女神の前髪
啖呵を切ったのは良いものの、その後書庫に戻って三人で話し合ってもいい案は出ず、考えれば考えるほど絶望的な状況が明らかになるだけだった。
人手が足りない。それも、圧倒的に。
ラウラとハンスを巻き込んでしまったことを、彼らに無力さを感じさせてしまっていることを心から悔いた。二人のことを思えば、あのときのジル先生の提案に乗っておくべきだったと強く思う。
二人に謝罪し、もう、考えなくていいから、と伝えて私たちはその日の業務を後にした。
ただいま。と自宅のドアを開けると、私の帰りを待っていたらしいアンリと夕餐の準備をしているらしいメイドたちが一瞬でこちらを見、彼らがピリッとした空気をまとっていることに気づいた。
「お嬢様、ガルディウス様がお部屋でお待ちです」
「えっ…ルディが?」
アンリは土気色した顔でコクコクとうなずく。何やらよくないことが起こっているらしい。
「わかったわ、ありがとう」と言って小走りで部屋に向かう私にアンリが追随する。
「あの…ガルディウス様からは人払いをするよう仰せつかっておりまして…その…よろしいのでしょうか」
「ええ?!…ええ、わかったわ、大丈夫よ、心配しないで」
「お嬢様…」
声をかけてくれたアンリだったが、その次に何を言うべきか言葉が見当たらなかったらしく、ペコリと一つお辞儀をして私を見送ってくれた。
これまでに、何の前触れもなく突然ガルディウスがこの家に来ることなんてなかった。それも人払いをさせるなんて。不安にさいなまれながら自室に向かうスピードを速める。
コンコンとノックをしてから一息つき、自室のドアを開けた。
「ルディ、ごめんなさい、お待たせしてしまって」
「いや…こっちこそ、急に悪い」
ルディは手に持った紙を眺めながらソファに横になったままこちらを見もせず言う。こちらの不安をよそにあまりに不遜な態度にカチンときたが、ルディは意味もなくこんなふうにする人ではない。まずは話を聞こうと、私はルディの足元にある椅子に腰かけた。
「レティシア」
彼は紙から目を離すと、目をきつく閉じて大きなため息をついた。息が震えているように聞こえてルディの顔をよく見たけれど、そこにどんな感情が込められているのかはわからなかった。
「説明して」
パサ、と手元に持っていた紙をテーブルに投げ出した。大きく目を引く「血涙病封じ込め作戦について」の文字。ざっと目を通せば、医局の会議室で話し合った王都の一時封鎖についての指令だった。血涙病という名前を付けたのか、とそれを読んで初めて知った。そのすぐ後に、自分の軽率さと彼が抱える感情に気づく。
「この疫病は軍部でもちょっとした噂になってる。まあ、目から血を流して死ぬなんて聞いたこと無いし気味が悪いから当然だよな。どうも、第二外区に調査が入るらしいって、昨日まではそんな話だった。
それがどうだ。今日たまたま会った医局にいる同期によれば、これは簡単な疫病ではなかったらしい。犬を感染源にした、この王国全土に広まるかもしれない重大な感染症だって話だ。しかも、それを突き止めたのは書庫係で、医局長と切れ者だって噂のルード文官長の前で堂々とその重篤性を説明したのは、なんと俺の婚約者だって話だ。俺が友人の飼い犬の残酷な死に方を漏らしちまったせいで、その人は対策チームの一人に組み込まれちまったんだと」
ここまでをルディは一息に話した。目元を強く抑えた腕には青筋が走っており、握られたこぶしは震えていた。ぎり、と歯噛みするとソファから起き上がり私を見据えて彼は言った。
「それは、お前じゃないよな。レティシア」
漆黒の瞳に見つめられる。瞳が揺らぐ様はまるで黒い炎が燃えているようで、私はその炎に焼き尽くされるのではないかという空恐ろしさを感じた。それでも瞳を逸らすことはしたくなかった。ルード文官長が初めて笑顔を見せてくれて頑張れと言ってくれた、医局長が感謝の意を告げてくれて、ジル先生が褒めてくれた。その期待に応えたかった。覚悟を決めて息を吸い込むと、震える手のひらを握りしめる。
「…この作戦に参加したいの、ルディ」
「たまたま知っていた知識が役に立っただけだろ。こんな大規模な感染症、どう考えても末端の村まで救うことなんてできないに決まってる。そうなったらお前は責任を感じずにいられるのか?顔も見たこと無いやつらを救えなかっただなんて泣くお前を見たくない。
