その一回を

医局の医師が全員集められた疫病対策の会議中。突然ルード文官長が殴りこんできたことにも驚いたが、そのあとにレティシアが入ってきたのを見た時には思わず声を上げてしまった。

しかも走ってきたのか息が上がっていて顔色も悪い。…昨日、激しい運動をする予定は無いって言ったばかりなのに。思わず腰を浮かせかけたが、レティシアに制された。

「話しなさい」とレティシアを促す文官長の声にこれ以上何もできず、大人しく椅子に座りなおす。


「リスナール村での疫病の件ですが、おそらく、大元の感染源は犬です。書庫係に寄せられた相談と、私が個人的に入手した情報からの推測です。今から根拠をお話しします」

レティシアはそこで一息つく。ラウラ嬢が広げた地図に、小さな紙片を置きながら話していく。

「まず、三月上旬、この村で私の友人が飼っていたペットが、目から血を流して亡くなったそうです」

それを聞いて自分を含めた医師たちがざわついた。リスナール村の村人と同じ症状。

微かにノックの音がし、文官長が勝手に扉を開けると男性を招き入れた。確か彼も書庫係の、ハンスと言ったはずだ。

「そして、その友人も三月の中旬には亡くなっています。死因は不明です。続いて、同じ三月中旬頃、この場所で目の赤い狼の目撃情報が書庫に寄せられました。

そしてリスナール村の位置はここ。村人は目から血を流して亡くなったと伺っています」

三つの地点が綺麗に一直線上に重なる。そこでハンスが手を挙げた。

「僕からもよろしいですか。他にも書庫に寄せられた相談や、警ら隊に寄せられた情報の中に関係性がありそうなものがいくつかあります。

第三外区の外れで、三月上旬に夜盗の報告があったそうです。この時の犯人の特徴は異様に目が赤く、まるで赤い涙を流しているような化粧をして、異常な興奮状態にあった、ということです。そしてこの地点では、三月下旬に水を異様に怖がる犬の相談が。そのすぐ隣村では、犬に噛まれてから家畜が水を飲まなくなってしまったという相談がありました」

六個の情報が、すべて帯状に重なって配置された。

つまり感染源は犬で、しかも南方から徐々に王都に向け近づいている。

リスナール村の豚を調べればきっと、犬の歯形が見つかるはずだ。


「…なるほど、水が怖いから川に近づけなくて、被害が西方地区に固まっているのね」

「この速度で近づかれては、王都まではあと一か月あれば到達してしまいますね」

ルード文官長の言葉がとどめとなったようにその場がしんと静まり返るが、自分はそれよりも堂々たるレティシアの姿から目が離せなかった。この前、コートウェル邸で見せたあの姿はやはり偶然ではなかった。自分の中で彼女はいつまでも病に苦しむ小さな少女だった。それが、こんなに理知的で美しく成長していたことに、自分は今まで気づいていなかった。


「…ルード文官長、書庫係の皆さん」医局長がゆっくりと席を立つ。「貴重な情報、誠に感謝する。危うく国を滅ぼしかねない病を見落とすところだった。

不躾なお願いであることは承知しているが、一国の危機にその豊富な知識をお借りしたい。このまま対策チームの一員に参画してもらえないだろうか」

文官長がちらりと三人に目を向けると、三人はそれぞれ顔を見合わせて頷く。決まりだ。

「では、私はこれで」

「文官長、ありがとうございました!」


部屋を出ようとする文官長にレティシアが声をかけると、振り返った彼は誇らしげな笑顔で頑張っておいで、と告げて行った。いつもは鉄面皮の彼が、笑うとたいそうな美丈夫になる。彼が笑う姿を見たのが初めてだったのは自分だけではなかったらしく、書庫係の三人も目を丸くしている。自分は、彼の親しげな言葉にムッとしたことには気づかないふりをした。



その後、医局と図書係の異例のメンバーで対策会議が開かれた。が、医局からは自分と医局長の二名だけの参加にとどめ、他の医師はまず、感染症が王都で発生していないかどうかの確認に向かわせた。

