第9話
その頃、隣の藩の若殿様は、側近の家来から報告を受けていました。
本陣のそこかしこに化け物が出たと言うのです。女ののっぺらぼうの話、入道の顔がついた火車が篝火に突っ込んできた話、唐傘お化けが踊っていた話、次々と真しやかな報告がなされたのでした。
「若殿、ここは化け物の森。やはり呪われておりまする。ここは、潔きよく撤退を命じられては・・・」
と、藤右衛門が言いました。
「そちまでが何を言い出すのじゃ。昨夜の酒とこの立ち込めている霧のような煙で、見間違いをしているのだ。不確かな噂が飛びかい、それに脅えるゆえそのように見えるのじゃ。兵たちに、落ち着いてよく確かめよと申せ」
「はっ」
側近の者が、下がろうとした時でした。
「この森を恐れぬ不届き者。この地を血で汚した天罰が下ろうぞ」
という、地を揺るがす声が聞こえてきたのです。次の瞬間、稲荷堂の屋根に太鼓を打ち鳴らしたような炸裂音が響き渡りました。
「何事ぞ」
そう言って、若殿様が扉を開けて外に出てみると、饅頭ほどの小石が、欄干に散らばっています。
その一つを拾い上げている時です。小さく空気を切る音がしたかと思うと、沢山の小石が降ってきて、床や天井に次々と穴を開けたのです。その有様に棒立ちしていると、
「フフフフッ。これで済んだと思うなよ」
という気味悪い声がして、林の闇の中から白装束を身につけた狐顔の女が現れ出たのでした。その姿を見た若殿様は、
「おのれ、化け物。余を謀るつもりか。誰ぞ鉄砲隊を呼び寄せ、直ぐさま奴を撃ち殺せ」
と、近くにいる家臣たちに向かって怒鳴ったのです。
その命令を受けるた家臣達は、化け物騒ぎで右往左往していたことを恥じ、自分の本分を取り戻すと、直ぐに攻撃体勢を整えだしたました。
特に向坂藤右衛門勘兵衛は、鉄砲隊を呼び集めると、稲荷堂へと駆けつけていきました。
鉄砲隊が来ることを感じ取った狐女は、薄気味悪い笑い声を止めずに、再び林の中に身を隠すと、奥の森へと逃げて行ったのです。
「見失うな。追え」
そう言って、藤右衛門が鉄砲隊を奥の森に進ませていくと、一層辺りが闇に閉ざされていきました。ですが、その闇の奥で、輝いているものが見えます。例の狐女でした。狐火を提灯代わりにして、佇んでいたのです。
「待っていたぞ。我神通力の恐ろしさをとくと味わうがよい」
そう言って狐女が、右手を高く夜空へ突き出すと、鉄砲隊の頭上に、白い網が降ってきたのです。
「大蜘蛛の巣じゃ。その糸に絡みとられ、餌食となるがよい」
その糸は、ベタ付き兵士の身体に絡みついて来るため、思うように動かすことができません。そのため、本当に上から大蜘蛛が降りてくるような気がしてきて、鉄砲隊の間に不安が広がっていきました。
そんな中、狐女が呪文を唱えたのです。すると、その狐女の周囲の地面が揺れだし、やがて土中から埋葬した兵士たちが、鎧を着けた姿で次々と起き上がってきたのです。その数は、三十人近くいました。そして、鉄砲隊に向かって歩み出したのです。
その姿に鉄砲隊は、氷つくような恐怖を覚え、死んだ兵士に向かって鉄砲を撃とうとしましたが、蜘蛛の糸が絡み付いて思うように狙いを定めることが出来ません。何とか運良く鉄砲を撃ち放って、兵士に当てることができたとしても、元々死んだ人間なので、倒れてもまた直ぐ起き上がって、歩み始めるのでした。
「死んだ者たちは、生きている人の血と肉を望んでおる。お前達は、死んだ者の恨みを、その身体で存分に受けとめるが良い」
狐女が、駄目押しをするようそう言った時でした。遠くの方から、
「ウォーッ」
と言う声がしたかと思うと、死人の兵士の間から、真赤な火の玉が、勢いよく飛び出してきたのです。その火の玉は、突然止まると、
「我こそは、勘兵衛。その首、もらいうける」
と言い放ち、斧のような太刀を豪快に一振りしたのです。
すると、藤右衛門の首が、天上の暗闇に吸い込まれていき、残された身体から噴水のように血が吹き上がりました。その血が、勘兵衛の身体に降り掛かると、たちまちの内に頭から二つの金の角を突き出し、針金のような口髭と全ての肉を引き裂くことが出来る牙を持った赤鬼が現れたのです。
その一瞬の出来事は、鉄砲隊を大きく驚かせました。同時に、途轍もなく大きな恐怖が襲ってきたのです。立ち向かうことなど、到底できません。鉄砲を放り出すと、後ろも振り向かず、次々と逃げ出したのです。
その内の一人が、若殿様のいる稲荷堂に辿り着くと、
「大変です。藤右衛門様が、討ち死にされました。勘兵衛が、いえ勘兵衛が変化した赤鬼にやられたのです。そればかりではありません。死んだ兵士たちや大蜘蛛が、この本陣をめがけて襲ってきています。若殿、ひとまずご避難を・・・」
と叫びました。それを聞いた若殿様が、稲荷堂の扉を開けて外の様子を窺うと、ドドンという音が鳴り響き、大きな金棒をぶんぶん振り回しながら、この稲荷堂めがけて、一気に突き進んでくる赤ら顔の大鬼が見えたのです。
鬼の顔が赤く染まっていたのは、本陣に辿り着かせないため道を塞いでいた我藩の兵士の血でした。大鬼は、突き進んで行くために、次々と兵の首を撥ね、その血で身体全体が赤く染まっていたのです。
その様子に震え上がった若殿様が、
「大鬼だ。大鬼がやってくるではないか。だれか、あれに立ち向かう者はおらぬのか」
と、叫ぶと、
「我藩で、あれに立ち向かえることが出来る者はおりません。あれは、お怒りになったお稲荷様が勘兵衛に乗り移って、大鬼に変身したものと思われます。我藩は、この地の稲荷様に厭われ、呪われたようです」
と側近の家来から返答があり、若殿様が、
「おのれ、たかが狐のくせに」
と言ったときでした。その若殿様の足下に、さっきまで大鬼が振り回していた金棒が飛んできました。金棒は、目の前の床を打ち砕いて突き刺さり、その金棒が血で真赤に染まっているの見た若殿様は、恐ろしさでその場に座り込むと、もう憎まれ口をたたく余裕は無く、
「退けー。退けー」
と、震えながら退却の号令をかけたのでした。
その後、側近の家来達は、若殿様を守り後を警戒しつつ陣を後退していきました。
退陣していく敵兵の様子に、勘兵衛は、追撃しようとはせず、逃げていく姿を黙って見送っていました。そんな勘兵衛の姿を見た隣の藩の兵は、まるで渦巻いた炎を背負った仁王様に見つめられているようだった言っていいます。
戦は、それで幕が引かれました。
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