第2話暴君と嗜む地獄のティータイム

 一頻ひとしきり驚いて感情を落ち着けたのか、カッコ良くドクタームンムなんて呼ばれたのが満更でもなかったのか、期待の目を向ける私を見つめムンムは機嫌良さそうにして一つの場所を口にした。


「――女子修道院?」

「はい。そこで人知れず産み落とすのです。あそこならばいくら皇帝陛下と言えども勝手には介入できません。皇帝や貴族の力が極力及ばない場所なのです」

「なるほど」


 そう言えば地球の歴史上でもそう言った皇帝と教会の対立みたいなのがあったっけ。

 この世界でも似たような構図になっているのね。

 女子修道院なら貴族令嬢が一定期間滞在しても不思議じゃない。

 規則正しい時間割かつ禁欲的な生活と清貧を重んじる場所なので、それは大抵は何かをやらかしての罰だったりするようだけど、外部への情報もほとんど遮断されている場所だし期間を決めて籠るには最適だ。


「妊婦でも大丈夫なの?」

「大半が未婚ですが、一部はワケありで逃げ込んできた既婚者やアデライドお嬢様のような世間に公表出来ない事情をお持ちのレディ方もおられます」


 そうなんだ。まあ人生色々あるのはどの世界も変わらずね。


「うん、じゃあその案で行こうかな。となると、お腹が大きくなる前に修道院に入らないといけないよね。屋敷の誰かに知られたらその時点でアウトだもの、私もドクタームンムも」

「ええ。何か相応の理由を持ち出して籠るのがベストでしょう」

「相応の理由か。じゃあ皇帝陛下のおんために祈りを捧げたいとかは?」

「ご許可が降りればそれも可能でしょう」

「じゃあとりあえずそれでいくわ。親身になってくれてどうもありがとうドクタームンム!」


 からりと笑むと、彼はやっぱりちょっと目を丸くした。

 本物のアデライドはおしとやかで柔らかな笑みを浮かべるタイプだったからかな。


 さて何から始めようかと彼女の記憶を元に思案していた私は、ここで何か重要な予定を失念していたのに気付いた。


「ところで今日の私の予定って確か……」

「はい、午後からはヴィクトル陛下に城に招かれてのお茶の時間となっておりますね」


 どうして屋敷医がそこまでお嬢様の予定を知っているのかはともかく、私の顔からさっと血の気が引く。


 アデライドになってその日のうちに例の残酷皇帝とのご対面とか、何っっって運のない……っ!


 それにどうしてかアデライドとヴィクトルは、二人が関係を持った日以来、一度も会っていなかった。

 体調が優れないって理由で彼女が社交界に顔を出さなくなってしまったのが大きい。薬を盛られての失態に合わせる顔がなかったのか、殺されるかもって怖がって避けたのかはわからない。だけど余りにも連続して体調不良で社交場に出ないってわけで、皇帝の方が気分転換にとお茶会に誘ってきた。


 誘うなんて聞こえはいいけど、要は城に来いって君主命令だ。


 断ったら後が怖いやつでしょこれーっ。

 でもこんな微妙な空白期間を置いて急に音沙汰があるなんて、もしかしたら皇帝はアデライドが妊娠してないかどうか確認するために呼び付けたのかもしれない。

 そう考えたら、背筋が冷えた。


「お嬢様、くれぐれもお気を付け下さいね。万が一にでもバレれば……」

「う、うんわかってる。私だって死にたくないもの」


 半分我が事でもあるムンムが処刑の光景を想像したのかぶるりと震えた。

 ここから彼とは一蓮托生ね。彼が人の秘密を握って揺するような人間じゃなくて良かった。

 診察台から降りた私はよろよろとした足取りで廊下に出る。皇帝のお膝元、帝都にある伯爵家のタウンハウスの構造は頭に入っている。

 部屋に戻ったら急いで仕度をして、その浮いた時間分馬車をゆっくりと走らせてその中で少しでも休めばいいかとこの先の行動を計画立てていると、廊下にはムンムから出ているように言われた侍女が待機していて、出てきた私の顔色を見るなり心配そうにした。


「お嬢様、先よりも酷い顔色をなさっていますわ。今日はもう全てのご予定をキャンセルしてお休みになりますか?」


 アデライドの記憶を読み取れば彼女はいつも侍女と行動を共にしていた。だけどこの先、女子修道院に入る際には私一人じゃないと駄目よね。秘密を知る人間は少ない方がいい。彼女にもそのうち別の仕事を割り振ってやらないといけない。


