ぼくの彼女がダイエットに成功した

蒼山いつき

第1話

それでも一丁前に、そのような事を口走ってしまったあとには人並みに後悔したりもする。しかし顔を合わせてしまうと、途端に心にもないことを言ってしまうのは一体なぜだろう。それは今晩も……と言ってもつい先程のことだが――


「夕紀じゃどうせ無理だなぁ。今回もまた失敗するさぁ」


ぼくはそのようなことを口走っていた。だれだって人は褒められた方がうれしいに決まっているし当面のやる気も起きる。そんなことは今さら誰に教えられずとも、頭ではすでに理解しているつもりだ。


人間の頭と体というのは、はっきりと区別がされていてそれぞれ別の人格がぼくを支配しているのではないか……と思うことが時々ある。


頭では痛いほど分かっているような事柄でも体がその理屈についていかず、時として頭で理解している事柄とはまったく別の行動をしてしまうことがあるからだ。


そうでなければ、ぼくが夕紀に対してまたしてもこんな意地悪を言うはずがない。頭ではすでに何度だって反省しているはずなのに。


「そんなことないよ。今回はきっとやれそうな気がするの。なんなら賭けてもいいんだから」


夕紀は屈託のない笑顔を浮かべ、大きな合わせ鏡の前で自分の腹をへっこませては、ほらね、などの言葉を発し得意げな顔をしている。


タチが悪いのがこれなのだ。夕紀はいつもこんな調子なので、ぼくはぼくという人間に対して、あまりにも嫌気がさしてしまう。


「なによ、あんたっていつもそう。そんな大きな口を叩くなら、あんたもそれだけのことをやってのけてみなさいよ」

そんな憎まれ口を、夕紀がぼくに浴びせてくれればぼくは救われるのだ。


そうすれば、ぼくがぼくという人間にわざわざ向き合わなくて済むのに……。


しかしそれにしてもなぜぼくは、たかだか夕紀がまたダイエットをはじめるだけのことの何気ない会話をわざわざ引っ張り出しては、ここまで自分を卑下しているのだろうか……。


それは慣れない寝酒をしたことも少し関係しているのかもしれない。今日は会社でうまくいかないことがあったので、そのことをできるだけ思い返さないように缶ビールと焼酎を数杯飲んだ。


ぼくはベッドに寝転びながら1人で暗闇の真ん中を見つめていた。ときどき目をつむってみてもさほど景色が変わらないことにさえ、少し面白がれるくらいには酔っ払っている。


後頭部で無造作に手を組んだぼくの右肘のすぐ先では夕紀が寝息をたててスースーと寝ていた。


そういえばここは夕紀の部屋だ。


普段はろくに返事も返さないくせに、自分の重心が少しでも崩れそうになると、ぼくはこうやってぼくという人間を立て直してもらいにノコノコと夕紀の部屋にやって来るのだ。


夕紀はなぜこんなぼくといつも一緒にいてくれるのだろう。ときどきそんなことを考えてしまう。


年に数回だけぼくの目の前に現れてはなかなかどこかに立ち去ってはくれない、今日はそんな眠れない夜だ。


「空を飛んでいるよ」


夕紀からのラインには2日ぶりにそうやって返信した。近頃じゃ上から雲を見てもあまり何とも思わない。あの頃のぼくからしたら大した進歩だろう。


ぼくは職業柄、海外に行くことが多い。今の会社に入社するまでは海外なんて一度も行ったことがなく、それに加えて高所恐怖症でもあったので、初めの頃はアジア圏の国に行くことさえも不安で仕方なかった。


しかし今となってはアメリカやヨーロッパはもちろん、南米やアフリカに行くことも多い。今回の出張もいくつかの国を周り、約3週間ぶりの日本への帰国だった。


しばらく機内の窓から雲を眺めているとスマホが鳴る。


「空を飛んでいるのですね、了解だよ」


夕紀から返ってきたラインにはそう書かれてた。


この「了解」という言葉はいつもなら何とも思わないのだが、最近になってこの出張終わりの「了解」という言葉の意味が理解できる。


夕紀は頼んでもいないのに、ぼくが海外出張から帰るときにはいつも決まって空港まで迎えに来るのだ。


「大変だからわざわざ来なくていいよ」いつも夕紀にはそう言うのだが夕紀はいつも「そうだね」と笑うだけだった。


この出張終わりの「了解」という言葉はいつからかぼくと夕紀の間では、空港に迎えに行くね、というメッセージになっていた。


ぼくはいい加減、夕紀に優しくしなければならないと思った。


今回の出張ではお土産という代物を買った。それは前々から夕紀が食べたがっていたパリ産のチョコレートだ。


これでいつも寂しい思いをさせている分の罪滅ぼしが少しはできるかな、なんて思考を頭に燻らせては、柄じゃない、とすぐに窓の外の雲に視線を戻す。


窓の外の雲は繋がっては少し途切れて、また繋がることを繰り返していた。


ぼくは無事に羽田空港に到着した。月並みの言葉だが何度海外に行っても、やはり日本に着くと安心してしまう。


幸いにも今日は金曜日なので明日と明後日は仕事が休みだ。天気もいいし、気持ちも自然と晴れやかになる。


「ばっ。お疲れさま。大変だったね」


もう既にお互いがその姿に気付き、そしてその姿が近付いているのをお互いが確認しているのにも関わらず、夕紀はいつもぼくの目の前に来ると、あたかも突然現れたかのようにぼくを驚かせるような仕草をする。


