第一章:現実に重なった理想は、喜びなど生む筈もなく ――2

 覚束ない足で、スロープを頼りに病室へ戻る。

「――!」

 片が跳ね上がった。心臓が痛むくらいに大きく脈打っている。声が出なかったのは、生来の性質のお陰か。

 人が飛び出して来たように思って、それが、鏡に映った自分だと気付くまでにかなりの時間を要した。

「…………」

 真白な髪は無造作に伸びて野良犬のよう。その隙間から、紅い瞳がちらちらと覗いている。

 元々腰の辺りにあった筈のスロープが、今は胸よりも上に。着せられた入院着はサイズを合わせて貰った筈なのにぶかぶかで、ブランケットを羽織っているようだった。

 何もかもが華奢になった、見た目だけはとびきり良い少女。

 それが自分だと理解した瞬間に、咄嗟に鏡を殴ろうと拳が握り込まれ、そして腕はだらりと力を失いぶら下がる。

支えを失いもたれかかった鏡から、すぐに離れる。汚していないことを確認して、さっさと病室へ戻った。

「…………」

 大きくなったベッドによじ登って、そこから何も考えられなくなった。

 どのくらい壁を見詰めていたのだろう。ふと、胸に手がいく。

 つつましくはあっても、男の胸板とは違う、確かな胸のふくらみ、その不思議な感触を掌に感じる。その代わりとばかりに、股間にいつも感じていた違和感はなくなって、自分がもう意識を失う前の、自分とは違うものになったことを教えてくれる。

 もう「男」じゃなくていいんだと。

 突き付けられるあらゆる事実が、望んでやまなかったものなのに

 胸の奥にあるものは、平常運転を続ける心臓と、空虚な嫌悪感だけ。

 生まれ変わったような気分というのはもっと、晴れ晴れとした、清々しいものの筈だ。

「…………」

 ベッドの横、テレビが目に付いた。こちらを見詰める、昏い目と目が合う。

 こうなれなたらどれだけ幸せだろう。誰に言える筈もなく、ただ願い、妄想に耽るだけだった「理想の自分」それはあくまで「理想」でしかなく、ここにあるのは結局のところ、大嫌いな「自分」でしかなかった。

 幸せなんてどこにもなかった。

「…………」

 倒れ込む。いつもなら軋みを上げる筈のベッドは、何の音も立てなかった。

 まるで誰もそこには居ないかのようだ。

 大きく、大きく息を吐く。肺の中身を全て出し切るような、本当にそうなってしまえとばかりに。

「…………」

 目を閉じる。口には出さず胸中で、そこに残った言葉を諳んじる。それまで何度も何度もそうしてきたように、また、一つ。


………………

…………

……

「…………」

 ふと目を開く。いつの間にか眠っていたのだろうか。特有の気怠さに頭が重い。

 外が暗いのは元々だったろうか。どうでもいいことだが。

 明かりがついているということは、まだ消灯時間ではないということだと、漠然とそんなことを考えて、また一つ、息を吐く。

 何でこんなにしんどいんだろう。

 体勢を変えても何も変わらない。

 いっそ、本当に息が止まってしまえばと、出来なくなってしまえと思うような、息苦しさがあるだけ。

「――穣さん?お加減はどう……」

 背中に声が掛かる。田所医師のものであると分かるまでに少し、時間が掛かった。体がひとりでに起き上がる。

「すいません。少し眠っていました」

 白衣ではない、私服姿に一瞬、誰か分からなかった。

「いや!こっちこそごめんね」

 ちょっといいかな?断る理由もない。田所医師は備え付けの椅子に腰掛け、その間に自分は居ずまいを正す。

「さっきはあんまりお話出来なかったから――家族がいるところで聞いたり答えたり、しにくいこともあるから」

 たしかに、あの雰囲気の中では話は難しいだろうな。ぼんやりそう思った。

「体調はどう?まだしんどかったりする?」

「いえ、特には。大丈夫です」

「そう。さっきも言ったけど、今が一番不安定な時期だから、異変とか感じたらすぐに言ってね」

「はい。有り難うございます」

「穣さん、働いてるんだってね。しっかりしてるから、ちょっと心配かも」

 少し困った様子で、田所医師は笑う。――不思議なことを言う人だ。そう思った。

「すみません」

「ああっごめんね!変な意味に聞こえちゃったよね」

 どう言えば良かったのだろう、「どうしよう」が頭の中を埋め尽くしていく。田所医師が覗き込んでくるように、首を傾げた。「ここだけの秘密にしてね」

「お祖父さんのこと、苦手?」

「祖父が失礼なことを言いました。申し訳ございません」

 居ずまいを正して頭を下げる。しかし、自分にはこの程度のことしか出来ない。

「あれは、うん、しょうがないよ。実際私たちが出来ることは、体との付き合い方を教えることだけだから」

 顔は見えないけれど、きっと田所医師は変わらず苦笑している。

「穣さん。あなたはどう思ってるの?」

「…………」

 今はどんな顔をしているのだろうか。顔を直視出来ず、頭を下げたまま上げられずにいる。問い質そうとしているわけではないと、思いたい。

「……家族――祖母や母からは、良い話を聞いたことはありません」

 昔は暴力も当たり前だったという。叔母――母の妹にだけは、言い返してくるから、強く出なかったとも。

 父方の祖父を除く、祖父と父、血の繋がりのある「男」について、身内から良い話を聞いたことがない。特に乳は――

「そっか――優しいね。穣さんは」

「…………」

 胸の辺りで、虫が蠢いたようだった。異物感を、ただやり過ごす。

「――私もね、『くまのみ』なんだ」

 かなり初めの世代だよ。そうなんですか。そうとしか返せなかったけれど、ようやく頭を上げられた。上げる機会を田所医師はくれた。

「外もだったけど中、家の方が大変だったな。医者になれなきゃ生きてる価値はない。みたいな家で」

 家柄だ、学歴だ、職業だ性別だと、つまらないことに固執して他人の尊厳を踏み躙る馬鹿が、世界には腐るほどいる。田所医師の実家も、その部類らしかった。

「誰にも頼れなかったし、頼っちゃいけないとも思って、死ぬしかないってずっと思ってた」

「…………」

「穣さんも、頼っていんだよ。バディのことも、もちろん、私のことも」

「…………」

「少し気になって、それを伝えたかったんだ」

 反動をつけて、田所医師は勢い良く立ち上がる。「じゃあね」と帰っていく背中に自然と、声を掛けていた。

「嫌いって、言ってもいいんですか?」

「もちろん。大事なのは「嫌い」って感情や、嫌いな相手とどう付き合うかだから」

「こ、ろしたいくらい、嫌いでも……?」

「――」

 田所医師は目を丸くした。そして目が細められ、唇がにっと歪む。

「殺すなんて勿体ないよ」

 言葉が言葉なだけに声をひそめて、それでも田所医師は楽しそうだった。

「嫌いな奴なんて放っといて、幸せになればいいんだよ」

 じゃ。手を上げて田所医師は今度こそ去っていった。

「…………」

 少しだけ、息がし易い。現金なやつめ。そう胸中で毒吐いて、またベッドに倒れ込んだ。

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