それだけならまだいい、どう考えたって、医師の数が足りないだろ。お前、現地に行きたいなんて思ってないだろうな」
「…っ」
痛いところをつかれて私は何も言えなくなる。ガルディウスの言うとおりだった。私でも簡単な処置ならば手伝えるかもしれない、と思ってしまっていた。
「死にに行くことになるって分かって言ってんのか!何がきっかけで病に侵されるかもわからない、治療法もわかってない、その場所に!お前を行かせられるわけないだろ!!」
ルディの気持ちは痛いほどわかっている。彼はずっとずっと、私が温かくて柔らかい世界に住まえるように、その彼の腕の中で私を守ってくれていた。それでも、その隙間から私はこの世界の昏さを知ってしまったのだ。この国の中枢である王都にすら蔓延する薬物や、街の路地で冷たくなる人々に。そして、今まさに病で命を失おうとしている人たちに。
「あなたが、私や、この王国を守ろうとしてくれているように、私も、守りたい、戦いたいの」
ここで泣いたら負けだと思った。こんなことで泣いているようでは、認めてもらえないと思った。だから唇を噛んで、手のひらに爪が食い込むほどきつく握って、数少ない私が持つ力を全て振り絞って絶対に泣かないと思った。
「お前は無残な人の死に様を知らないからそんな簡単に言えるんだ。なあ、想像できるか。どれだけ簡単に、孤独に人が死んでいくのか。戦場で死にきれずに苦しんでいる奴に、顔面が半分吹き飛ばされてるような奴に、戦場で引導をくれてやるのは俺たちなんだ!お前にできるのか 。疫病にかかって、もう死ぬしかないやつを見殺しにすることが、止めを刺すことができるのかよ!!」
「できるようになりたいの!ルディやジル先生だけに、そんな思いをさせたくない!沢山泣いてもいい、苦しんでも構わない、私は私にできることして死にたいの!」
死にたいのという私の言葉に、彼は冷水を浴びせられたかのように顔色を失った。ごめんなさい、と心で何度も唱えた。でも、絶対に折れたくない。一つ大きく息を吸って吐いた。
「明日には私は生きていないかもしれない。だから、今できることをしたい」
絶対に泣かない。折れない。握りしめた手のひらに生温かい液体の感触を感じる。
「私にだってできることがある。私だって頑張れる」
泣かない。
長い沈黙が降りた。
「じゃあせめて、俺を連れてけ」
俺を連れてけ。その言葉が私の心に波紋のように広がる。
「俺も対策チームに入れろ。…もしお前が現地に行くことになるなら、そこでのすべてを俺が引き受けるから。…ったく、なんでお前はいつもそうやって一人で強がるんだよ…俺にも頼れって…」
ガルディウスの顔をまじまじと見た。王国軍の誇る主戦力である騎兵隊である婚約者。きっと彼はそういう意味ではなく言ったと思うのだけれど、でも。
「ルディ、ごめんなさい、教えて。騎兵隊って全部で何人いるの」
「…はあ?…何を…」
「お願い、教えて。大体でいい」
「…たぶん、百くらいはいるんじゃないか?」
「…軍人さんて、凄惨な現場にも慣れてるし、医療処置も習ったりするわよね?」
この言葉でガルディウスもピンと来たらしい。息をのんで目を丸くしたその顔にじわじわと笑みが広がっていき、最後にはすっかり相好を崩して吹き出した。
「お前…。お前さあ…」
「ごめん。ごめんだけど…」
さっきまでこの場を支配していた冷たく暗い死の気配はもう搔き消えていた。私たちはそれに安堵して二人とも力を抜いて笑った。笑いながら、さっき抑えたはずの涙が温かくこみあげてきた。何とかなるかもしれない。
レティシア。
ガルディウスは私の背中に手を回し引き寄せて、長い長い口づけをした。
「どうせお前のことだからじっとしていられないだろ。どこに行けばいい?」
「ヴォイトヴィッチ軍事局長閣下のところに」
…は?!と目を白黒させるガルディウスが子供みたいでお腹を抱えて笑った。いいから早く。と彼の手を引く。
ジル先生、今度こそ、一回が来るかもしれないよ。
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