発露
自分は医務室のデスクに座ってはいるが何もする気になれないまま、本を広げたりノートを眺めたりしているうちに窓からは温かいオレンジ色の夕日が差し込む時間になっていた。
ずっと、今日の午前中のことを思い出していた。
いくら聡明な彼女であっても事態の挽回は難しいと思っていたから、今朝顔を合わせるのが怖かった。失意に沈んだ彼女に何がしてあげられるのか、全く見当がついていなかったから。それがまさか、軍事局長を連れてきて事態をひっくり返してしまうなんて。
「あんなに小さいのに、やることは案外豪胆なんですよねえ」と独り言ちて笑った。
奇跡が起こったのだと、きっとあの場にいた全員が思っていたはずだ。何か一つ欠けても成り立たなかった奇跡のような作戦ができた。いや、できたんじゃなく、彼女が引き寄せた。あのときの興奮が今でも脳を痺れさせている。
はあ、と一つ大きく息をついて、帰ろうと思った。もともと今日はずっと不在の札を医務室に掛けたままなので誰も来ていない。それでも、今日は十分働いただろう。
そのとき、ゴンゴン、と医務室のドアが叩かれた。いや、正確に言えば蹴られたのだと、その音を聞きなれた自分にはわかった。
「…まあそうなりますかね」扉を開けに向かいながら、自分はこうなることを予期していたからこの部屋にとどまっていたんだと気づいた。いや、予感ではなく、期待か。
「おかえり?」
ガルディウスがぐったりと目を閉じているレティシアを抱えて立っていた。
「…家じゃねーよ」
ガルディウスは慣れた手つきでレティシアをベッドに横たえると、自分は診察用の小椅子に座った。
「今日は、お疲れさま」
「ああ…つっても、別になんもしてないからな俺は」
「それは謙遜しすぎでしょう。十分過ぎる働きでしたよ、君も、レティシアさんも」
「じゃあしょうがないから、お前も頑張ってたってことにしてやるよ」
「どこから目線なんですか。まったく可愛くないなあ。…レティシアさんが倒れたのは、書庫で?」
「ああ。ラウラ嬢が軍事局まで呼びに来てくれた」
「いつもご苦労なことで。ラウラ嬢と言えば、彼女がのろしの案を出した時の君と閣下、まさに鳩が豆鉄砲を食ったような顔してたよ」
「…あれなあ…いや、でも、閣下も気づかなかったんだから俺が気づけるはずないだろ。ウチの軍じゃ使わねーんだよ、のろし」
「言い訳だなあ…でも、よかったですね」
「…ああ。よかった」
よかった、と言っている割にディーの表情も声も暗い。北方行きを相談されたときのような、重苦しい深刻さを背負っている。
「…お前は医局に残れるように、閣下に進言したいと思ってる」
「…どういうことです?」
「お前どーせ、最初の、第二外区での処置にいくつもりだったろ?それを行くなって言ってんの」
「なんで?」
「俺は現場に行かなきゃいけないからさ。…レティシアを見ててやってほしいし、もし急な作戦変更があった時に相談相手になってやってほしい。お前が医局で一番腕が立つのは知ってるけど、他の医者でも問題ないだろ?」
ディーはこれまでにも軍事演習や夜盗の掃討などで数日開けることはあったが、こんなふうに留守を頼まれるのは初めてだった。背負っている深刻さと相まって何か嫌な予感がする。
「君の言うとおり、僕じゃなければいけない理由は無いですし、医局長の判断に従いますよ。ところで…何がありました?大丈夫ですか?」
「大丈夫では、無いかもしんねえ。でも、悪い、お前にはまだ話せねえ」
その言葉にゆるく首を振る。
「ただ心配してるだけですよ。一人で考えて答えが出ないなら力になりたいだけで」
ルディはお前ほんと兄貴みたいだなとかすかに笑ってくれた。
「まあ、でも、そうかあ…お前ならまあ、しょうがないかな…」
