第6話


 ――■ 王都の下町(Route."Dead Bloodbath")


 王都に長雨が降った日の翌日のことだった。

 雨上がりの早朝の冷たい空気、春先の太陽の日の光。王都の人々は雨上がりの街で早朝から忙しげに動いていた。

 大陸最大の大国家の首都である。暮らす人間にはそれなりの経済力が求められる。

「じゃあ、セス。行こうか?」

 ピンク色の髪に、茶色の瞳をしたテッテリア――セスを玄関で見下ろしながらアギトがそう言えば、セスはアギトを見上げて「あの……アギト様」と不安そうな声を出す。

 セスが外に出るのは実に三週間ぶりのことだった。

 当然だが彼女はアギトに監禁されていたわけではない。二人でベランダに出たり、アギトに連れられてアパートメント傍の食事処に連れて行かれたことはある。

 だが本格的に外に出るのは初めてで、不安そうに、アギトと部屋をセスは交互に見た。

 外に出るのが不安そうな彼女に対し、アギトはにっこりと笑って言う。

「大丈夫。めちゃくちゃかわいいから」

 セスの長すぎた前髪や、毛先を整えたアギトはそう言いながらセスの頭に手を乗せて、自分の胸板にセスの顔を近づけさせる。

 抱きしめるような動きにセスの身体が硬くなるも、すぐにアギトの胸板にセスは身体を預けて、安心したように力を抜いた。

「大丈夫だって、今日は俺の叔父さんに会いにいくだけだからさ」

「はい。アギト様」

「セス――じゃない。テッテリアを探してるホーリーバリアの兵士も、裏路地にはそんなに来ないしさ。セスがテッテリアだってわからないさ。それに兵士を見かけたら俺の傍にいればいいからね」

「はい……はい」

 アギトがセスの頭を優しく撫でれば、セスは、目を細めて気持ちよさそうにした。

 そんなアギトの腕には編み紐のようなものが揺れている。

 セス――ホーリーバリア公爵の切った髪で編まれた編み紐である。セスによって強力な守護の魔法が込められたそれは、魔力の貯蓄を助ける強力な魔道具と化していた。


 ――高位貴族の肉体は魔道具の素材にもなる。


 魔獣の毛などを一緒に編むことでセスの髪であることは隠蔽しているものの、アギトは、この生きているだけで自分に富を与えてくれる少女を心の底から気に入っていた。

 それにセスは顔や身体も良いが、能力が高い。

(今までは栄養不足で力が十全でなかったし、それを発揮する場もなかったんだろうな)

 セスは新しい魔法であろうとも常人の数十倍の速度で学習した。加えて使えるようになればあっという間に熟練する。

 渡した幻術の魔法書はその日のうちに熟読し、今では魔力隠蔽や欺瞞の魔法なども習得するぐらいだった。

 本人を知っているものが目の前にいても、気づかれないぐらいには今のセスは以前のテッテリアとは別人だ。

 良い意味でも悪い意味でも――彼女はアギトから学習している。路地裏のゴロツキ。東方傭兵の子孫。悪垂れのクソガキであるアギトから。

「さ、行こうぜ、セス。叔父さん待ちくたびれちゃうぜ?」

「はい。アギト様」

 背の高いアギトに、骨格を治したために同じく長身になったセスが隣に立ち、アギトの腕に自分の腕を絡め、外に出る。

 雨上がりの、カラッとした王都の空気をセスは全身で浴び、眩しそうに目を細めた。

 そして、少し歩けばすぐに彼女は注目の的になった。

 黄金率とも言える完璧な肉体を所有する彼女は、ただ歩くだけで衆目を魅了する。

 とはいえ、そんな彼女の視線は自分を遠巻きに眺める人々ではなく、隣に立つアギトに向いている。

 店や人、物などを見るたびにアギトに問いかけ、アギトはそれに笑顔で応えた。

 仲睦まじげな美男美女の様子に、街の人々は嘆息を禁じ得なかった。

「あの、アギト様、あのお店はなんですか? 皆さん、煙を吸いながらリラックスしてますけど」

「ああ、あれ? 水タバコ屋だな。喫茶店ってヤツかな。ま、水タバコも最近はポーション混ぜて吸う奴が人気らしいけど。俺は吸ったことないぜ」

「ポーションを……吸うのですか?」

「そう、吸うの。回復効果を薄くして、鎮痛とか快楽の要素を長引かせる調整をした奴が人気なんだよ」

 へぇ、とセスは納得したように頷いた。彼女はポーションは肉体の治療に使うもの、という認識があった。だが下層の民はそれを快楽の摂取に使うのだと聞いて感心したのだ。

「皆さん、いろいろ考えるのですね」

「っても、ポーションは依存性が強いからね。西七年戦争の帰還兵みたいな中毒者ジャンキーどもはああいった楽しみじゃなくて原液を摂取しないと気持ちよくなれないらしいよ」

「ジャンキー、ですか」

「その辺に転がってる奴らだよ」

 セスが言われて視点を少し下げれば、たしかに、ゴミを漁ってる片手しかない男や、義足をつけ、路上に置いた「戦争に全てを奪われた」という看板の前に座っている男などがいる。

