上がるそれらが、頭の外に追い出せない。埋め尽くされていく。

 頼めばそうしてくれるだろうか。「バディ」だからと。

 出来ない。出来るわけがない。

 誰が許しても、自分だけは赦せない。

 抱きしめてほしい、などと。

「――は、…………はぁ、……っ!」

 体がじりじりと疼いている。

 片腕は枕を抱き締めたまま、もう片腕は自然と股間へ這っていく。

 罪悪感は強烈に。しかしそれでさえ阻めない。

 寂しい、のだ。叫び出してしまいそうなほどに。

「――ふ……く、ぅ……っ、……ぁ……っ!」

 自分のものとはにわかには信じられない、細く、甘い声。ただ指を当てているだけで、気分が幾らか紛れてしまう。まるでケモノだ。そう自分を蔑んでみても、体から疼きは引かない。

 発情期で本当に厄介なものが、今自分がさらされている尋常ならざる寂寥感、人恋しさ。

 これは薬でも消せない。寧ろ、副作用はこれを増長する。

 どうしようもなく他者の体温を、手の感触を、鼓動を求めてしまう。

 必死に、言い聞かせる。

 気のせいだと。

 なんでもないと。

 誰にも迷惑を掛けたくない。

 自分なんかが

 気持ち悪い。

 だから、早く、落ち着け。

「――――っ!」

 足音が向かってくる。何かあったんだろうか。それとも里安君もただ自室へ戻るだけだろうか。

 気配を殺す。足音にじっと耳を澄ませる。

 足音が止まる。襖の前で。

「――穣、洗濯機回すけど、他に何か入れるものあるか?」

 優しいノックの音に続いて、そんな声が流れ込んでくる。

「――ぁ……っ!」

 大丈夫です、と。ありがとうございますと、返そうとして、声がつかえた。ずっと声を押し殺していたせいで。

 はやく返事をしないと。

「……穣?」

 心配させてしまう。

 体を起こそうとして、体勢を崩す。

 まずい。そう思ったときにはもう、布団へ倒れ込んでいた。音がしなかったのは幸いだが

「大丈夫か?」

「……っ!」

 一言、ただ一言大丈夫と返せば、何事もなく終わる。のに。その一言が出せない。

「……入るぞ?」

「ぁ――待……っ!」

 遅い。里安君を止めるには、声はあまりにも遅かった。

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