「あらためて、今回の情報提供には感謝する。…恥ずかしい話だが、これだけ大規模の感染症の対策など取ったことも無くてね。皆さんの知恵をお借りしたい」

「医局長、僕も王都に向かったほうがいいのではないかと思いますが?」

レティシアと一緒に仕事をすることがなんとなく気恥ずかしくて一応聞いてみる。

「…君は私の補佐だろう。たまには補佐らしい仕事をしたらどうだ」

「えっ。ジル先生ってそんなに偉い人だったの」

素に戻ったレティシアが思わずといった感じで口に出したので、実はね、と微笑みながら軽口で応える。


「…始めていいかね?」

「はい」「はい、すみません」と二人で恐縮し先を促す。

「と言っても、まず、一体何から手を付けたものか…」

「まずは王都の封鎖でしょうね」と自分が言った。「農作地区との人と物の交流は止めるべきです。もちろん、今外に出ている王都民も王都には入れない」

レティシアも頷く。

「今この瞬間にでも止めた方がよいと思います。永遠に封鎖するのではなく、あくまで対策案が決まるまでの暫定措置として」

「…今、この瞬間にかね…」

『はい』

自分とレティシアの声が重なった。胸の中がむず痒い気がして思わず目が細くなる。

無言で医局長は席を立つと、廊下に出て誰かしらになにがしかを命じているようだった。周囲が非難にざわめく声に、これで王都封鎖は叶っただろうと思う。

しかし、先ほどから自分にはもう手詰まりが見えていたので、空しい気持ちになってくる。頬杖をついてうつむいた。


あの、とラウラ嬢が口を開く。

「この病気って治るものなんですか?それによって対策が違うんじゃ」

「…わかりませんね。目から血を流して死に至る感染症なんて聞いたことがありません」

書庫係の三人も思い当たるフシはないようだ。

「あとわからないことは、犬からの感染方法と、人から人に感染するのかどうかと、潜伏期間か?」

「わからないことだらけだから、知る必要があることからあげていった方がいいんじゃないかしら。ジル先生」

「…」

「ジル先生?」

レティシアの呼びかけに顔を歪めて答えた。懸命に知恵を巡らせているレティシアにもその友人たちにも、そんなこと考える意味がないなんて言いたくはなかった。

そこで医局長が疲れ果てた顔で戻って来る。彼には申し訳ないが、もう一つ重要な決断をしてもらわなければいけない。

「医局長、西方地区第三外区は放棄して、第二外区以北の隔離と感染拡大防止に専念すべきです」

「なっ…」

「ジル先生?!」

レティシアが信じられないといった顔を向ける。

「…そんな、僕が悪者みたいな顔で見ないでください。僕だって言いたくて言っているわけじゃない。でも残念ながら、医師の数が足りなさすぎる」

「…!」

「この総統院に勤める医師は全部で八名しかいないんですよ。村の数は第一外区に三十四、第二外区に二十八、第三外区に十一。第三外区の外れの村までは馬車で早くても三日かかる。…第三外区までを対象にしていたら、とてもじゃないけれど西方全土の封じ込めが間に合わない」

「…全部の村を見て回らないで、行きやすいところだけ行くって手は…」

「それじゃ意味が無いことを、聡明なラウラ嬢はお気づきなのでは?こういう感染症は潰しきるのが大事、でしょう?」

「…ですよね、すみません…」

「…総統院以外の医師の方に、協力いただくというのは無理…でしょうか」

「ハンス君、それはあまりに…。町医者のレベルは私もよく知っている。治療どころか、『目から血を流す』と聞いただけで卒倒してしまうような奴らだろう」

「ですよね…」


レティシアだけがずっと押し黙っているが、彼女にも有効な策が思いついていないことはその顔を見ればよくわかった。苦悩している。医師でもない彼女が、顔を見たこともない人を救うために、自らの無力さを責めているのだと思った。その彼女が唇を震わせた。

「明日まで、お時間をいただけませんか。何か策がないか、考えさせていただけませんか」

諦めない、と彼女は言った。その悲壮な決心は、ついこの前自分がした行動によく似ている。だから止めなければと思った。

「レティ」

頬杖をついたまま彼女を呼んだ。彼女は驚いたようにこちらを見つめる。じっとその目を見つめて、首を振った。

「君も、ラウラ嬢もハンスさんも、とてもよく頑張ってくれました。皆さんの働きが無ければ、第二外区さえも守り切ることは難しかったでしょう。十分な成果だ。

…これ以上は、勝ち目がない勝負です。患者を救うべき医師の数が足りないんだ、どうできることでもない。…一パーセントしか勝ち目が無い賭けは負けるものでしょう?だから、」


「私は、一パーセントに賭けることは崇高なことだと思います!」


その言葉に目を見開いた。

「ほとんど勝ち目が無いとわかっていても。逃げずに、その戦いに立ち向かうことは、誰にでもできることではありません。百回に一回しか勝てない勝負だとしても、…その一回を、最初にひけば。が勝ちです!」


私たちと言った。レティシアは瞳に滲む涙を、唇を真一文字に引き結んで耐えた。自分もきっと、同じような顔をしていると思った。


「その一回を、追い求めたいのです。勝つか負けるか、戦わなければわからないのですから」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る