軍事局からの依頼
ゴンゴン、とその日初めての来訪者を告げたノックの音はいつもよりもどこか高圧的に聞こえた。
はあ、と書庫係三人のため息が唱和する。
「頼む…仕事させてくれ…」
ハンスの呟きをいさめる気も起きない。まさにその通りで、持ち寄られる相談の件数は連日増える一方だった。ありがたいことに文官長はこの相談対応を高く評価してくれていて主業務は遅れても構わないと言ってくれているのだが、それにしても、延々話を聞いた挙句自己解決して帰って行ったりだとか、この前のように見えもしない居もしない精霊の存在証明みたいなものが持ち込まれると、こう…端的に言うと心が折れそうになる。
せめて誰か相談内容を精査してくれるといいのに。訪問式ではなくて投書してもらうようにしようか。なかなかいいアイデアかもしれない。
ゴンゴン、と再度扉が叩かれる。どうも相手は相当のせっかちのようだと思い、さらに気持ちが沈んだ。げんなりした顔で腰を上げようとするラウラを制して私は立ち上がると思いっきりの営業スマイルを作る。
「はい、お待たせいたしました、総統院図書係です!」
満面の笑みで扉を開いた私に見えたのは一面の黒。金ボタンを見て軍服の生地、と気づき視線を上に辿っていくと、私から頭三つ分は高いところ、そびえる壁のような体躯の先にその人の顔があった。釣りあがった眉と細い目、綺麗に整えられた漆黒の口ひげ。
「…ボ、ヴォイトヴィッチ軍事局長閣下!?お、おおお疲れ様でございます!!!」
ピンと背筋を伸ばし思わず敬礼する。なんでこんな偉い人がここに?そもそも文官の私が敬礼するのって正しいんだっけ?あれ、そういえば敬礼ってどっちの手?こっちであってる?!
いきなりこの国の上から三番目に偉い人が目の前に現れた私は完全にパニックだった。
加えて、私たちのような現場担当レベルでは政治局も軍事局も分け隔てなく交流しているが、上位層たちは何かにつけて衝突している犬猿の仲だという。つまり、私が何か粗相をしたらそれが上位層が付け込まれる隙になりかねないという事実に気づいてさらに背筋が冷たくなる。
「…君が」
「はいっ!」
「書庫係長のコートウェル女子かね」
「…はっ、恐れながら申し上げます、書庫係長『代理』を拝命しております!」
「そうか、『代理』か…」
「は、はい…」
代理ではだめですか?!だめですよねすみません!でもそれはルード文官長に文句を言ってください!!!
閣下は私の頭越しに書庫内を見渡す。後ろで、事態を把握できず唖然と座っていたラウラとハンスが跳ねあがるように立ち上がる音が聞こえた。ガタン、と派手に椅子が倒れる音。
「…ここではいろいろな問題を解決してくれると聞いたのだが」
「あっあの、解決というか、我々が知っていることをお教えすることはできるのですが、それが必ずしも解決になるかどうかは」
「聞いてもらえるか」
「は?」
「相談を持ってきた」
「か、閣下が、ですか…?」
「問題あるかね」
ぎろり、と垂直に睨み下ろされる。この視線に晒されて、あります、とは言えようはずがない。
「滅相もございません!あの…汚いところですがよろしければ」
おずおずと促すと、ずん、と足音が聞こえてきそうな様子で室内に足を踏み入れる。
「それと」
「はい」
「君は文官で、私の部下ではない。だから、敬礼は不要だ。敬意はありがたく頂戴する」
ごく僅かに目じりを下げているように見えるのは閣下なりの笑顔なのかもしれないと思えば、見た目と役職ほど怖い人ではないのかもという気がしてきた。その直感を信じて、どうか無事終わりますように。と祈って書庫の扉を閉める。
「壮観だな」
閣下は小ホールほどもある書庫をぐるりと見回し、言った。
「お褒めにあずかり光栄です。約三万冊の蔵書がございます」
「そんなにか」
「はい。博識な閣下のお目にかなう本は無いかと存じますが、我々にとってはどれも素晴らしい知識を与えてくれる良書ばかりです」
ふむ。と感心したように周囲を見渡す閣下に、ハンスが書庫の奥に一脚だけあった革張りのソファーを持ってきてくれる。私は閣下から見えないようにハンスに向けて親指を立てた。
「粗末な椅子で心苦しいのですが…」
「コートウェル女史」
「はい…」
「突然の訪問で迷惑をかけているのは、こちらの方だと承知している。かしこまる必要はない。これは政務上の訪問ではなく、私的な訪問だ。他の者に対するのと同じように対応してくれて構わない」
私のような立場のものがでそんなことできるはずもないことは分かるだろうに。どんなつもりで言っているのかと真意を測るように閣下の顔を窺うが、歴戦の軍人であろう閣下は鋼鉄の仮面をつけており安易にその胸中を探らせてはくれなかった。
「…承知いたしました。お心遣いありがとうございます」
「うむ。では相談なのだが。こういっては失礼だが、この場で答えが出せる内容とは思っていない。あくまで今後の指針を検討する上で、案が欲しくて来た」
