不揃いの歯車 或いは棘を持たない獣⑥

 初登校を何とか乗り切り家路につく。

「――――」

 ドアノブに手を掛けて、里安君が動きを止めた。

「――?」

「誰か来てるかも」

 声が少し硬い。つられて肩に力が入る。

 案の定、というべきか。鍵は開いていて、きっちりと揃えられたスニーカーが、隅に一足増えていた。

 里安君のものよりも小さい。女性、だろうか。

「…………」

 小さく里安君が息を吐く、音が聞こえた。溜め息か、安堵か。どちらのようにも聞こえた。

 いつもと違い、里安君は明確に足音を殺して玄関を上がる。相手は何者だろうか。彼の緊張が見て取れる。倣って静かに靴を脱いだ。

リビングへ近付くとふと、甘い匂いがした。お昼のフレンチトーストだろうか。

「――お、勇魚おかえりぃ~」

 目をむくほどの美女が、へにゃっと人懐っこい笑みを里安君へ向けた。

「……すみ、来るなら連絡入れてくれ。親父の刺客だと思った」

 里安君はようやく、盛大に安堵の息を吐いた。刺客って。

「――と、あなたが喜多島さん?」

「はっ、はい!」

「初めまして。彩崎墨ささきすみです。あなたと同じ『くまのみ』で、勇魚の幼馴染みで、婚約者です」

 整った顔を笑顔で彩り、彩先さんは謳うように滑らかに挨拶をしてくれた。

「あ。里安君から聞――お伺いしています。喜多島穣です」

 居ずまいを軽く正して、おずおずと頭を下げる。里安君の不機嫌な声が下げた頭にぶつかる。

「すんなり受け入れんなよ」

「――?」

「えー、照れんなよぉ~?」

 彩崎さんの声色がぐにゃりとうねった。先程までの整えられた、「すてきな女性像」が一変、目も口も月のように弧を描いて、気配まで含めた全身でにやにやしている。

「あ~~~~……!」

 腕に絡み付かれ、つんつんされている里安君は、未だかつてないほどいらいらしているように見えた。

「親同士が勝手に決めたんだ。こいつが『くまのみ』になってすぐにな」

「あー、なるほど」

 政略結婚、というやつだろうか。自分にはよく分からない。

「でもラッキーだよねぇ、勇魚ぁ?美人で、相性良くて、スタイル最強の、美人の幼馴染みの、許嫁なんてさぁ?」

 主人公じゃん。隣に並ぶ二人の姿は、その道に疎い自分の目にもぴったりに見えた。

「こぉーんなに、眉間に皺寄せるのも、わたしと居るときだけだもんねぇ?」

「お前がさせてるってのもあるけどな?」

 彩崎さんは里安君の頬をぐりぐりしている。里安君はその指を、今にも噛みそうだった。

「~~ああ、もうっ!――つか、何しに来たんだよ?」

 手を払い除け、里安君は問い質す。

「家政婦だよん。ダンナサマから定期的に行くようにってさ」

 具体的には週一くらい?そう言って彩崎さんは鞄からロゴの入ったエプロンを取り出してみせた。

「あの親父は……っ!」

 吐き捨てる里安君は、しかしその先は口にしなかった。

「まぁ、監視目的だはあるんだろうーけど、心配ってのも込みなんじゃない?」

 視線が自分へ向けられた。

「実際ごはんは穣ちゃんに頼ってるみたいだし?」

「……ああ、そうだよ」

 彩崎さんの声色が少し、冷たく冴えた。

「二人とも平日は学校なんだし、料理も掃除も洗濯も、全部ちゃんとは難しいでしょ?」

「わ、わたし、出来ます!頑張ります……!」

 声は気付けば出ていた。誰の為かといえば、きっと自分の為。出来るか出来ないかを冷静に考えてはいない。

 出来ないと思われていることを、拒絶しようとしていた。

 今、目の前に居る彩崎さんにでは、ない。ずっと昔から今に至るまでの、それは――

「しようとする姿勢は立派だけど、二人は学生で、今も学校に通ってるのは、これからちゃんと生きていくため。自分の道を進めるようになるため」

 ぴしゃりと、けれどやさしく彩崎さんに諫められる。

「頼れる手があるときは頼っていいの。まして私は仕事で来るんだから。自分達の時間を作っていいの」

 彩崎さんの言っていることは至極正しい。拒む理由などどこにもない。それでも、尚も食い下がろうとしてしまう。この感情は、一体――

「勇魚も、ダンナサマから離れたいんでしょ?だったら進む道を見付けて進まなきゃ」

「…………っ」

 諭される里安君の顔は、尚も不服そうに見えた。自分はどうか。どんな顔をしているか。

「ああ、そうだな」

 長くながく息を吐き、里安君は観念した。顔は険しいままに。

「さ、とやす、くん……っ!」

 搾り出されるように声が出る。目が彼の方を向く。この後に何を続けるつもりだったのか。何を思っているのか。自分にもよく分かっていないまま。

「悪かった。俺そこまで考えられてなかった」

 目が合う。向けられた謝罪の言葉が何に対してのものかも分からない。

 よく分からないこの感情は、空の鍋ややかんを火にかけているかのよう。ただ熱だけが籠っている。

 そう、虚しい、と。分かっているのはただそれだけ。持っている意味など無い熱、昂ぶり。

 こんなもの一つ、満足に操れない自分がもどかしく、気持ち悪い。

 頭が上手く回らない。適切な答え、言葉が出て来ない。

「い、いえ!そんな……」

 ただ、今を何とか乗り切らなければ、その一念だけで、そんなことだけを吐いている。

「自由時間が増えるってくらいに考えれば良いよ」

「ああ、そうする」

 そう呟いて里安君は踵を返す。

「ん?勇魚どこ行くの?」

「鞄置いて手洗う」

「大丈夫?ひとりで行ける?」

「見くびんな」

「…………っ!」

 緊張が解けない中でのそのやりとりには、思わぬ破壊力があった。噴き出すのを堪えたことは、自分の中の熱を冷ます。

「あ、じゃあ、わたしも失礼します……」

「――穣ちゃん」

「――は、はい!」

 ただ普通に呼ばれただけ、の筈だが、何故だろう、首に背中に、冷たいものを感じた。平静をそれでも装いながら振り返る。

「よろしくね?」

 強い女の顔だった。強い女の顔で彩崎さんが笑っていた。

「――はい」

 その顔に、声に、自分の中の何かが落ち付いて行くのを感じた。

 自分はどんな顔で応じたのだろう。

 彩崎の反応を見るに、きっと、を引き当てられたのだと思う。

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