「いいえ、皇帝陛下に招かれてるのよ、キャンセルなんてしたら明日の命があるかどうか……」


 それももっともだと思ったのか侍女は彼女まで顔色を青くするだけで何も言わなかった。

 そんなわけで、私は準備を整えるとお招きにあずかって大魔王ヴィクトル様の住まう城へと向かう馬車に乗り込んだ。





 綺麗な花の飾られた白いテーブルクロスの上にはサンドイッチやスコーンの乗った三段のケーキスタンドが、その他にも平皿のお菓子の数々、白磁のカップに注がれる黄金色の紅茶、贅沢品だろう可愛く花の形にされた砂糖を入れて掻き混ぜるのは銀のティースプーン……なーんて言った優雅な演出のアフタヌーンティーを私は想像していた。


 しかーし、実際に足を運んだお茶会は庭先ではなく屋内の一室で、分厚いカーテンが下ろされ窓は閉め切られ、昼間なのにキャンドル……ううんキャンドルって言うと何となくロマンチックなイメージだから蝋燭ろうそくね、そのある種悪魔の儀式のように灯された何本もの蝋燭明かりを頼りに手元の物を認識すると言った様相を呈していた。


 ここは遊園地の中の残酷領主のホラーハウスか何かなの?


 もしもの時の染みを目立たなくしたかったのかテーブルクロスは暗色で、辛うじて磁器だろうティーカップは白かったけど、心なし紅茶の色は赤く濃く見えた。

 銀の皿には美味しそうな凝ったお茶菓子が並べられているものの、どうにもこうにも部屋の雰囲気が食べたいとは思わせてくれない。


 それ以前に、席に着いた私はもう胃の辺りがムカムカとしていて吐きそうなのを必死に堪えていた。


 普通だったら食欲をそそるだろう香ばしバターの焼き菓子の香りが駄目だった。室内に入った時からそれは始まっていて、しかし迂闊にそんな様子を表に出そうものならきっとその日のうちに首が飛ぶ。おえっとしたら即最後。

 だってどう見てもつわりだって思われるでしょ。

 耐えろ私、耐えるのよ。


 向かいの席には堂々たる様子で二十歳過ぎと若きヴィクトル・ダルシアク皇帝陛下が腰かけて、さぞや血染めの似合うだろう銀の髪を一部後ろに撫でつけ形の良い額を出し、ザ・皇帝って感じの仕立ての豪華な衣装に身を包んでいる。上着と揃いのマントは外して壁のマント掛けに掛けてあった。


 肩幅もあって鍛えられたいい体なのはわかるけど着痩せするタイプらしくムキムキマッチョには見えない。


 そしてそんな彼は只今、じっとりとした視線で私の身に何か咎がないかどうかを見定めるようにこっちを見つめていた。


 獰悪どうあくな魔王みたいな紅い目が、これから私が流すかもしれない血の色のようで生きた心地がしない。

 性格の怖い男はタイプじゃないから当然超絶イケメンだからとときめいたりはしないけど、これで優しかったらなあと少し残念に思わなくもなかった。


 何にせよ、この部屋には私と暴君の二人きり。


 だからもしも彼がブチ切れて人知れず私を殺しても、私が彼の不興を買ったとか適当な理由で済ます事もできる。

 だって、目撃者が誰もいない。

 ヴィクトル様の独壇場だ。

 バッサリと良く切れる剣で私を殺った後に、


 ――さっさとこの汚物を運び出せ。


 とか冷たい目で言いそう。

 恐怖のドキドキがだけが増していく。生憎吊り橋効果なんてものは微塵も生じない。冗談抜きにここで粗相はできない。さあ気合い入れて……うっぷ、吐きそう~。


 密室同然だから菓子類の匂いが籠ってしまってかなり辛い。


「あ、あのー陛下、ちょっと窓を開けても宜しいですか?」


 ここではさすがにムンム相手と同じってわけにもいかず、私は丁寧な口調たろうと努めた。


「駄目だ。良くないものが入ってくる」


 よくないもの?


 善くない者……――刺客!?


 そっか窓から来るかもしれないんだ。この人は人を殺しまくってて恨みだって買っているはずで、暗殺者を差し向けられたり暗器が飛んできても全然不思議じゃないものね。だからカーテンは暗器を防げるように分厚いのかも。


「どうした? 焼き菓子は食べないのか? 今までなら喜んで手を伸ばしただろうに」

「き、今日はちょっと食欲がなくて……」

「何?」


 ひいーッ睨んできた睨んできた睨んできた!