その相談内容とは北方遠征に関するものだった。北方に遠征するためのルートは現在までに二つ開拓されている。王城に向かって西側の山岳地を越えていくか、東側の湖を渡っていくか。現在は主に西の山岳ルートが用いられている。本来は湖を渡る方が早く気象も安定しているのだが、万が一湖の上で敵国に発見された場合、主戦力が騎兵隊である大陸軍はその本領を発揮できず全滅させられる恐れがあるためだ。ただし、装備品や食料を持ち、馬もつれて雪山を越えなければならない西ルートも決して安全とは言えず、死者が出ることもある。どうにかして安全な遠征ルートを開拓できないか。
閣下はそんな内容を、一言一言噛んで含めるように話した。慣れてしまえば聞き心地の良いその話し方に加え、これまで持ち寄られた中でも一段と重要な相談内容に、気づけばラウラもハンスも聞き入っている。
「重ねてになるが、実現性や確実性と言ったものは、今は度外視したい。まずは考えうる方法があれば、教えてほしい」
なぞかけのようなその問いにすっかり知的好奇心を刺激された私たちは三者三様に考え込む。
安直ですが、と口火を切ったのはラウラだった。ハンスを引っ張っていき書架に立てかけてあった大きな黒板を引きずってくると書き連ねていく。
「一番ありがちなのは湖に橋を架けることかと。ただその場合、向こうからも侵略されてしまうデメリットもありますが」
「橋台と橋脚だけ固定しておいて、橋げたと床材は取り外せるようにしておく仕組みを東洋の書物で見た記憶がある。そうしておけばある程度カバーできるかもしれない」
「東の湖は季節によって水面の高さが結構変わるはずだから、それを利用して、乾季にだけ渡れる橋を湖に沈めておくのもいいかもしれないわ」
ラウラが黒板に案と検討事項を書き連ねていってくれると、アイデアがどんどん浮かんでくる。
「船を使うってセンはやっぱ無いの?」
「うーん、考えられるのは弓に耐えられるように鉄製にする、とかか?」
「見つからないようにするか、見つかっても耐えられるようにするかの二択?前者のパターンって何かないかしら」
「ソッコーで渡り切れるような船を造る。水力はあるわけだから、水車の仕組みを応用したらうまくできそうじゃないか」
「なるほど」
「水の中を行く。どっかの国の文献で、川の地下に隧道を建設したケースを見た気がする」
「それもいいわね。隧道だったら山側に掘る手もあるわ。時間はかかるけれど」
「あー、そっちのほうが安全かもね」
「山側はたぶん、荷物の多さが問題になると思うの。馬と装備品は北方に置いておいて、最低限の装備で登山できればまだマシになるんじゃないかしら」
「馬は難しいんじゃないか。普段から騎馬に馴らしておかないと戦闘時に役に立たないだろう。装備品だけだったらさくどうで渡す手はあるな」
「さくどう?」
ハンスが黒板に『策動』と書き、簡単に図解してくれる。
「空中に丈夫なロープを張っておいて、それに荷物をぶら下げて運ぶんだ。簡単な図で言うとこう。ウィスラー国の文献で見たことがある」
「へえ」
「ねえごめん、湖の方に戻るんだけど、もういっそ湖の水を抜いちゃうのはだめなの?」
「別に、できるならばダメじゃないと思うわ。あの湖を何かに使っているって話は聞いたこと無いし」
「どうやって抜くんだよ」
「この前見た本に書いてあったんだけど…ちょっと待って…あ、これこれ。サイフォン現象っていうのがあるんだって」
「…これ、ホントかー?また眉唾の錬金術の類じゃねえの?」
「気になりすぎて試したから保証する」
「ラウラって何でもすぐ試すんだから」
議論が和んだところで、黒板を囲んでいた私たち三人を黒い影がぬうっと覆った。三人がそろって息をのむ。…すっかり閣下の存在を忘れてしまっていた。
気まずくなって閣下の顔を見上げるが、思いもよらず、細い目を精一杯丸くして黒板をしげしげ眺めてくださっている。
「…素晴らしい。この、隧道というのものは何かね」
「この国は国土のほぼすべてが平地なので知られていませんが、土を掘り穴をあけてその中を通るという手法です。ただし時間がかかりますし、相応の危険もあります」
「ふむ。…すまないがこの黒板をいただいていっても構わないかね?後日代わりの品を寄越そう」
「ええ、それはもちろん構いませんが…あの、我々でお運びします」
「いや、このくらいであれば私一人で結構」
ラウラとハンスが二人がかりで持ち上がらなかった黒板を、閣下はひょいと抱えた。
「非常に楽しい時間だった。ご協力に感謝する」
来た時よりもいっそう目じりを下げて閣下は去っていった。
「…あれで良かったのか…?」
「良かったんじゃない?楽しかったって言ってたし」
「良かったと思うしかないわ。二人ともご苦労様」
突然のお偉方の訪問に三人とも気が抜けて大テーブルに突っ伏してしまったし、明確な答えは出せなかったけれど、私の胸には何とも言えない達成感が湧いてきていた。きっと、ラウラとハンスにも。
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