恋とはどんなものかしら

 恋人を欲したことがない。

 これを「強がりだ」と思った読者もきっといるだろう。もしくは「拗らせている」とか思った読者もいるかもしれない。

 否定はできないし、実際拗らせている部分があるのは事実である。しかしながら筆者が恋人を欲したことがないのもまた事実であるのだ。

 子どもの頃は恋人なんていなくても浮くことなどなかったが、徐々に大人になるにつれて、恋人がいないと周囲から勝手に「寂しい人」認定されることが多くなった。同情されたこともある。人格に問題があるのではないかと詮索されたこともある。

 周囲には恋人を作れと言われ、紹介までされそうになったりしたが、どうして好きでもない人と付き合うことができようか。

 筆者は人を好きになるが、筆者の「好き」と他者の「好き」にはどうやら隔たりがあるらしい。好きは好きでも、恋じゃない。だから相手から好きを向けられてもその好きに応えることができない。ハグやキスはできてもセックスはできないのである。

 恋人になったらいずれセックスを求められることもあろう。セックスは愛情表現であると豪語する人もいるが、実際にそれが愛情表現の一種であっても、セックスがいつも愛情表現であるとは限らない。愛なんてなくても穴に棒を出し入れする行為自体は誰だってできるのだ。だからこそ高度なコミュニケーション能力が求められるというわけなのだろう。

 昨今の社会情勢はLGBTの権利やなんかについて声高に叫ばれているが、そこにはやはり恋や愛が存在していて、恋愛をしない人や性交渉を必要としない人の存在感は限りなく薄い。なんだか少し置いて行かれたような気持ちだ。

 人に「恋愛をしろ」と言われるたびに、どうして恋愛しないという選択肢はないのかと考える。恋人がいなくて寂しいと思ったことはない。けれども人は私を寂しい人だと言う。一人でどこだって行けるのに、それが寂しいのだと言う。

 散々、偏見や特定のカテゴリに押し込められることに恐怖していた人々がこうも容易く「寂しい人」とラベリングして、一人の人間としてでなくそのカテゴリに所属するものとして扱ってくるのが息苦しかった。

 けれども、恋に憧れることもある。恋をする人はいつも楽しそうだ。羨ましく思う。人を愛するとはきっと幸せなことなのだろう。私もいつか人を愛せるのだろうか。想像しても、いつもうまく描けない。

 何となく人から聞き知ったことで愛を理解していた。

 ニルヴァーナと言う詩集の『淫靡』がその例である。

 愛しい人相手にはこう言う感情を抱くことがある、こう言う欲求を抱くことがある、と言う頭の中での理解で書いた詩だったが、存外読者の方々から反応をいただけて驚いた。あんな感じが愛とか恋らしい。でも少し夢見がちな描写だったろうか? 現実的ではないかも知れない。

 もしいつか、誰かを愛せたとして、誰かに愛されたとして、その時きちんと応えられるかわからないけれども、例え応えられなくとも愛し続けてくれる人であれば、私もずっと、人を愛し続けられるのかしら、と思う今日この頃でした。

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