現実に重なった理想は、喜びなど生む筈もなく ――6
遡ること数日前、穣の見舞いに訪れた母――千尋は田所医師に呼び止められた。
「少しお話したいことがあります」
マスクで半分以上隠れた顔。それでももう何度も話をしている。それなりに打ち解けたつもりでもある。だから何となく彼女は察した。
あまり良くない話だと。
案内されたのはいつもの診察室。そこには穣のバディである里安勇魚が、椅子を前に立っていた。
「――こんにちは」
彼は千尋の顔を見るなり背筋を正し腰を折った。つられるように彼女も挨拶を返す。
「どうぞ、お掛けください。勇魚くんも」
促されるままに二人は腰掛ける。
「穣のことですよね。何処か、悪いんでしょうか」
予感は診察室の雰囲気から、確信へ変わる。体面に田所が座るなり、千尋は問うた。
「…………」
田所は机の書類に視線を落としている。逡巡しているように見えた。伝えてもいいものかと。千尋の不安は膨れ上がっていく。
「……ご気分を害されてしまうかもしれません。呼び止めておいて何なのですが、よろしいでしょうか」
「……?」
千尋は訝る。奇妙な質問だと。重篤な疾患、たとえば癌であったならば、こんな言葉を掛けられるだろうか。まるで
まるで……
「わたしが、あの子を、追い詰めてしまったんでしょうか……」
『くまのみ』発症の原因には様々な説がある。患者の性自認や臓器の機能障害など、幾つもある。
強いストレス、たとえばいじめや虐待が原因であるとも。
調べれば調べる程に出てくるネガティブな情報に、千尋は自身の接し方に問題があったのではないかと、もう疑わずにはいられなくなってしまっていた。
「まだ、何も分かってはいません」
気休めであれば、もっと耳当たりの良い優しい言葉を掛けられていただろうか。千尋は奥歯を噛み締め、溢れそうになった涙を堪える。「すみません」小さく呟き、彼女は視線で田所に続きを求めた。
静かに息を整え、そして田所は口火を切った。
「穣さんには、解離性同一性障害の疑いがあります」
二重人格、多重人格、田所が罪を告解するように口にしたのは、その俗称で知られる病名だった。
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