半身を引き裂かれるような

ジルからレティシアの北方行きについて話したいから家に来ないかとの書置きが宿舎に届いたのは、前回の訪問診療から一週間後だった。いずれ来ると分かり切っていた話だったのに、まだ望みを捨てたわけでもないのに、それは死刑宣告かのように感じられた。

貴族街の外れにあるその簡素な家に近づくにつれて、俺の足取りは重くなっていく。もういっそのこと行くのをやめてしまおうかとも思うが、それではただ問題が先送りになるだけだとわかっていたので義務感のためだけに足を動かしていた。もうこれ以上先延ばしにすることはできない。暮れかかった赤い夕日が俺の影を黒く長く伸ばす。


…期待はしない。そう決めていた。分の悪い賭けには乗らないことにしている。


余計なことを考えれば考えるほど足が泥のようになるので、軍での命令だと思って無心で足を動かした。ドアの前に立ち、ノッカーを叩く。

「やあ、いらっしゃい」

タバコを咥えながらジルが出迎えた。迎えられるまま室内に足を踏み入れ、ソファーに腰かける。目の前にあるテーブルに置かれた灰皿には溢れんばかりの吸い殻が山になっている。

ん、とジルがコーヒーをテーブルに差し出す。黒い水面がささやかに揺れて止まる。ジルは向かいに腰掛けたが、俺は顔を上げることはできなかった。そんな俺の様子をじっと見ていたジルは一つ大きく息を吸うと、言った。


「結論から言う。彼女の北方行きには、主治医として賛同できない」


頭を殴られたような衝撃が走る。ツンと鼻の奥が痛んで、俺はきつく目を閉じ思い切り顔をしかめた。

「結論は以上だけど、一応その理由を今から話す。

彼女が以前から患っている持病はただの貧血だ。それも、出血性などではなく誰もがよく罹る鉄欠乏性貧血という種類に当たる。これはほとんどの場合食事生活を改善すれば直るはずだが、これだけの長期間、いろいろな工夫をしても症状の改善が見られなかった。おそらくだが彼女は、生まれつき鉄の吸収がしづらい体質なんだ。だからきっとこの先も、改善することはおそらく、無い」

ジルの淡々とした説明が脳みその上を上滑りしていく。あえて医者みたいな堅苦しい喋り方をしていることだけは俺にも理解できた。


「もう一つ君に大事な話をしなきゃいけない。ディー、顔を上げて聞いてくれる?」

俺は震える唇をかみしめて、しかめたままの顔を上げた。

「すぐには命の危険性が無いということをまず覚えておいて。…彼女は心臓を病んでる。貧血は心臓にも負担がかかるから、貧血状態が長く続くと稀に起こることではあるんだ。普通に生活しているだけならそんなに重篤な症状は出ないけれど、心臓を病んでいる人間は、血圧を急激にあげること、つまり、激しい運動や、…気温差を避けなきゃいけない」

これが、理由。とジルは言い切り、そのあとは何も言わない。ただ俺を待っている。この前のレティシアの家でだってそうだ、こいつはずっと待ってくれる。


でも。

俺はガキっぽいと思いながらも声にならない声を上げて頭を抱えて掻きむしる。湧き上がり続ける感情を抑えることを諦めて言った。


「いやだ」

一言言うと止められなかった。

「ジル。頼む、お願いだ。嫌なんだ。レティシアは、置いていけない…!」

だって俺がいなくなったら誰がレティシアを守ってやれる。すぐに倒れるくせして、俺に気づかないくらいに仕事に没頭して。倒れたらただその場で震えて嵐が去るのを待つしかできないのに。誰がそれを支えてやれる。


嫌な妄想が頭をもたげた。誰もいない場所で発作を起こして、誰にも助けを求められないまま一人苦痛に絶望するレティシア。伸ばした指に触れるものは無く、ただその指先が冷たくなっていく、そんな妄想が。そんな孤独が万が一にも訪れるかもしれないそんな状況に彼女を一人残していく、そんなことを俺が選べるはずがない。


「…冷たいとは、思わないで聞いてほしい。僕は、君たちに何も強制することはできない。主治医として賛同はできない、その事実は絶対に変わらないけれど、君たちが行くことを選ぶのであれば、それが幸せならば、一緒に行くといい。…突き放したいわけじゃないのはわかるね?僕の意見は単なる参考として、君たちは君たちがどうしたいのかを選ぶんだ」

「いやだ。ジル。大丈夫だって言ってくれ、…頼むから…」

「…言ってやりたくて、僕もずっと頑張ったんだ、ディー…力が及ばなくて、ごめん」

ジルのせいじゃないことはわかっていた。誰も何も悪くないことはよくわかっていた。それでも、誰も何も悪くないのに上手くいかないこの現実を受け止めきれなかった。

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