くまのみ

@udemushi

プロローグ

 憧れに手は届かない。理想は実現しない。

 自分というものは、あくまでも自分でしかない。

 その自分を受け入れられなければ、幸福にさえなることは出来ない。

 では仮に

 その自分を喪ってしまったら?

 思うに、それは一つの死だ。

 生きる意味も、意義も、価値も、何もかもを喪うということなのだから。

 自殺はきっと、自分を守る為に出来る、最後の手段なのだと思う。


「…………」

 死にたいと思うようになったのは、何時からだったか。

 平井堅さんの曲に似ていたと思う。

 ふと、そんなふうに思ったのだ。然したる苦痛があったわけでも、哀しみに苛まれたわけでもない。

「生きている」ということが、何となく、ただたまらなく嫌になった。

 朝、目が覚める度に思う。

「…………」

「普通の人間」にはきっと理解できないだろう。誰が聞いているとも限らない。聞かれると面倒だ。

 だから一つ、代わりに息を吐く。

 そんなふうにふと、それが現実になるように。


 見覚えの無い天井を前にしても、やはり自分は、そんなふうに一つ息を吐く。

 嗅ぎ慣れない、それでも嗅ぎ覚えのある独特の匂いが、ここが病院であることを報せてくる。

 どうして。風邪すら引かない、頑丈な体くらいしか、取り柄がないのに。

 知らない間に運ばれていたということは、運ばなくてはならない容体だったということだ。

 有り得ない。自分に限ってそんなことは。

 体には幾つもの管が繋がれている。ほんの僅かな違和感が、倦怠感に重い体には、ひどく煩わしく感じられる。

「…………」

 倦怠感と煩わしさの中に、喪失感がある。ある筈のものが失くなっている。

 体が軽い。と正体にすぐに行きついた。

 手を上げる。ただなんとなく。軽くなった体からは、それを動かすための筋力も失われてしまったようで、軽く感じられるのに妙に重い。

「…………ぁ?」

 流石に声が漏れた。照明に照らされた腕は細く、病的なまでに白い。これは誰の腕か。自分のものではない。

 細い腕はただやつれたのとは異なる。丈は短く、掌は一回り以上小さく、骨張った逞しさは見る影もなく、今は白桃のような、たおやかさとでも云おうか、柔らかな丸みがある。

「…………、ぁ、ぁ……ぁ――……」

 疑心暗鬼。疑問と不安、焦りが小さな違和感を克明にする。掠れた声が、いつもと違った響きを持っている。

 細い、丸い、上手く言葉に出来ない、変化。仰向けに寝ていて、寝起きだから、だけでは説明がつかない、何か。

「…………」

 そこに、喪失感の正体にもう一つ、心当たりが生じた。上げていた手を、そのまま下ろす。

 股間へ。

「…………」

 ない。忌々しい、自分という人間を、一つの枠に押し込めていた、性器が、根元から。

 或いは初めから、そんなものは備わっていなかったかのように。

『くまのみ』

 嬉しさも特になく、ああ成程と、漠然とした得心だけがぽつんとある胸、頭に浮かんだのは、その俗称。

 正式名称は忘れた。その症状――その奇跡的な事象は、或いは現象と云ってもいい――から、その名で広まった、未だ多くの謎を孕む病。

 二〇××年一月二一日 喜多島穣きたじまみのるは男性から女性へ変化した。誕生日からほんの二週間後、寒さの厳しい冬の出来事だった。

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