今がいい

編端みどり

もっと早く会いたかった?

ここは老人ホーム。時代を作り、時代を支えた人達がのんびりと余生を過ごす場所だ。


「老いらくの恋とはよく言ったものね」


「良いじゃないか。お互い独り身なんだ。死ぬ前に愛する人ができて私は幸せだよ」


「……そうね、私も幸せよ」


車椅子がないと移動もままならないくらい歳をとったのに、どうしてこんなに心が弾むのだろう。


これが、恋か。


車椅子の女性は、自由に動かない自身の身体を恨めしく思いながらも、幸せを噛み締めていた。ただ会話をするだけの関係だが、老人ホームで出会ったふたりは恋人になった。


好きな人がいるだけで、毎日が楽しい。こんな気持ちいつぶりだろう。


「もっと早く貴方と出会いたかった」


「私もそう思う。だが、過ぎたものより今の幸せを大切にしよう。若い頃は無茶苦茶やってからね。きっとあの頃の私は貴女に見向きもされなかったと思うよ」


嘘だ。そう女性は思った。

男性の家族と挨拶した時、亡くなった奥様の話になった。男性は亡き妻を褒めちぎっていた。


私は、夫から褒められた事なんてなかったのに。


もっと早く出会えていれば、あんな夫と結婚しなくて良かったかもしれないのに。女性の卑屈な心は膨れ上がり、きつい口調で男性に気持ちをぶつけるしかなかった。


「私は、もっと早く貴方と会いたかった。貴方の子を産みたかった」


「私は、貴女と会えたのが今で良かったと思ってる」


優しく落ち着き払った口調で男性が話せば話すほど、女性の卑屈な気持ちは膨れ上がっていく。


「そう、そうよね。素敵な奥様だったのでしょう? お子さんも、私なんかを歓迎してくれるとってもいい子達。うちは、ホームに入れられてから誰も訪ねて来ないのに……!」


時を戻せる魔法があれば、あんな家族捨ててやるのに。そう言いかけた言葉を飲み込んだのは、男性が泣いていたからだ。


「私は本当に、若い頃は酷い男だったんだ。酒に溺れて、借金もあった。妻や子に手を出した事もある。妻が病気になって心を入れ替えたけど、遅かった。あっという間に妻は死んでしまったよ。私が苦労をかけなければ、今も生きていたかもしれないのに。子どもたちが貴女を歓迎するのは、私を押し付けられると思っているからさ。子ども達が小さい頃、私は特に酷かった。家に帰らず、帰ったら威張り散らす。最低な父親だったよ。それでも親だからと顔を出してくれる。子ども達の優しさは妻譲りさ」


「ご、ごめんなさい……! そんな……」


「まったく、貴女の前では優しい男でいたかったのに。悪い男に引っかかるのは、昔からかい?」


「……そうね、昔からよ。でもこの歳になると悪い男も大人しくするしかないものね。今貴方と会えて、ラッキーだわ」


「私もだ。苦労をかける事もなく、ただ貴女と過ごす時間を楽しむ事ができる」


これは妻に先立たれた男と、夫を見限って離婚した女の物語。ふたりは死ぬ前に、穏やかな幸せを手に入れた。


「悪い男は、好きな女を放っておかないのさ」


「こんなおばあちゃんに口付けなんて、本当に悪い男に引っかかったものだわ」

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