 オレ様の持て成しを受けられないのかって目が言ってるッ。

 だけどここで一口でも口にしたら最後、絶対に吐く。体調不良って思われるならまだいいけど、王宮医に診察でもされたら人生から一発退場だ。


「へ、陛下の方こそ如何です?」


 私は傍の焼き菓子を手に取ってヴィクトル皇帝様の方に差し出した。

 彼が意外そうに両目を少し瞠った所でハタと我に返る。

 皇帝陛下相手に手でどうぞなんて何やってんの私ーっ!

 レディとして一応レースの手袋はしてるけどそれでも相手が相手だし失礼極まれりーっっ!


「…………もらおう」

「え?」


 気付けばヴィクトルさんたら手を伸ばして受け取って、そのまま口に放り込んだ。

 セ、セーフ……!

 ああ良かった。怒らなくてホント良かった。命拾いした心地で密かに胸を撫で下ろした。きっと好物の菓子だったのね。





「お嬢様、どうぞゆっくりと横になって下さい」

「どうもありがとう、ジャンヌ」


 ベッドの上に横になるのを支えて手伝ってくれる心配顔の若い侍女に、私は力のない笑みを返した。


 今は夜で、所はロジェ伯爵家のタウンハウス。


 白昼の地獄のティーパーティーから何とか生還した私の顔色は最早屍のそれだった。精神的疲労からかなり早めに就寝すると決めて化粧を落としているから素の顔色を晒している。侍女が心配するのも当然だ。


「うう、もうお城に行きたくないー……」

「お嬢様……。今日は何一つお力になれず申し訳ございませんでした」

「ううん、ジャンヌのせいじゃないよ。無理やり締め出されちゃったんだし。あそこで抵抗したらジャンヌの命が危なかったんだから気にしないで」

「お嬢様……ッ」


 そうなの。城に一緒に連れて行った侍女のジャンヌはお茶会の部屋には入れなかった。皇帝陛下が許さなかった。だから彼女はずっと終わるまで廊下で一人気を揉んでいたみたい。

 自分だって疲れているはずなのにこうして私を優先して気遣ってくれるジャンヌは優しくていい子ね。まあ侍女って言う立場上仕える主人優先なのは当然なんだけど、それを差し引いても彼女は心からアデライドを案じてくれている。幼少から仕えて長いってのもあるんだろう。

 私は彼女に労いの言葉を掛けてやって下がらせた。


 昼間のお茶会じゃ、ヴィクトルに一個目の焼き菓子を勧めて事なきを得たから、少し様子を見つつ二個三個と更に勧めた。


 さすがに好物だろうと同じ菓子を四つはまずいだろって思って他のを勧めると、何とそっちも食べた。ビックリだった。

 正直間が持たなくて菓子を勧めてみるしかなかったんだけど、最終的にお開きになるまで彼はトータル十個は食した。

 これまでの血で血を洗うような経歴からは想像が付かなかったけど、実は甘党だったのね。

 私は私でその間も吐き気を我慢するのに必死だったし、そのせいで一つも菓子は口にしなかった。臭いの籠った部屋で浮かべた笑みが何度吐き気で引き攣り掛けたか知れない。ホント苦労しかなかった……。

 あれなら襲いかかって来るゾンビを殺していくようなサバイバルゲームの中に転生した方がまだマシよ。彼はさすがはラスボス級で堂々として終始自分の席から動かず、ゲームのゾンビみたいに襲いかかっては来なかったけど、ジッと観察されていて生きた心地がしなかったっけ。

 会話だって全然弾まず、両手の指で事足りる程度しか交わさなかった。私が猛烈に具合が悪かったってのもあったけど、口は災いの元って言うし余計な会話をしないように心掛けた結果でもある。

 顔色の悪さは化粧と、あとはあの不気味なお茶会の薄暗さのおかげで何とか気付かれずに済んだ。


「きっとこれで当分はお招きもないよねえ……」


 彼は歴とした皇帝なんだしそう頻繁に令嬢とお茶を飲んでいる暇もないはずよ。

 次の招待……強制参内を告げられる前に早い所帝都を離れるのが賢明ね。


 ムンムが言うには、この屋敷から女子修道院までは馬車で片道三日もあれば着くらしい。


 帝都に隣接した街にあるそう。


 てっきり陸の孤島とか海の離れ小島なんかの人里離れた場所にひっそりと建っているのかもって想像していたけど、案外普通の場所で結構近い。この世界じゃ馬車で三日は近い方なのよね。同じ国内でも馬車で一月も掛かる場所なんてざらだから。

