第一章:現実に重なった理想は、喜びなど生む筈もなく ――1
「――どういうことですか……⁉」
誰も彼もが困惑していた。母も、祖父母も、姉は多分そうでもない。
お医者さんの困惑した顔というのは、少し珍しかった。
「私も初めて見るケースで……つまり、ですね……」
いつの間にか伸びていた髪が、視界にちらつく。目元はほぼ隠れているのに、それでも視界は明瞭なまま。前髪を伸ばしたがる人の気持ちが今ならよく分かる。真っ白になっていたことは驚きだったが。
「お母様と穣さん、お二人は、遺伝子的に親子関係を証明出来なくなっています」
言葉を選んでいることが窺えた。お医者さん――田所医師は時折こちらへ視線を向け、そして逃げるように母へ視線を戻しながら、ぽつりぽつりと、そう伝えてきた。
説明は続く。
「先程もお伝えしましたが、この『二次性決定症』は何らかの要因によって、主に二次成長期の男性が、女性へ性転換するものです。染色体から女性、XX染色体へ変化して、それから他の遺伝子情報が書き換えられていくんですが……」
田所医師は手元の冊子を開いて母へ見せる。分かり易くするため描かれたイラストには、梯子を捩じったようなキャラクターが、ノートに何やら書き写している。
「誤字脱字のように遺伝子は完璧に書き換えられるわけではありません。――この書き間違いによって起こるのが、男性だった頃との容姿の違いです」
これ自体は発症したほぼ全員に起こります。田所医師が指差した先では、男女が困ったように顔を見合わせている。
変化した容姿は近親者、つまりは母、姉、妹、或いは母方の祖母やおばに近いものになるらしい。
ですが、田所医師は口籠る。
「穣さんの場合は、その、このような症例は、世界でもまだ数える程しか確認されていなくて……」
その一瞬、田所医師と目が合った。
「検査してみたのですが、どうやら変化する際、染色体に異常が生じたようです。それに伴って、といいますか、書き換えられる予定だった遺伝子情報全体が、全く別のものに変化してしまったと……」
その際、目に自分が映る。光とは別の白色が見えた。伸びた前髪に隠れた両目は鮮やかに紅く、所謂アルビノの特徴が表れていた。
「――それじゃ、私達とは一緒に暮らせなくなるってことですか?」
祖母が何かに気付いたようにはっと声を上げた。母は渡された冊子の一点を見詰めたまま、固まっている。田所医師が手を上げて、祖母を制した。
「順を追って説明させていただきますが……」
田所医師の口調が、それからやや流暢になる。こなれているように思われた。
「診断書と必要書類をお渡ししますので、役所に届け出ていただければ、恐らく一般的な患者さんと同様に更新されますし、健康保険証やマイナンバーカードも再発行して頂けます」
問題は、そこまで言って、また言葉がたどたどしくなった。
「有事の際、例えば、ですと、不謹慎な話ですが、ご家族のどなたかが事故や疾患で入院された場合や、亡くなられた場合、面会や、遺産相続など、どのような対応となるか、そこが私にも、明言出来ません。国内では恐らく初めてのことだと思いますから、行政も、どうなるか……」
「先生」
俯く田所医師に、今度は祖父が口を開いた。口調は硬く、威圧的にも聞こえる。知らず、息を吐いていた。
「これは、治るんですよね?」
見て確かめるまでもない。恐らく祖父は田所医師を睨んでいる。田所医師は首を振った。
「まだ解明されていないことが多いので、断定も出来ませんが、戻ったという事例は今のところ確認されていません。――生物学者の間では、これは疾患ではなく、ヒトに新たに生じた生態だとする説が有力視されています。他の生物を例に見ても、二度以上性別が変化することは――」
「――性適合手術?っていうのがあるでしょう?」
生態とする説は、学者だけでなく生物マニアをはじめ一般人の間でも広まりつつある。
「ヒト」の進化の兆しだと。
田所医師の言葉を最後まで待たず、祖父は痺れを切らしたように、聞いたことがあるだけの言葉を持ち出してきた。
「確かに、一つの手段としてはあります、ですが――」
「やったら、早よしたってください!」
今度こそ「ため息」が出た。人の話を聞かない奴は嫌いだ。本当に。
田所医師が手を上げる。しかし祖父は止まらない。
「長いこと出来へん言い訳ばっか並べて、一番大変なこの子のことも考えんと!」
役に立たへんな!そう吐き捨てた。田所医師の視線が何故か、そんな祖父ではなく自分へ向けられているのに気付く。視線の先を追うと膝が小さく揺れている。ほんの刹那の間に、田所医師の目が細められた。
「おい!どこ見とんねん――」
「――先ず、性別適合手術は未成年に施すことは出来ません」
「――っ、また……!」