 アギトが小銭をそういった人間たちに投げ渡してやれば、歯の抜けた笑みを浮かべて帰還兵たちはにやりと笑って「ありがとよぅ。お若いの」と言ってみせる。

「戦争と薬で身体を壊したくだらない奴らだけど、この辺でうまくやりたきゃほどほどの距離感で付き合う必要があるのさ」

「そう、なんですか」

「あ、セスは近寄らないようにね。あいつら女日照りだから触られるよ」

 顔を強張らせたセスがアギトに身を寄せれば、アギトはにっこりと微笑んでセスと楽しげに歩き出すのだった。

 セスは背筋を伸ばして歩くようになった。それは彼女が九歳より前に教わった、貴族の歩き方だった。良い意味の変化だった。

 セスはアギトに腕を絡め、恋する乙女のように、欲で粘ついた目でアギトを見るようになった。それは彼女が三週間の間に覚えたものだった。悪い意味の変化だった。



 ――■ 化け物(Route."Dead Bloodbath")


 金貸しゴンドウと呼ばれるアギトの叔父、ゴンドウ・カラサワは引きつらせたくなる顔を我慢し、にこやかな笑みを浮かべていた。

 だがその内心は嵐に翻弄される小舟のようだった。

(アギト! アギトてめぇ! 聞いてねぇぞ! こんな化け物だなんて!!)

 幻術を解き、隠していた魔力をほんの少しだけ解放して見せたテッテリア――セスは、ゴンドウを不安そうに見て、ソファに隣り合って座るアギトに身を寄せる。

 恋人同士のように見えるも、ゴンドウの目からすれば可愛い甥っ子がとてつもない化け物に執着されているようにしか見えなかった。

 アギトは可哀想な貴族の庶子を篭絡すると言っていた。だが絶対に違うとゴンドウは確信していた。


 ――居場所を失い、彷徨っていた化け物に餌を与えただけだ。これは。


 世間的に、セスは可哀想な娘なんだろうとゴンドウは思う。

 家族から情を受けず、姫のように扱われるはずだったのに使用人と同じように扱われ、本来与えられていただろう全てを与えられなかった、そういう娘なんだろうとアギトから話を聞いたゴンドウは考える。

 だから、アギトに恋する表情を向けるセスは、きっと悪い男に騙されているのだと世間は言うのだろう。

(だが! だが、これは……!!)

 ゴンドウがアギトに目を向ければ彼はセスの肩を抱き寄せて「あはは。叔父さん、怖い顔してるけど、全然大丈夫だから。身内には優しいんだよ」と囁いている。

(お前……わかってるのか?)

 天然自然の金髪碧眼。それそのものが輝いているようにも見える黄金の髪に、淀みも濁りもない青の瞳。

(最強の魔力色が二つも揃ってやがる。大貴族そのものだ。小国程度なら単身で滅ぼしかねない化け物だぞ。それ・・は)

 貴族が恐ろしいのは権力を持っているからではない。

 暴れれば周囲全てを滅ぼしかねない化け物だからこそ、力を持たない平民たちは恐れるのだ。

 爵位とは檻だ。爵位があるからこそ、貴族は平民と接することなく、殺すことなく暮らしていけている。

(貴族は特別扱いされているのではない。貴族は、隔離されているのだ)

 ゴンドウは多少の魔力を持っており、いくつかの魔法を使えた。

 だから、ゴンドウはただの平民が全身鎧で武装してても素手で制圧することができた。

 だが、セスがこの場でゴンドウを殺しにかかったとしたならば、何もせずに殺される自信があった。

(アギト。うちが魔力持ちを家に迎えることを悲願としていることはわかっているだろうが……これ・・は、ダメだ)

 高い魔力を持った娘、それもオリジナルの術式を保有する貴族の娘を迎え入れることは東方傭兵であり、王国では下賤のように扱われるカラサワの家の宿願だ。

 寄り親である貴族によって、身体強化の魔法一つを複製してもらうために西七年戦争ではカラサワ家は多くの激戦地に向かわされた。

 一族から多くの死者も出した。

 カラサワの家は運良く生き残れたが、一族全てが死んでしまい、滅んでしまった貴族家は西七年戦争ではいくつもあった。

 そのことを思えば、固有魔法を所有している貴族の娘を迎え入れることは、よほどのことがなければゴンドウは絶対的な協力ができた。

 だが……金髪碧眼はダメだ、とゴンドウは表面上は飄々とした顔で当たり障りのない話題を二人と交わしながら、内心では怯え切っていた。

(わかっているのか? アギトよ。我が甥よ)


 ――セスが暴れたら、誰にも止められないんだぞ。


 夫婦喧嘩が起こったとして、セスがその気になればアギトは拳一つで肉塊になる。戦闘技能を仕込んではいるが、アギトの強さはあくまで人間の範疇だ。

 伯爵級の貴族ならばアギトでも単身で抗えるだろうが、公爵級の貴族の本気を受け止められるほどの肉体強度はアギトにはない。

 そしてアギトが殺されたあとは、怒りのままにカラサワの家をこの化け物は滅ぼす――ということがゴンドウには容易に想像できた。

 つい先日覚えたばかりだという幻術の魔法をまるで百年も使い込んだかのように使いこなす化け物を前にして、ゴンドウはどうやればこの存在をカラサワから追い出せるか考えようとして――


