氷解
「僕が逃げれないってことは、君も逃げられないってことだけど。それを分かって言ってる?」
それは先生の口から発せられたとは思えないほど、一瞬で内臓が凍り付きそうなほど冷たい声音をしていた。私は信じられない思いで先生を見上げる。いつもと変わらぬ先生のはずなのに、瞳にはぎらぎらと力が満ちている。…これは誰。
「は、い…」
肉食獣ににらまれたかのように動くことができないまま、口元だけを何とか動かして答えた。
「自分がどういう状況か、君はわかっているの。ディーは本当に君に何も教えてないんだね」
…これだけ長く一緒にいるのに何やってんだか。嘆息しながら言うと、先生はカウチにドサッと腰をかけて口を覆うように頬杖をつく。その仕草はいつもの先生とは違って、何かを振り払うように粗野で粗暴に振る舞おうとしているようにみえた。
「僕も…君のことが好きだよ」
本当は喜ぶべき言葉なのに、先生の不穏な言い方に私の心は動けずにいる。
「この気持ちは君のとは違ってずっと汚いけど」
「…どういうことですか」
「…知りたいなら存分に教えてあげるけど、知りたい?僕は君だけには知られたくないと思ってるけど、君が知りたいなら教えてあげる」
先生は愉快そうに目を細めていっそ酷薄と言える笑顔を私に向ける。私の体は全身小刻みに震えていた。怖い。けれど知りたい。だって先生が何を言っているのか、言おうとしているのか、全然分からない。
私はぎこちなく頷いた。まるで古くなったブリキのおもちゃのように、ギシギシと軋む音が聞こえそうだった。
そう。バカだね、君は。せっかく守ってあげようとしたのに。
先生が私に腕を伸ばす。その手に触れようとしたところで腕を捕まれぐっと引かれてバランスを崩した。咄嗟に見つめた先生の瞳は相対する敵を殺そうかという瞬間のように冷ややかだった。踊らされるように私の腰に腕が回される。
ドサッという衝撃に自分がカウチに横たわり、その上に先生が馬乗りになっていることに気づく。
…うそ。先生が警告しようとしたことの意味がようやく理解できた時には、私の両腕は頭の上で彼の片手にやすやすと縫い留められていた。
そのまま、私は目を見開いたまま動けなかったし、先生も動かなかった。早鐘のような鼓動が息を締め付けて、私は口で浅い呼吸を繰り返した。
…まさか、そういう対象として見られていたなんて思いもしなかった。だって先生はいつも優しくて、ガルディウスの友達で、チョコレートをくれて、それで…こんな顔は見せてくれなかった。
見上げる彼はいつもの『先生』の顔ではなくて、男の人の顔つきをしていた。その表情に胸の奥の深いところがぎゅうっと、とても切なく絞り上げられるようになる。彼の顔がゆっくりと近づく。私は反射的に目をつぶった。
「これで」
急に耳に囁かれた言葉に身体が硬直する。
「分かったでしょう。僕が君をどういう目で見ているか。…これ以上は本当に無理だから、だからもう僕に近づかないで」
低く甘くひそめられた声で耳をついばまれるようにゆっくりと囁かれて、その淫靡なくすぐったさにさらに息が詰まる。
わかった?と、唇で耳朶をなぞられたら、思わず口から息が漏れた。
◇◇◇
体を固くしている彼女から引きはがすように上体を起こした。とてもじゃないけど彼女の顔は見れなくて、そのまま立ち上がるとフロントに馬車を呼びに行こうとした。
「わ、私が先生に、よしよしして欲しいって思ったら、それも汚いですか?!」
この期に及んで返された反論があまりに牧歌的で僕は毒気を抜かれたようになる。…よしよしだって?
