春嵐(はるあらし)

私はジル先生のことが好きであるようだ、と気づいたその後の数日間、仕事から帰宅しては意味なく部屋を歩き回ったりベッドに横になったりして、どうすべきなのかを考えていた。

考えても考えても、先生の事を思うと生まれる胸の中のほの温かいしこりは消えてくれることは無く、むしろキリキリと心臓を締め付けるように痛む。横になっていると自然と涙が溢れる。


ガルディウスは本当に俺と結婚して後悔しないか、と問うた。それをそのまま聞けば私が先生のことを好いていることを指摘したいように聞こえるが、私自身が気づいていなかったこの感情を彼が見抜いていたというのか。つまり、ガルディウスは身を引くことも考えているのか。

そもそも、先生が私を受け入れてくれるかもわからない。いや、先生のことだから、たとえ私に好意を持ってくれていたとしても、ガルディウスのことを気にして隠し通そうとするだろう。


でも、先生の気持ちが知りたい。私の気持ちも知ってほしい。パタ、と、一粒涙が零れた。

知りたい。知ってほしい。シーツに顔をうずめ、痛烈に思った。

もし何か見つけても、俺のことは気にしなくていい。というガルディウスの声が蘇る。それに背中を押されるように、また胸の痛みに追いやられるようにして机に向かうと筆を執る。その手紙に差出人の名は書かないでおいた。



翌日、王都は珍しく本降りの雨が一日中降っていた。私はアンリに協力してもらい、夜になると家を抜けだして商業区の外れにある豪奢なホテルの一室に来ていた。ここなら安全だからとアンリが用意してくれたのだ。

夜になるといよいよ強くなった雨粒が、ホテルの分厚い窓ガラスに当たってビシビシと音を立てる。その音が私の胸の中のざわめきをかき消してくれるようで、私は内心もっと降ればいいのに、と思っていた。


もっともっと強く降って、不安と期待とある種の恐ろしさがないまぜになったこのぐちゃぐちゃの感情を雨のせいにさせて欲しかった。


それに、雨脚が強くなれば先生は来ないかもしれない。その方が諦めがつくかもしれない。こんな夜更けに呼びだすなんて非常識に、さらに差出人すらハッキリしないという非常識を重ねているのだ。きっと、きっと来ない。

お願い、来ないで。そうすれば、諦められる。

私は罪人のように小さく縮こまって限界まで照明を落としたホテルの一室で一人カウチに座り、頭から被った外套をずっと握りしめていた。息がしづらくて、ざあっという雨音に合わせて意識して息を吸って、吐いた。


コンコン、と、控えめなノックの音は初め幻聴だと思った。もしくは自分の心臓の鼓動を聞き間違えただけなんじゃないか。

嘘、という思いと、まさか、という思いと、期待していながら恐れていたことが起こったという事実に身じろぎすらできない。

コンコン、と今度はハッキリとノックの音がした。

「は、い…」

私は絞り出すように返事をした。戸惑うようにゆっくりと扉が開く。廊下の煌々とした明かりに、背の高いウェーブ髪のシルエットが浮かび上がる。

「…レティシアさん?」その声はいつものように柔らかく私を呼ばう。その声が金縛りを解いてくれたかのように、私は立ち上がることができた。

「…ジル先生、あの、すみません…急に、その、…」

ジル先生がどんな顔をしているのか怖くて見ることができなくて、私は先生のつま先だけを見てモゴモゴと言った。


先生が一歩部屋に入り後ろ手に扉を閉めると、部屋には安心する薄闇が戻ってきた。その闇を縫うように、先生のつま先が私に近づいてくる。私は相変わらず外套を握りしめたまま、何も言えず、何もできなかった。つま先が私の一歩前で止まる。衣擦れの音がして、うつむいた私の被ったままだったフードが下ろされた。

「…何があったんですか」

先ほどよりも少し硬い声で先生が問う。

「…具合が悪い?」

フードを下した手がそっと私の額に触れる、その冷たい感触に鼓動が跳ね上がる。

「ごめんなさい私っ、あの、まずタオルを…」

額に触れた手から逃げるように踵を返そうとした、私の手首を先生がきつく掴んだ。咄嗟に先生の顔を見上げてしまう。先生は不安そうで、怒っているような、困っているような顔をしていた。私も今、同じような顔をしているのかもしれないと私の頭の中の冴えた部分で思った。

