最後の切り札

ディーはひとしきり泣いたあと、赤く腫れた目で「帰る。悪かった」と告げると家を出て行った。自分はその背中に何もできず、真っすぐ帰ってゆっくり休んで、としか言えなかった。

ディーのことだから自暴自棄になるようなことはないと思う。ただ、今日のこの日のことが心にくさびとして残ってしまうのではないかということを恐れた。思い出すたびにその鋭さを思い出したように心をえぐるような、そんな残酷な出来事として彼の人生に刻まれてしまったのではないかと。


自分は正しいことをしたのだろうかと自問する。その自問すら、もう何度目になるかわからないことだった。灰皿に溢れかえった吸い殻の分だけ、確かめて、反芻して、自問して、それでもあれしか言いようがなかった。

じゃあこれからしようとしていることは正しいのだろうか。そう考えると、最後の手段として用意しておいた、引き出しの一番奥にしまった薬袋を持とうとする手が止まってしまう。効果が出る可能性はゼロではないが、ほぼゼロに等しい賭けだ。その『ほぼ』が諦められない、そのためだけに周囲を巻き込んで傷つけて、時間を浪費することが本当に正しいのか。


…何が正しいかなんて誰にもわからない。正解なんて無い。だから、自分が正しいと思ったことを信じて進んで行くしかない。


医師になってから何度もつぶやいた言葉を思い返し、薬袋を持ってコートウェル邸に向かった。



予告無しの訪問をコートウェル家の面々はそれでも温かく迎え入れてくれたが、レティシアお嬢様にガルディウスの友人としてお願いがあります。と告げた時はさすがに全員の顔が何事かとこわばった。来客用にしつらえられた部屋に通されソファーに腰かけると、意を決して口を開いた。


「この薬を、三日間朝昼晩の三回服用していただきたいのです。これは鉄剤といって、体の中の鉄を補う働きがあるものです。この投薬で、お嬢様の貧血が改善できる可能性があります。疑わしければ、鑑定に出していただいても構わないですし、別の医師から同じ成分の薬を処方いただいても構いません」

「…それは、やぶさかではないが…それだけのことならば、なぜ今、そんなに改まって言うのかね」

コートウェル伯爵は困ったように眉をひそめて言った。当然の疑問だ。

「…この投薬が成功する確率が、多く見積もっても五パーセント程度だからです。残りの九十五パーセントは…副作用として重い吐き気や腹痛が起こります」

「…っ、君は何をバカな」

「お父様、お待ちください。私にお話しさせていただけませんか。私の体のことですもの」

激昂するコートウェル伯爵をレティシアがやんわりと遮った。その姿は医務室のベッドにだらしなく寝転がる姿からは想像できないほど凛としていて、改めて彼女が伯爵令嬢なんだと思い知らされる。そして、自分と薬を交互に見るその様子はなぜか楽し気で、初めて見る怜悧さを漂わせていた。


「ジル先生。私も、鉄剤が貧血に有効であるということはずっと前に読んだ医学書で知っていました。にもかかわらず、今まで先生は私に投与は行わなかった。それは、最初から私の体にこの薬が合わないことがわかっていたから。そうですね?」

「…ええ、そうです。お嬢様の血液の成分が、これまでに重い副作用を起こした患者の成分と類似しています」

そんなことまで知っていたのかと戸惑いながら応じると、こくん、と一つレティシアが頷き、苦笑して続ける。

「お嬢様だなんて止めてください、いつものように名前で。

ということは、きっとさっき成功率は多くて五パーセントとおっしゃっていたけれど、きっと実際は一パーセントくらいかしら。…そして、その薬を、試さなければいけなくなるような事態が起こった?」

「…それは…」

レティシアは自分の目をじっと覗き込む。

「…ちょっと違うみたい。…ああ、こうかしら。

一パーセントの確率に賭ける、先生にそう決心させるような何かが起きた。きっと今じゃなければ決心が鈍ってしまうと思ったから、今、いらっしゃった。

…はじめにガルディウスの友人として、とおっしゃっていたということは、きっとガルディウスに関することね」

「…!」


先刻までのディーとのやり取りをすっかり見透かされてしまっている。どこかで見ていたのかと閃くが、絶対にありえないと即刻否定した。自分もディーも彼女に漏らすメリットがない話だ。だとしたら、自分が話した内容だけでここまで推測したというのだろうか。ただの少女だと思っていた彼女がこんな一面を隠し持っていたなんて。