先ほどまでの緊張感をすっかり書き換えてしまうようなその一言に、彼女を振り向いた。起き上がり顔を真っ赤にしている彼女と目が合う。
「先生はモテるのになんで誰とも付き合おうとしないんですか。そ、そんなにその…そういうことがしたいなら、愛人でもなんでも抱えたら良いのではないでしょうか。そうしないのはなんでですか?!」
興味がないから。君にしか。と心の中で応える。
「私が先生に撫でてもらって喜んだら、それも汚いですか?…私、いつも…その、喜んでますけど…」
最後の一言を、彼女はカウチに置いてあったクッションに顔をうずめながら言った。その子供っぽいしぐさにさらに牙が抜かれたようになりため息が漏れる。
「でも、誰にでも撫でられれば良いわけじゃないです。先生だから、嬉しいの。それは汚い気持ちじゃないと、思いたい。だから…」
すっかり気持ちが削がれた僕は、彼女が何を言おうとしているのかに興味をひかれてカウチに腰かける。
「好きな人に触れたいと思うのは、普通のことなのではないでしょうか。私だって、先生に触れたいと思いました。それが汚いなら、汚いもの同士でいいのではないでしょうか!」
一瞬、突然閃光が目に差し込んだかのように視界が真っ白になった。その後もあちこちでぱちぱちと光が爆ぜているようだ。視界の彩度が急に上がったように見える。
しばらく、彼女が言ったことの意味を理解しようとしていた。
きっと彼女はいつものように、自分が言っていることが意味することを知らないのだろうと思った。そして僕も、彼女が言っていることが意味している、ふわふわとした実体のないものを掴み切れないでいた。
「僕に触れたいって?」
どんな言葉を返すべきなのか全く見当がつけられなかった僕は、ひとまず分かりやすい言葉に取り付いた。
「…はい」
「…どうぞ?」
手をひょいと差し出すと、彼女はほんの少しだけクッションから顔をあげて、ん。と指先を握った。いつもは白い指先のその先が、彼女の顔と同じようにほんのり赤らんでいることに気づいた途端、鼓動が速くなる。
彼女に掴まれた僕の指先。ずっと、僕は触れたい気持ちを胸にしまい込んでいたのに、それを君は、こんなに簡単に。
「僕に何されて嬉しいって…?」
「…撫でてもらったり、とか」
「とか?」
「いつも、チョコレートを握らせてくれたり、とか」
「とか」
「だ、抱きしめてくれたり…とか…」
「…それで、君は、嬉しいの」
泣きたいような笑いたいような、よくわからない何かが胸の中から大きくせりあがってくる。
「嬉しい、です…ずっと、そう、思ってたみたいです…」
僕だから撫でられて嬉しいと、僕に触れたいと言ってくれた。ならば、言ってもいいのだろうか。僕も。
「…僕も、君に触れたい。君だけに」
これまで直視することすら恐ろしかった、ひたすら耐え続けるしかなかった願望を口にする。ようやく表舞台に立てたその思いは、もう黒々とした汚らわしいものではなくなっていた。
僕の指先を握る彼女の指に力がこもった。
僕は彼女の輪郭を確かめるように、頭を撫で、頬を撫で、首筋を指でたどり、肩に手を置いた。こんなふうに愛を込めて触れることなど絶対に叶わないと思っていたのに。
「…嫌じゃないの」
「…好きな人に触れられて嫌に思う人なんて、いません」
その言葉に全身の力が抜ける。もう何も考えずに彼女を抱きしめた。彼女が背中に添えてくれた手のひらの温かさが、全身をじんわりと包み込んでいく。
「…レティ。愛してる。ずっとずっと前から、君を愛してた」
「…ずっと?」
「そうだよ、ずっとずうっと。…君に『ごはんを食べなさい』って言ってきた年数と同じだけ」
淡く笑えば彼女は息をのむ。そして首筋にすり寄ってきて、私もあいしてる、と小さくつぶやいた。それがいじらしくいとおしくて、彼女を包む腕に力がこもる。
「レティ…もっと、触れてもいい?」
頷く彼女の顔を持ち上げると、僕は彼女に口づける。
甘やかな夜のはじまりを、降りしきる雨が優しくつつんでいた。
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