「…どうしたんですか…!」

先生の前髪から水滴が一粒こぼれ、パタッという音がやけに大きく部屋に響いた。

ごめんなさい、と言ったつもりだったが、正しく言葉にできていたかわからない。まるで自分のものではないかのようなかすれた音が喉の奥で鳴った。


「…具合が悪い?」

先生が開いている手で改めて私の額に触れ、首筋に触れる。私は小さくかぶりを振った。

「脈が少し早いですね。…どこか怪我をしました?」

私はまた小さく首を振る。

「どうしたんですか。レティシアさんらしくない」

私が無事とわかってか、幾分声色が柔らかくなり先生が苦笑した。掴まれていた手首が離され、急に人の体温を失ったそこが寒々しく感じる。あ、…と先生が小さく声を漏らす。

「すみません、痛かったですね…」見れば掴まれていた手首が少し赤くなっている。ただなんてことはなく、数刻も経てば跡かたなく消えるだろう。

消えなくてもいいのに。

「…消えなくてもいいのに」その感情を確かめるように小さく口にする。

先生は静かな顔で私の真意を確かめるように私を見つめている。

「…どうしたの」

私はその問いには答えられず、先生に一歩近づくと、雨に湿ったシャツの胸のあたりに指先で触れた。先生の体温で指先がほんのりと温かくなる。

細く長く息を吸いながら私の気持ちが正しく伝わるように祈った。先生の顔を見ることが怖くてうつむいたまま、それでも精一杯の誠実さと愛をこめて告げた。

「ジル先生に会いたかったんです」

先生の胸がドキンと強く鳴ったのが指先から伝わってきた気がした。それが気のせいでないことを祈りながら、その鼓動に後押しされるように続けた。

「あなたと二人で会いたかった。私が…私のこの気持ちがなんなのかを確かめるために。私、先生のことをお慕いしています」


◇◇◇


まるで何かの封印を解こうとでもするように自分の胸元に触れた指から、ひんやりとした彼女の体温を感じた。

自分の耳に届いた言葉で、彼女はその感情を見つけてしまったのかと落胆した。それは確かに深い落胆だった。レティシア、君はそれを見つけてはいけなかった。君はガルディウスのところに帰らなければいけないんだから。それに僕はその気持ちを受け入れてあげられない。君を傷つけないために。


そしてまた、来るんじゃなかったと激しく後悔した。差出人の名は無かったけれど、上質な紙と封筒を見ておよその差出人の想像はついていた。彼女からの意味深な呼び出しに、何が起こるかなど予想ができただろうに。いや、自分は内心予想しつつもそれに目を伏せてここにいるのかもしれない。だから彼女が呼び出しの主とわかったときも驚かなかったのか。

そう冷静に考える一方で、腹の中に潜む黒い感情が、もう何年も心の奥の深いところに押し込められ続けてきたその感情が、表舞台に出ようとうずうずと語りかけてくる。ほら、彼女はやっと僕が好きだって言ってくれた。わざわざこんなところに呼び出してまで。もう我慢すること無いじゃないか、本当はどうしたいのか考えてみなよ。

本当はもう何も考えずに、いつかのときのように彼女を抱きしめてしまいたかった。抱きしめて、それから。


そこまで考えたところでこれ以上はいけないと思って思考を止め、冷静にふるまおうとして大きく息を吸い込んだ。

「…君は…ガルディウスの婚約者でしょう。それに僕は、彼の友人だ」

「ルディが、言ったんです。俺を本当に愛してるのかって」

「…え?」

逃げ口上のつもりで言ったセリフに意図しない返事が返され、呆然としてしまう。

「…ディーが?」

「…俺と結婚して後悔しないのか、とか、もし誰かを見つけても自分のことは気にするなって…」

「…なるほど、まったく…」

『レティシアを見ててやってほしい』『お前、もしかしたら寂しくならないかもしれないぜ』いつか聞いたガルディウスの言葉が耳によみがえった。

予想だにしない番狂わせだった。彼は絶対にレティシアを手放すことは無いだろうから、万が一レティシアが自分の気持ちに気づいたとしても彼を盾に逃げられると思っていたのに。君らしい好意だけれど、人の気も知らないで。


大きくため息をつくと、怯えたように震えたレティシアの指先がシャツをきゅっと小さく握った。それがまた僕の腹の奥をあおる。

握られた胸元が早鐘のような鼓動を刻んでいることに気づく。それに気づかれたくなくて彼女の手をそっと掴むと、指先に伝わる彼女の鼓動も自分と同じくらい速い。その健気な鼓動にめまいがするようで、彼女の指先に口づけたいと強く思った。震える指先から目を逸らしやっとのことでその腕を離す。

「馬車を呼ぶから、帰りましょう」

「…先生は、私のこと、嫌いですか」

絞り出すようなその声は彼女の体と同じで細く脆い。

好きも嫌いも言いたくなかった。自分の気持ちに少しでも触れてしまったらきっと理性のタガが緩んでしまう。

「…そうは、言ってない」

「じゃあ、」

「お願いだから。話はまた今度聞くから。…君は…自分が何をしているのかよく考えた方がいい」

「何してるのか、って…」

オウム返しされたその言葉に思わず小さく笑ってしまった。聡明な彼女は、恋愛は苦手領域らしい。

「あのねえ、レティシアさん。僕って、そんなに無害そうに見えます?あんまり無防備にしていると、怖い目にあうかもしれませんよ。…ほら、帰りましょう」

踵を返そうとした僕の腕をレティシアが縋りつくように掴んだ。


「ちゃんと話してください。お願いです。…嫌いならそれでいいですから…逃げないで…!」

予想だにしなかった挑戦的な言葉が返されて呆れてしまった。そうだった、君はそういう子だった。どんなに辛くても怖くても決して逃げず諦めずに立ち向かっていく。こんなに、逃がしてあげようとしているのに。逃げなきゃいけないのは君だろう。


だから決めた。あおったのは君で、僕は忠告もした。それでも踏み込んでくるのなら、もう許してやれない。

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