「それで、その、おじさま。わたくし、どうすればアギト様と結婚できるのでしょうか」


 へ、とその言葉にゴンドウは呆けたように反応した。

 結婚? そんな話はまだしていない。セスを受け入れるのはまだだった。アギトが自分で考えているだけの段階だった。

 今日はただの顔合わせと、セスに必要なものを渡すだけの場でしかない。結婚などゴンドウは考えてすらいなかった。

「私はアギト様と結婚したいのです。おじさま」

 テーブルの上には、セスの、騎士爵位の書類がある。

 賄賂によって、王国の文官を通して発行された正式な書類だ。

 名前の欄を埋めて提出すればすぐに騎士爵をセスに与えられる書類。

 それに貴族学園への編入書類もある。ゴンドウが学園の教師に手を回し、賄賂で手に入れたものだ。これに名前を書いて提出すれば試験など受けなくても最下級のクラスならば編入できる書類。

 それを書いている途中のことだった。セスは自分の名前を、セレスと書いていた。セレス・カラサワとまで書いている。

 謙虚に、自信なさげに振る舞いながら、あまりの図々しさにゴンドウは絶句した。もう甥っ子の妻気取りでいるのかこの化け物は。

 アギトはそれを見て、微笑んでいるだけだ。その瞳の中に困惑は見えない。制御できる自信があるのだろうか。わからない。わからないが……アギトを信じるべきなのだろうか。

「あー、セレスくん? 結婚はまだ早いのではないだろうか?」

「どうしてですか。私、アギト様に純潔を捧げてしまいました」

 ゴンドウを見るセスの目は、仄暗い目だった。アギトを見る目とは全く違っていた。人間相手に使う目ではない。井戸の底から化け物が覗き込んでくるような目だった。ゴンドウは目線を書類に落として、それを直視しないようにした。怖かった。小便を漏らしかけていた。亜人種族との戦場で伯爵級の貴族に相当する族長級エルフが襲いかかってきたときよりも強い死の予感を覚えていた。

「純潔を……あー」

 カラサワのような騎士爵や、男爵程度の貴族ではない風習を思い出すゴンドウ。

 貴族の子女が寝所を共にするのは、結婚してからというのは伯爵以上の貴族の常識だった……か?

 純潔を捧げたからといって、結婚する気なのか? たったそれだけで人生の大事を決めてしまうのか?

 ゴンドウは兄と違って爵位を持っていない。持つ気もない。だから大貴族の感覚は理解できない。

 そもそもセスは大貴族の教育を受けているのだろうか? 

 大貴族の、ホーリーバリアの庶子に突然変異的に現れた金髪碧眼じゃないのか?

 単純に恋愛感情をこじらせているだけならいいのだが……ゴンドウはセスについて不安になりながらも謝罪を口にする。

「それは、大変なことをしてしまった。セレスくん、我が甥が軽率なことを申し訳ない。おい、アギト。お前、責任とるつもりはあるんだろうな? は、はは」

 お気に入りのエルフの森産の伽羅の匂いを漂わせ、甥は柔らかく微笑んでいる。そこに動揺はない。

(アギト、計画通りなのか?)

 ゴンドウはその問をこの場で発することはできなかった。表面上は鈍そうな、トロくさそうに振る舞っているセスを警戒していたためだ。

「それはもちろんあるよ。結婚ね。結婚かぁ。ねぇセス、いつする?」

 アギトがそう言えば、ぱぁっと頬を赤くしてセスはアギトに「嬉しいです。アギト様」と抱きついている。

 今は隠れているが、セスの魔力を知っているゴンドウは悍ましい光景に頬を引きつらせる。化け物の求愛なんて見たくなかった。甥が何か得体のしれない怪物に食われているように見えた。

(怖い。怖い。恐ろしい)

 え? これを一族に迎え入れるの? 本当に? ゴンドウの理性が問いかけてくる。黙れ。俺が決められる段階ではもうないんだよ。

「すぐにでも挙式しましょう! 私、頑張ってアギト様に相応しい妻になります!!」

 そう言うセスに、アギトは微笑んでいる――のではなく、微笑みのように引きつっていることにゴンドウはようやく気づき、ほっとしたように彼は息を吐いた。

 なんだ、こいつにとってもこれは計画外か。

(はは、アギトお前、女関係ちゃんと整理しろよ)

 それをゴンドウは口にしなかった。癇癪を起こしたセスに殺されてはたまらなかった。


 結局のところカラサワは、セス――セレスを受け入れるしかなかった。

 反対したら、反対した人間はきっと殺されるだろうことは絶対に予測ができたから。

 無邪気に喜ぶセスだったが、アギト以外には無機質な、感情の籠もっていない目を簡単に向ける化け物でしかなかった。



                ◇◆◇◆◇


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