「今の穣さんの容体は、羽化して間もないチョウと同じでとても不安定です。ホルモンの投与は医者の立場から推奨出来ません」
「関係あるかい!患者がやってくれ言うとんやから、さっさと――」
「それは
自分は上を取っていると錯覚していた祖父にとって、田所医師の厳然な態度は予想外のものだったらしい。押し黙ってしまった祖父だけを見据え、田所医師は告げる。
「患者様達のご迷惑になります。外でお待ちください」
この場合の外とはきっと、病室の外ではなく、病院の外だろう。祖父は田所医師をねめつけながらも、何も言わず診察室を出ていく。
「すいません……」
最初に祖母が謝罪した。対する田所医師も、まるで別人のように慌てた様子で謝罪を返す。
「――それで、その、先程の一緒に暮らす、ということについてですが……」
切り出しづらい雰囲気の中で、田所医師はそれでも祖母の質問に答えようと口を開く。
「既にご存知かもしれませんが、『二次性決定症』の特徴の一つに、生理周期に合わせて分泌される誘引フェロモンがあります」
人々がこの現象に、嫌でも関心を向けざるを得なくなった理由の一つだ。大抵の人間は、齧る程度であっても知っているだろう。
誘引フェロモンとは、一般的に「フェロモン」と聞いて思い浮かぶ、異性を魅了する物質を指す。
ヒトにはフェロモンを分泌する機能も、また受け取る機能も退化して失われたとされているが、『二次性決定症』――俗に『くまのみ』が分泌する誘引フェロモンはそれを覆し異性を魅了する。より直接的に表現するなら
発情させて、暴走させる。
世界で認知され始めた頃は、フェロモンを原因とする強姦や傷害、殺人、誘拐、窃盗、その他多くの犯罪行為が爆発的に増加した。
現在でこそ、落ち着きはしたものの、完全になくなったわけではない。根底にあるものは、生物の三大欲求と生理現象なのだ。なくせるものでもない。
そして、『くまのみ』への世間の認識は今も尚冷ややかだ。男を誘惑する
祖父のような元に戻せと訴えてくる人間を、きっと田所医師は何人も見てきているのだろう。
「近親交配を避けるためでしょう、フェロモンは近親者にはあまり効果はないとされています。ですが、それも絶対安全というわけではありません。――穣さんについては特に、イレギュラーですから」
最後の一言は、先程説明してくれたどんなことよりも、田所医師の声を暗くさせた。自分にとって祖父はもう、遺伝子的には近親者ではなくなってしまっているのだ。
「…………」
そこでふと、胸の中に何かが過ぎった。
「――隔離、ですか……」
ずっと沈黙を貫いていた母がぽつりと呟いた。先程から変わっていない冊子の一頁。それはトラブル防止の為に政府が打ち出した、施策について記されたものだった。
田所医師は頷く。
隔離施設と云っても、掲載されている写真を見る限りでは、言葉ほど物々しい印象は感じられない。寧ろ自分にはただの、マンションやアパート、家に見える。このことは社会科の教科書にも書かれていた。
住み手の減ったマンションやアパート、或いは所有者不明の空き家を政府が買い取り、改築したものだと。
「そんな……!」
「穣さんとご家族全員の安全から考えても、私はそうすべきだと思います」
一度だけ、その場に立ち会ったことがある。フェロモンで暴走した男はまさに獣だった。誰の言葉も届かなくなり、『くまのみ』のことしか見えなくなる。
見境がなくなるのだろう。法律も、通報を受けてからやって来る警察も、警備会社も、何も意味を為さない。
「研究の為でもありますので、健康診断や心身のケアもしっかり行われています。未成年のお子様については、ご家族へ結果を通知することも出来ます。それに――」
つとめて明るい声。自分の言っていることが、相手にとって詭弁でしかないことを、分かってしまっている。そんなふうに聞こえてしまう声。
「――あ、の、この、バディって、いうのは、何なんでしょ……?」
耳に響く「自分の声」にまだ慣れない。取り敢えず目に付いたことを、質問してみる。
「――あ、ああ!それは……」
「ちょっ、穣くん……⁉」
「しょうがないよ。そういうものだから」
細い声は自分でも思うほど、平坦で感情の色が感じ取れない。
自分が何を思っているのかなんて、自分でも分からない。
「みんなに迷惑は掛けられない」
「迷惑って、そんな……」
「事前の診断が必要になりますが、一時帰宅も可能です。私の口から申し上げるのは筋違いだとは思います。ですがどうか――」
重く考えすぎないようにしてください。田所医師は立ち上がって、ほぼ直角に腰を曲げた。
その姿に罵声を浴びせられる程の恥知らずは、この診察室には居なかった。
そしてそのまま、母と祖母は帰宅。一月の検査入院となった。
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