 近くて大丈夫って不安は全くなくはないけど灯台もと暗しとも言うし、辛い旅路の末に到着なんて苦労もなさげだしツイてるっちゃツイてるのかも。すぐにでもアデライドの父親アラン・ロジェ伯爵から滞在の許可をもらわないとね。

 だけどドッと疲れたその日はもう女子修道院行きの計画を詰める気力もなくて、早々に瞼を下ろした。





 翌日、私はロジェ伯爵家屋敷内にあるムンムの診察室を訪れていた。

 彼と計画を詰めるためだ。

 一人部屋の確保や食事など、生活全般の面倒を見てもらうのと引き換えの女子修道院への多額の寄付は心配ない。

 アデライド個人の持つ装飾品を換金してもいいし、許可さえもらえれば伯爵家で出してくれる。ロジェ家は筆頭でもないけど別に没落もしてないからそれくらいは余裕なの。


 まあ第一の関門は、パパ伯爵から向こうでの滞在許可をもらう事なんだけど。


 ロジェ伯爵はアデライドが皇帝と懇意にしているのをしめしめって思っているようだから、ずっとじゃないとは言え修道院に入ってしまったらその繋がりが断たれるかもしれないと危ぶむかも。そうなれば許可はもらえないかもしれない。


「改めて考えると、ただ陛下のおんために祈りたい~ってだけじゃ、説得するにはちょっと弱いかも」

「ふむ、確かに。祈りたいだけなら帝都の教区教会でもいいだろうとなりますから」

「そうなのよねー」


 でも他の理由を思い付かないし、一番強烈な理由たる妊娠は父親と言えどバラせない。もし知られたら最悪堕胎決定だ。

 更に悪い結末としては、娘があなたの子を身籠ったから責任を取って結婚を、と皇帝に直談判しに行く事だ。そこは娘を傷物にされた父親としての憤りか、或いは家長としてロジェ家の発展のための賭けかは知らないけど、そうなればどちらにしろ結末は死あるのみよ。


「はー、もう少し妥当な案を考えてみる」


 私の言葉にムンムが頷いた所で、急いたようなノックが聞こえた。


 扉越しに「お嬢様、急ぎお伝えしたい事がございます!」と侍女のジャンヌの声が聞こえてくる。打ち合わせの間部屋で休んでいるように伝えたんだけど、どうかしたのかな?

 ムンムと顔を見合わせた私はとりあえず彼女を中に入れてあげた。

 息を切らした彼女は、私を見るなり涙ぐむ。


「お嬢様……!」

「え、どうしたの? 誰かに意地悪された?」

「いいえいいえ私の事ではありませんっ。意地悪などされた日には張り倒しますし。っとと、そんな事より何と実は先程……っ、どうぞこれを……っ」


 かなり動転したジャンヌが震える手で差し出してきたのは一通の綺麗な封筒だった。招待状でも入っていそうな。


「誰からの……」


 裏返して蜜蝋の封シールの紋章を見た私は瞬間凍り付いた。


 ――ヴィクトル・ダルシアク皇帝陛下からだった。


 最高に嫌な予感を胸に、震える手で恐る恐る封書を開いて読んだ内容を要約すると、明後日また城にお茶を飲みに来いって書いてあった。


 ……血を吐くかと思った。


 ムンムにも絶望と投げ遣りの挟間で読んでって手紙を見せて、予想通り彼も表情を強張らせた。

 嘘でしょーまたつわりとの闘いが確実な暗黒お茶会に行かないとならないだなんてっ。

 陛下は昨日のでもしかして何かを感付いた?

 だからこんな近い間隔でまた来いって言ってきたの?