いつもならそのことについては触れないのだが、今日は大げさに驚いてやってもいい、そんな風に思っていた。


空港を一通り見渡しても、夕紀の姿はどこにも見当たらなかった。ラインをしてみても電話をしてみても一向に通じない。


夕紀が空港に迎えに来ないなんてことは今までに1回だってなかった。夕紀は職場のシフトを提出する際に、いつも決まってぼくの出張から帰る日にちを聞いてくるのだ。それは先月も変わらずそうだった。


ぼくは面倒くさがりながらもそのときたしかに今日の日付を伝えていた。現にラインでは「了解」という言葉も受け取っている。


それから1時間近く空港で待ってみたりもしたのだが、それでも夕紀は現れなかった。


もしかしたら、夕紀は自分の部屋で寝てしまっているのかもしれない。夕紀は結構抜けているところがある。


きっとそうだろう。


ぼくは夕紀のアパートに向かった。アパートの外から窓を覗いてみると人影は見えない。合鍵で夕紀の部屋に入ると、そこには夕紀はいなかった。


玄関に戻ってみても夕紀の靴はない。


どこか外に出かけてしまったのだろうか。


そのときスマホが鳴った。ぼくは慌ててその電話に出た。


患者様の緊急連絡先にこの電話番号が書いてありましたので……。


それは病院からの連絡だった。


ぼくは電話先で伝えられたその病院へ向かった。電話口で病院の住所を言われたような気もするが、頭に入っているはずもない。


かろうじて病院の名前はぼんやりと覚えていたので、スマホに打ち込もうと思い、急いで右ポケットに手を入れてみる。震えた手でナビの到着先にその病院の名前を入れると――目的地まではあと41分――と表示された。


ナビに指定された電車に乗りこんだ瞬間、ぼくはまるで誰かの見えない手で頭を押さえつけられて、体を水中に沈められているような、そんな感覚がしていた。


なんだかうまく息ができない。


流れる1秒1秒が、向こうの何かから近づいてくるカウントダウンのように感じる。


病院に到着すると、すでに夕紀の手術は始まっていた。家族はいるのか。その家族の連絡先は。病院の人には夕紀のことをいろいろと聞かれたと思う。


夕紀の両親はもういません、とそれだけは答えた記憶がある。気がつくと、ぼくは自分の部屋のベッドの上でうずくまっていた。年に数回しか現れない、眠れない夜がすぐにもう一度やってきた。


一睡もできないまま、ぼくは次の日を迎えた。なぜぼくが、昨夜自分の部屋にいたのかは分からなかった。また頭と体が別々に動いてしまったのだろうか。


あのまま夕紀の近くにいたらぼくの体はどうかしてしまっていたのだろうか。頭では夕紀の近くにいたいと思っていても、体は夕紀から逃げてしまったのであろうか。


わからない。


病院に到着すると昨日の看護師さんの姿が見える。


「昨日は無事に帰れましたか。随分と取り乱していましたけれど大丈夫でしたか。院内から急にいなくなったので心配しましたよ、夕紀さんの手術は無事に終わりましたよ。顔を見せてあげてください」


自分の全身が震えているのがわかった。


夕紀は生きているのだ。


ぼくは夕紀がいる病室まで急いだ。ドアを開けると、たしかにそこに夕紀はいた。窓から差し込む陽の光を眩しそうに見つめている。


「夕紀!!!」


頭で考えるより先に、ぼくは夕紀の名前を叫んでいた。


「……きてくれたんだね」夕紀はこっちを見て笑った。こんなときにでも人は笑えるものなのかと呆れてしまいそうになる。


それからぼくは夕紀と話をした。まるで出張先から買ってきたパリ産のチョコレートのような、とくに何でもない話をひとつひとつ噛みしめるように夕紀には話した。


手術明けの夕紀はとても不安なのだろう。そんな夕紀の前では、ぼくは笑っていたほうがいいのではないかと頭ではそう考えたが、それでもぼくは、ぼくの体から溢れ出てきてしまう嗚咽と涙を止めることができずにいた。


夕紀の右脚はまるで最初からそうであったかのようにきれいに無くなっていた。


「5キロ痩せちゃったよ、賭けはわたしの勝ちだね」


夕紀はまた笑った。カーテンの隙間からのぞいた陽の光が夕紀の目元を照らしたとき、ぼくは初めて夕紀の腫れぼったい目を見た。


交通事故明けの体には、空気が触れるくらいの振動でさえ存分に響いてしまうのだろう。


頭ではそう分かっていたが、ぼくは夕紀の体を抱きしめたくなった。



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