最後のひとひら

「はあーお腹いっぱい~」

ジルに北方行きを告げた後、俺とレティシアはどんぐりととまと亭でささやかな祝勝会を上げた。帰還後初めてのディナーだったのでもっと品がある店に行こうと思っていたのだが、俺があの店によく行くことを誰かから聞いたレティシアがリクエストしたのだった。


店ではお互いの一か月がどんなだったかを沢山話した。俺はラウリイの話や、教会の修繕がどれだけ大変だったかということ。そして、実はジャンが無口なやつで、あまりに喋らないから会話を忘れそうだった、ということ。レティシアは笑い転げたり、南方で見た作物や虫について書庫係の知識を披露してくれたりした。

久しぶりに会えた彼女の姿に、内心、やっぱり可愛いんだよなあと思ってしまう。この後話さなければならないことを考えると、ずきりと胸が痛んだ。


レティシアの方は、図書係の評判がうなぎ登りになってしまったため、相談に対応しきれなくなってしまったということ。仕方なく投書式に変更したうえで、人を二人増やしてもらったそうだ。

そうそうそれでルード文官長のところにお願いに行ったんだけど、最近やけにニコニコしててご機嫌なのよね。というのでよくよく聞けばニコニコしてるのはレティシアの前でだけらしい。俺の可愛い婚約者様の聡明さが発揮されるのは、恋愛以外の領域に限るということが改めてよく分かった。


「ねえところで、派遣先で何かいいことあった?なんだか前と雰囲気が全然違うみたい」

「…ああ。…夜分に悪いんだけど、それについて二人で話したいんだ。もう少し時間いいか」

「?どうしたの改まって。もちろんよ」

俺の真剣な口調に戸惑いながらも、レティシアは俺を家に招いてくれる。俺は伯爵と夫人に夜分の来訪を詫びるが、二人とも慣れたものなので気にしていないようだ。


レティシアの部屋のソファに座ると、アンリさんが紅茶を出してくれた。レティシアは俺の向かいに座って、俺が話し出すのを待っている。

「…さっき、派遣先での村の話をしたろ。俺、楽しかったし嬉しかったんだ。騎士として人民に尽くし、彼らの幸せを守り育てる。やっとそれができた。王都以外の人たちと触れ合う機会なんてほとんど無いだろ?だからなんつーか…本当にいるんだ、って思ったんだ。変な話だけど、農作地区にもちゃんと人が暮らしてるんだって」

俺は初めて会った時のラウリイの涙や、俺らを有難がって拝んでくれた婆ちゃんや、あの偏屈な村長の村で最後に礼をしたその時の気持ちを思い返していた。

今も、彼らが幸せな夜を迎えているといいと思う。


「だから、北方遠征にも行きたいんだ。危ない北方で不便な生活を強いられてる人たちを助けたい」

そこで言葉を切った。真摯に聞いてくれていたレティシアは、俺の決断を応援するように頷いてくれた。それを見て眉を落とした俺に気づくと続く言葉を察したらしく、悲壮な顔で口を開こうとする。それより先に意を決して俺が言った。


「お前は連れて行かない」

言いたかった言葉を封じられてしまった彼女は顔を歪めて唇を噛んだ。こうなることはわかっていたが、やはり彼女のつらそうな顔はこたえる。じりじりと胸の中が焦げるように痛みだす。

あえて連れて行かない、と言った。行けないといったら彼女はきっと、行ける方法が見つかるまで考え込んでしまうだろうから。奇跡のような逆転を諦めきれずに。


「…私の体のせい?」

やっと口を開いてくれた彼女は、自分を責めるような口調でそう言った。

「責任を感じないでくれ。でも、それも確かにある。ちょうどお前が風邪で寝込んだころにジルに相談したんだけど、やっぱ危ないってよ」

心臓の話はしないでおいた。ジルは普段の生活ならば命の危険は無いと言っていたから、俺が今伝えることもないだろう。レティシアを見れば何かに驚いたように目を丸くしていた。

「悪い、ジルに相談したの言ってなかったな?」そのことが驚かせたのかと思い告げると、レティシアは微笑んで首を横に振った。


「あと…。…俺は未熟だから、お前が側にいたら俺の全部をお前に捧げたくなるんだ。他のことなんて目に入らなくなっちまう。今も。絶対に北方遠征に行くって決めたはずなのに、お前の顔を見てたら…どうでもよくなってくるんだ」

レティシアと会ってからずっと悩んでいたことだった。レティシアさえ側にいてくれて、笑っていてくれたらそれでいいんじゃないか。この選択は正しいのかという疑問が頭を渦巻いている。

俺は、頭を抱えながら、いつかレティシアと通りかかった路地裏を思い出していた。でも。本当は、あの路地の暗がりに潜んでいたやつこそ、俺は救ってやらなければいけなかったんじゃないか。きっと一人で苦しんでいたのに。

「…それは、だめ」

「…そう、か。やっぱりそう思うか。…だから、お前の体のことが無くても俺は一人で行かなくちゃならない。意志の弱い男でごめんな」

俺の言葉に、レティシアは俺の隣に座ると手を握った。

「意志が弱い人は、こんな手になるまで訓練できないわ。…行ってらっしゃい、ルディ」

俺の手のひらを両手で包み込むようにしてくれる、その姿に愛しさがこみあげる。その顔にさっきまでの悲しみの色が無いことを確認して、よかった、と思った。


「あと、もはや総統院の賢人であるレティシア様を俺の身勝手で連れ出すわけにもいかないしな?」

「なによそれ、賢人って」

「派遣された村が、書庫係に小麦の病害を相談した村だったらしい。おかげで被害が少なく済んだって感謝してた。可愛げのない偏屈な村長だったけど、『総統院の賢人にお礼を言っとけ』って言われたよ」

「そうだったの…」

「この前国を守りたいって言ってたけど、お前はお前のやり方で、もうちゃんと守ってるよ」

その言葉が彼女の心に届くまでの一瞬ののち、レティシアは小さな子供のように顔をくしゃくしゃにすると膝を抱えて嗚咽した。俺は子供をあやすように彼女の頭を何度も撫でる。

「や…っと俺の前で泣いたな」

ようやく、俺が知れないままで最後まで残っていた彼女の心のひとひらに触れられた気がした。いつでも強くあろうとし続ける頑固でかわいい婚約者の柔らかいところ。それを傷つけないように包み込むように彼女を抱きしめた。

「愛してるよ、レティ。俺が守りたいと願った最初の人」

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