ディーは苦々し気によくわからないことを呟くとまた落ち着いたら来るわと言いながら力なく医務室を出て行った。
「…せんせ」
レティシアのかすれた細い声が聞こえたのは、ディーが出て行ってからしばらく経って夜が訪れ始めた頃だった。
「おはようございます、今日一番の立役者さん。お加減はいかがですか」
「…のど、乾いた」
重い低血圧に陥っているらしい彼女はまだ半分夢の中にいるようだった。横になったまま、とろりとまどろんで言うその姿から強制的に目を外すと、カップに水を注いで差し出して自分はデスクに戻り、彼女から視線を逸らすように窓の外を見つめた。
こく、こく、と水を飲む音がやけに大きく部屋に響く。
「これ」
少しだけ目覚めたらしい彼女の声に目を向けると、カップをサイドテーブルに置いた彼女は右手のひらに巻かれた包帯とこちらを交互に見ていた。会議の最後に紙を渡した時から、その手のひらに爪でえぐった傷があることに気づいていた。何かに耐えるべくしてついた傷だと思った。
椅子を滑らせてベッドの隣に行くと、少し迷ってからその右手を握った。これは患者への説明の一環だから、と自分に言い訳をして。
「消毒しておきました。君のことだから仕方がない事情があったんだろうけど、もうやめなさい」
「はい」
「今日は、頑張りましたね」
自分をうつろに見つめる彼女の目が、また、ゆるゆると潤んでくる。会議の最後にも浮かべていた涙は、しかしあの場で流されることはなかった。ディーの胸で泣くのかと思っていたのに。
もし彼女が泣く場所を探しているなら、自分がそれになれないかとまた願ってしまいそうになる。
今ここでは堰き止められなかった涙は、とうとう眦まなじりから一粒こぼれた。一度こぼれはじめたら止まらずに、後から後から溢れてくる。
ハンカチを取ってこようと右手を離し立ち上がろうとするが、その袖口は今度は彼女に捕まった。ずきんと胸が痛むように鼓動する。
「できていましたか、ちゃんと」
縋るような問いだった。
「できてたよ」
「本当ですか」
「本当に。閣下も、いい作戦だって、言ってくれたでしょう」
「ダメかもしれないって思ってました」
「うん、僕も」
「でも、諦めたくなかったんです」
「うん」
そこで彼女は初めて、顔をくしゃくしゃに歪めた。
「先生に、第三外区を放棄するなんて言わせたくなかったから」
「…え?」
初めて自分は眉をひそめた。自分がなんだって?途端に話の流れが見えなくなる。
「先生に、あんな辛い決断をさせたくなかったんです」
彼女が意図したいところを掴みかねている自分は、何も返事ができない。
「先生はきっといつも、全部自分のせいだって抱えて傷つくから。この前の薬のときだって。だから、あのまま、第三外区を放棄してたらきっと先生はまた傷つくから。だから、諦めたくなかったんです」
心臓の音が強く速く、目の前がちかちかしてきた。何を言ってるんだ君は。自分が何を言っているのか、わかっているの。
「薬の件もきっと先生は私に苦しい思いをさせたって、後悔してると思うけど。そうじゃなくて、先生が、一回に賭けることを教えてくれたの。それがあって今日があったの。だからあれも、間違いじゃ」
やめてくれ。これ以上一言も彼女に喋らせたくなくて、黙らせたくて抱きしめた。彼女は一瞬体を固くしたけれど、「まちがいじゃなかった、私も先生を守れたよ」とかすれた声で言い遂げた。そのあとに続く言葉が無かったことに心の底から安堵した。
腹の底から熱い息を吐く。
大丈夫。自分が言っていることの意味を、きっと彼女は知らない。だからまだ戻れる。
大丈夫。僕はこれ以上彼女に触れることはない。だから、父とは同じにならない。
そう信じた。
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