彼女は自分の目を見つめてニコッと笑った。

「飲みます」

「レティ?!」「レティシア!」

コートウェル伯爵と伯爵夫人が悲鳴に近い声を上げる。

「お父様、お母様。私は医師としての、そしてガルディウス様の友人としてのジル先生を信頼しています。私たち三人は、お父様とお母様のいないところでも友情を育んできたのです。その先生がこうして誠心誠意お話くださっているのです。その誠意に答えない手はないかと存じます。ご了承いただけませんか」

「…レティシアがそこまで言うのなら…」

「それともう一つ、先生の提案に乗ると決めたのは私です。だから、どのような結果になろうと先生のことを責めないとお約束くださいませ」

「分かっている。お前はやると決めたら全部自分の責任でやりたがる娘だからな」

「うふふ。お父様に似たのかしら。じゃあ、後はジル先生と二人でお話しさせていただける?」

伯爵と伯爵夫人は心配そうな顔をしていたけれど、レティシアの笑顔に押されるように部屋を出て行った。


「先生、だいじょぶ?」

二人になった途端、レティがこちらに歩み寄ると自分の顔を覗き込むようにして言った。いつもの、チョコレートを差し出して頭を撫でてあげたくなるような笑顔だった。

「正直、全然、だいじょぶじゃありません」

眼鏡を外して目元を揉む。

「おじさんっぽいですよ先生」

「おじさんですからいいんです。…あんなにご令嬢っぽいレティシアさんを見るのは初めてだった気がします」

「…確かに、そうかもしれないですね。なんかジル先生といるといつも力が抜けちゃうんです」

「それに…失礼かもしれませんが、君がこんなに聡明だとは思っていませんでした。僕が知らない間に立派なレディになられたんですね。もう、甘いコーヒーは必要ないみたいだ」

緊張感から開放された自分はレティシアの髪をサラリと撫でた。撫でてからしまったと思った。行き場をなくした手をぎこちなく下げる。

「ええ?!そんなことないです、あれが飲みたくて医局に行ってるときもあるんですから、やめないでください」

真剣な顔で間の抜けたことを言う彼女に思わず素で笑ってしまった。…バカだね、君は。


「…本当に、つらいと思いますが。耐えられますか。三日間服用しなければ、効果があったかどうかわからない薬です」

「ええ、そうなんだろうと思っていました。でも、死にさえしなければきっと大丈夫でしょう」

それに、と少し真顔になって続ける。

「私、ルディのために何かができることが嬉しいんです。私はいつも彼に守られてばかりだから」

「…レティシアさん、このことは…」

「ええ、秘密にしておきます。一パーセントしか成功する確率がない薬を飲ませたなんて彼が知ったら、先生、きっと半殺しじゃすまないわ」

恐怖が無いわけがないだろうに彼女は背筋を伸ばして笑った。その姿をまぶしく思うとともに、心配になった。彼女は一体誰になら弱みを見せられるんだろう。彼女が泣ける場所はどこかにあるのだろうか。たまらなく彼女を抱きしめたいと思った。

…だから二人きりはいけない。



自分の理性が効いているうちにその場を辞した。帰り道の間ずっと、頼むから薬が効くようにと祈っていた。薬が効けば、彼女は北方に行ける。そして自分は、彼女には会えなくなる。でも、それが正しいことだ。愛すべき友人たちが末永く幸せでいられるように、自分の思いを見ないようにして祈った。だから、神様がいるならばこの献身にきっと応えてくれるはずだ。


その三日後、採血のためにコートウェル邸を再訪した。彼女は酷い吐き気に苛まれて満足に食事が摂れずずっと床に臥せっていたらしいと聞いて絶望した。寝ている彼女のこけた顔を見た自分はよほどひどい顔をしていたらしく、アンリさんが気づかわしげに「先生、お嬢様は先生のご提案に感謝していらっしゃいました。…お気に病まれませんように」と言ってくれた。それに何と答えたのか覚えていない。自宅に帰り血液を分析する。当然ながら、症状の改善は見られなかった。


眼鏡を投げ捨てデスクの上にあったものをすべて払い投げた。熱い嗚咽が喉の奥に漏れる。なんでだ、みんな頑張ったのに。なんで報われない。なんで。

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