恋心は息をひそめて
「えっ、ルディ帰っちゃったんですか?!彼、怒ってました?!どーしよう…」
「いえ、急用を思い出したと言ってたので、大丈夫じゃないですかね」
最低限の支度を終えた姿で目を白黒させたレティシアに言う。アンリさんは床にちりばめられた大量の本を無言で拾い集めていたので、やはり本に没頭していて時間を忘れたようだ。アンリさんは本を集め終わると「お嬢様、書斎に片付けに行っても構いませんか?」と伺いを立てる。
側仕えのメイドは人払いをされない限り主人に同席するのが基本で、それは誰がどんな用件で来ようと徹底される。今回は見知った自分が相手なので外してもいいと思ったのだろうが…
「アンリさん。すぐ済みますので少しお待ちくださいませんか。短時間でも僕とレティシアさんの二人というのはちょっと…」
アンリさんはレティシアに目を向け、彼女が頷いたことを確認すると「承知いたしました」と返事をした。
「ジル先生ってホント丁寧ですね」
「レティシアさんはもう少し、婚約者がある年頃の女性としていろいろわきまえましょうね」
というか、アンリさんもガルディウスも、自分とレティシアを二人にしても問題ないと思っているのだろうか。人から自分はそんなに無害そうに見えるのだろうかといつも不思議に思う。もちろん自分は狙ってそのように振舞っているから思惑通りと言えばその通りなのだが、もう少しみんなにも自制してもらいたいと強く思った。
特にレティ、君は。
目の前に座る彼女はじっと見つめられてきょとんとした顔で首を傾げている。自分が彼女のために、医局に大量の砂糖とミルクとお菓子をいつも用意していることなど予想だにしていないのだろうと思うと、自分で仕向けていることながら少し意地悪い感情が芽生えてくる。
「レティシアさん、今日はお昼ごはんはきちんと召し上がりました?」
数週間前の医局での話を掘り返してみた。
「うふふ、今日はちゃんと頂きました。ねえアンリ?」
「はい。テーブルの上に大量の本とノートを並べながら、その隙間を縫うようにして器用に召し上がっていました」
「…アンリ、言い方が意地悪だわ」
「そのように言ってますので」
「相変わらず仲良しですね」
アンリさんはレティシアの乳母の娘で、そのまま側仕えになったと聞いている。主人とメイドである二人だが、その関係は友人のようで見ていてほほえましい。
じゃあ診察を始めますよ。と言い彼女の腕を取り脈をはかる。もう既に覚えてしまった、この弱弱しい脈と骨ばった腕の感触。薄く白い手のひらを指でなぞると少し乾燥している。そのままそこに口づけたいと思ってしまった。思ってしまってから、激しく自己嫌悪した。…ディー、だから一緒にいてほしかったのに。
気持ちを切り替えたくて、眼鏡を外し目元を揉んだ。
「先生、なにか困ってます?」
「…なぜです?」
「なんとなく?」
「そうですね、レティシアさんが早く元気になってくれないかなあと困ってます」
そんな魔法みたいなことが起こることはないと自分が一番分かっているにもかかわらず、先ほどのガルディウスとの会話に感化されてたのか思わず漏らしてしまった。一息ついて眼鏡をかけると診察に戻る。
「あ、そうだ、先生」
「はあい?」
「好きな女性のタイプを教えてください」
「…い、や、です」
「えー。じゃあ、商業区でお気に入りのお店は?」
「秘密です。…今度は誰ですか?僕がレティシアさんの主治医であることを悪用する人は医局を出禁にします」
レティシアは、名前はちょっと…と困ったように愛想笑いをした。レティシアやアンリさんには見向きもされないが、自分を慕ってくれる不思議なフェチズムをもった人間も中にはいるらしく、稀にレティシアからこういう質問を受けることがあった。
「先生モテるのにもったいないわ。…じゃあ次の質問」
「吸ってるタバコの銘柄も秘密ですよ」
「そうじゃないの。先生、精霊っていると思う?」
精霊とは、また途端に絵空事のような言葉が飛び出してきた。
「医学は科学ですから、目に見えないものは僕は信じません。でも、何を信じるかは人それぞれです」
「私じゃなくて、書庫の方に、自分が見たものは精霊なんじゃないかって相談があって」
「…」
それは、医学的に考えれば幻覚症状と判断せざるを得ない内容だ。医局長から聞いた王都で新しい薬物が広まっているという話を思い出す。自分が眉をひそめたのを見て、同じ事を考えたらしいレティシアは首を振った。
「それが、問い合わせ元は王都の外の農作地区で、しかも小さな男の子なんです。それも、真っ赤な目をした狼のような動物が聞いたことのないうなり声をあげながら山に逃げて行ったっていうただそれだけ。幻覚としても妙じゃないですか?」
「…まあ、そうですねえ。はい、診察はこれでいいですよ。で、レティシアさんは何てお返事を?」
「流石に書庫係のみんなも困っちゃって、『いずれの図鑑にも該当する生物は見当たらないので、精霊かもしれませんね』って手紙を出しました。男の子には申し訳ないけれど、そこまで手が回らなくって」
それでも律儀に返事をしてあげるあたりがレティシアの優しさで人柄だ。
「いいと思いますよ。主治医としては他の仕事もそのくらい手を抜いてもらって、食事の時間に割いてもらえるといいんですが。…さて、じゃあ問診をいくつかお願いします」
そのあともいくつか雑談を交えながら問診を終え、コートウェル邸を後にする。しばらく歩き敷地から離れた後で大きく嘆息した。疲れた。レティシアの前ではいつものようにふるまっていたが、内心、ガルディウスがいないことで零れそうになる自分の気持ちを押さえ、また彼女が北方に行ける可能性を探ることに酷く疲れていた。
『気持ち』?あれはそんな綺麗なものじゃない、ただの劣情だ。自分の父親と同じ。
そんな考えに珍しく苛立ちを感じ、荒っぽいしぐさでタバコに火をつけると深く深く吸い込こむ。煙と一緒に心の中の黒い何かを吐き出してしまえば、心も頭の中もさっぱりとした。
自分の気持ちにも彼女の北行きにももう明確な答えは出ていたけれど、今日は自分へのご褒美に、これ以上は何も考えずにとっておきのお酒でも開けることにしよう。
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