 同衾する以前でも顔を合わせていたのは多くて週一だったのに。因みにこっちの世界でも暦は西暦と似ていて一週間は七日ある。


「はあ、行くしかない、か」


 私は頭を抱えた。ムンムもジャンヌも視線を伏せ、その場はしばし葬式みたいな沈痛な沈黙が続いた。





 はい、そんなこんなでやってきました翌々日。

 つまりは第二回ヴィクトルさんとの闇のお茶会の日。

 今回はわざわざ城からの迎えの馬車が来てお招きに与りました私臨時アデライド・ロジェは、物凄く試されていた。


 一度目の倍は量も種類もあるカラフルでファンシーなお菓子の前に座し、必死に生唾を呑み込んで吐き気を堪える。


 生憎今回も部屋は閉め切られていてジャンヌは入室不可。

 蝋燭の炎がぬらりと揺れる度に部屋の陰影も不気味に動く、ロマンチックの欠片もない二人きり。


 壁に血の魔法陣があっても驚かないおどろおどろしさの中、私は正面の席で鎮座するミイラみたいにこっちをじーーーーっと見つめてくる栄光のヴィクトル皇帝陛下と目を合わせないようにしていた。


 だって目を合わせたら「最期」って思う。まだメデューサ見て石になった方が救われそう。

 うっぷ……キツイってマジに~っ。

 紅茶にも手を付けられずに膝の上でぐぐっと両手を握り締め、つわりの衝動に耐え忍ぶ。

 額に脂汗が滲んでいたけど、前髪を下ろしているから何とか見られていないはず。


「……今日も食べないのか?」


 ぎくりとした。微かに肩を震わせたのを気付かれてないといい。

 今日「も」って所に含みを感じる。

 やっぱりまさか妊娠を悟られているの?

 ううん待ってそう断言するのは早い。こっちが何か隠している気はするものの確証がなく、だからカマかけしてるだけかもしれない。


「ええと、その…………ッ」


 我慢していたのに喋ったせいか、急激に強い吐き気に見舞われた。

 臭いが二倍で限界だったのよ。


「うっ……」


 即座に立ち上がった私は窓の方に走った。新鮮な空気を吸えばまだ何とか踏みとどまれるかもしれない。

 分厚いカーテンを開けて窓を勢いよく開け放ち、深呼吸する。


「アデライド!」


 叱責にも似た声が飛び、後ろに強く腕を引かれた。

 背中がヴィクトルにぶつかった。


「何をやっている! 先日も開けるなと言っただろう!」


 声に滲むのは不愉快の色だろうか。

 今にも刺客がナイフを投げて来るのかもしれない。

 急に明るい光を見たせいで視覚もまだ微妙だし、きっと私は避けられない。

 どうしよう死ぬかもとギュッと目を瞑った。


「今日も外の風はそこそこ冷たいんだぞ!」

「…………はい?」

「ここの所体調が優れないのだろう。風邪でも引いたらどうする」


 え、何?

 窓を閉め切ってたのはまさかそんな理由?

 ヴィクトルはアデライドの体を心配していたの?

 気に入っている子だから?

 でも城まで馬車で普通に来たけど? まあいつも以上にふかふかで快適な馬車だったとは言え、心配しているなら呼び付けるなってのよ。

 そもそもヴィクトル・ダルシアク様の辞書に心配とか案じるって言葉があったのおおお!?

 私の頭はちょっと混乱して言葉を紡げなかった。


「この前も今日も一切手を付けない所を見ると、アデライド、お前は私に怒っているのだろう?」

「え?」

「どうしたら赦してくれる?」


 彼は後ろからするりと私のお腹に両腕を回してきて、その力を強めた。


 子供が居るのに圧迫されて、私の中に瞬間沸騰にも似た感情が生じた。


「――ッ、やめてっ! 死んじゃうでしょっ!」


 咄嗟に込み上げた怒りのままに叫んでもがいて逃れてからハッと我に返った。


 よくよく思い返せば今のは決して無理な力じゃなかった。


 でも、だけど、子供に害があるかもって思ったら止められなかった。


 この子を殺されて堪るかって必死だったから。


 ……言い訳だけど。


 意外にもあっさり解放されたものの、やっちまった感は拭えない。

 皇帝の腕を振り払うなんてどう考えても不敬罪。

 やばいやばいやばいやばいごめんムンムーーーー!

 今にもサクッと背後から剣で突き殺されるかもしれないし、バッサリ背中を斬られるかもしれない。あ、首が飛ばされるかも。

 私は振り向けないまま全身を強張らせ、処断を待った。


 だけど、一向に何のアクションもなかった。


 ううう、ここは怖いけどヴィクトル様の様子を見るべきだよねえ。赤眼を殺意にギラギラさせて私を睨んでいるかもしれない。

 心底ビクつきながら恐る恐る振り返った私が見たのは、紛れもなくヴィクトル本人の姿だ。ただそれはショックでも受けたように呆然と突っ立つ様だった。

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