第299話 もうむりぽよ
「おや?」
アーデルハイトの声を聞いたクリスは、砂浜の方へと視線を送った。見れば遠く波打ち際には、装備をジャージからアンキレーへと変更した、ドヤ顔仁王立ちハイトの姿があった。彼女の周囲はやたらと光り輝き、それはまるで天変地異の前触れであるかのようで。それを見たクリスは、即座に状況を悟った。
「あれは……オルガン様の仕業ですね」
魔法発動時の魔力反応は、一目見ればすぐにそうだと分かる。あちらの世界の住人であれば誰もが、恐らく一度は目にしたことがある光景だろう。だが、現在クリスの視線の先で発生しているそれは、どうみても規模がおかしい。凡そ通常の魔法行使ではあり得ない、巨大で広範な反応であった。
クリスは『六聖』としての逸話を伝え聞いたことがあるだけで、オルガンの力を詳しく知っているわけではない。錬金魔法行使時の魔力反応は既に目にしていたが、大規模魔法を行使したオルガンの魔力反応は、未だ目にしたことがなかった。だがそれがアーデルハイトのものではないのは確実で、そうである以上、犯人はオルガン以外に考えられない。
「えぇ……一体何が始まるんです……?」
「あはははは! 何か始まってるんだけど! 早く見に行こーぜ!」
突如幻想的に煌めき出した海岸を見て、
そんな二人に続き、クリスもカメラ片手に後を追う。同じく魔法を行使する者として、頂点の一角たるオルガンの魔法を、まさか見ないわけにもいかないだろう。そもそもの話、あの気まぐれエルフが真面目に魔法を使うこと自体が稀なのだ。これを逃せば、次はいつその機会が訪れるのか分かったものではない。
「まぁ、一度見た程度で理解出来るとは思ってはいませんが……」
日々の鍛錬が物を言う身体能力と異なり、魔法では知識と技術が物を言う。たとえ理解は出来ずとも、その力の一端に触れるだけで得られるものは大きい。元よりあちらの世界に於いても、上から数えた方が早い程度には力のあるクリスだ。自分よりも優れた魔法使いに遭遇する機会は、実はそう多くない。どちらかといえば肉体派ではないクリスにとって、これは千載一遇の好機であった。
* * *
オルガンが右手を振るう。
「ほい」
まるで空間ごと削り取られたかのように、海の一部がごっそりと消失する。そのおかげで、僅かな時間ではあるが、魔物の全体像が肉眼でも確認出来た。世界最大の魚と言われているジンベエザメでも、大きさは10~12メートルといったところ。だが、姿を現したサメはそれよりもずっと大きかった。背びれだけでも2メートル近くはあり、全体でいえば20メートルにも届きそうな程。
海中にぽっかりと生まれた隙間を埋めるため、周囲の海水が流れ込んでゆく。だが、それを待つことなくオルガンが左手を振るう。
「むん」
やはり瞬きひとつ程度の、ほんの僅かな時間。たったそれだけの動作で、今度は突如として陸地が生まれた。海を削り取った時と同じだ。海底がせり上がっただとか、そういう類の現象ではない。何の前触れもなく、音や揺れもなく、ただ当たり前のように。先程までは海であった場所が、いつの間にか砂浜の延長と化していた。
当然、巨大なサメの魔物は陸地に打ち上げられる。というよりも、ごろりと横になり静かに佇んでいた。恐らくは彼も、自身に何が起きたのかが理解出来ていないのだろう。鋭く凶悪な瞳をぱちくりとさせるその姿は、いっそ可愛らしさすら感じるほどであった。
『
それはオルガンが独自に編み出した、彼女だけが使えるオリジナルの魔法である。それ自体は彼女の得意とする錬金魔法ではなく、かつ攻撃魔法ですらない。強いてカテゴライズするとすれば、『環境魔法』とでもいうべきだろうか。ある意味では
その効果は意外にも単純だ。
オルガンの設定した領域内に於いて、行使する錬金魔法のあらゆる制限を解除する、というものである。無論、錬金魔法の抱える基本原則を超える事は出来ない。例えば『
そもそも、錬金魔法とは戦闘用の魔法ではない。故に速度は重要ではなく、より精密な魔力操作を要求されるということだ。その関係上、錬金魔法の射程は短い。しかしそれは当然の話だ。身体から離れれば離れるほど、魔力操作は難しくなるのだから。落とし穴を作ったり、或いは壁や足場を生成したりと、なにかと応用の効く便利な魔法ではあるのだが。
そんな錬金魔法を戦闘で使おうとすれば、どんなに優れた術者であっても半径1~2メートルが精々といったところであろう。実用可能な速度で、という部分まで考慮すれば、或いはそれ以下かもしれない。オルガンでさえ、通常時は5メートル程度が限界である。神戸ダンジョンで披露した時がそうであったように。
だが『
とはいえ、そんな『
「むむむ……」
ぷるぷると、生まれたての子鹿のように足を震わせるオルガン。どうにか踏ん張ってはいる様子だが、しかし遂にその時はやってきた。
「もうむりぽよ」
朝食時に補充した納豆エネルギーが切れてしまったのだろうか。まるで干からびたヒトデのように、しおしおと砂浜に座り込んでしまうオルガン。とはいえ、最低限の役割は果たしていた。もはや用済みである。
「グッドですわ! あとはわたくしにお任せでしてよー!!」
漸く自らの置かれた状況に気づいたのか、慌ててビチビチと跳ね始めた巨大ザメ。そんな俎板の鯉ならぬ砂浜のサメへと向かって、アーデルハイトは意気揚々と駆け出すのであった。
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