第258話 漸くこの時が来ましたね
講習会も無事(?)に終わり、楽屋へと戻ってきたアーデルハイト達。そうして帰り支度をしているところで、再び花ヶ崎刹羅がやってきた。
「今日はありがとう。案の定色々とあったけれど───概ね、平和に終われたわ」
「この程度、お安い御用ですわ。新兵の教育は慣れていますもの」
「それにしては随分と大味な実技指導だったけど……」
刹羅が想像していた指導とは、修練方法や心構えを説くといった一般的なもの。しかしながら実際に行われたのは、ひとり残らず新人を卒倒させるという怪しい訓練だ。刹羅の言う通り、大味に過ぎる実技指導であった。とはいえ怪我人は一人もおらず、また効果の程は大和も保証している。オファーを出した協会側としては、これ以上何も言うことはない。
「ところで、このあと時間はあるかしら? 今回のお礼も兼ねて、一緒に食事でも如何と思ったのだけど。奢るわよ?」
どうやら刹羅が楽屋を尋ねてきた目的は、労いと打ち上げの誘いであったらしい。これは別に慣習というわけではなく、花ヶ崎刹羅個人としての厚意であった。無論、話しておきたいことがあるのも確かなのだが。
「ご馳走して下さるというのであれば、断る理由もありませんわね。わたくしは構いませんわよ。死ぬほど食べて差し上げましてよ」
「
この後の二人の予定はといえば、ただ家に帰ってゴロゴロとするだけ。本日は配信もお休みのため、予定と言えるようなものは特に無かった。故に二人は刹羅の誘いを二つ返事で許諾。腹がはち切れるまで食ってやろうと企んでいた。何しろ刹羅は探索者協会の支部長、それも日本一利用者が多いと言われる渋谷支部の長だ。費用の心配など一切しなくていいし、何より良い店を沢山知っていそうである。
今となっては異世界方面軍も相当な稼ぎを得ている筈なのだが、こういった部分はまだまだ豚小屋───最初期のクリスの部屋のことだ───時代から変わっていない。必要な機材や配信道具には惜しみなく資金を注ぎ込んでいるが、意味もなく贅沢をしているといったことは一切ない。元よりエスターライヒ公爵家がそういう気風だったことも理由の一つだが、何よりもクリスが散財を許してくれないのだ。無駄な買い物をすることの多い
「それはよかったわ。そうそう、大和くんも誘ってあるんだけど、いいかしら?」
「もちろん構いませんわ」
当然ながら、刹羅としてはもうひとりの立役者───否、一番の功労者を誘わないというわけにはいかない。アーデルハイトからしても、大和は実技演習の片付けを手伝ってもらった相手なのだ。断る理由は無かった。
「それで、なにか食べたいものってあるのかしら? 何でもいいわよ」
「むむっ……」
それはある意味、究極の選択であった。アーデルハイトは食べ物に関して、基本的に好き嫌いがない。なんでも美味しく食べるし、そのスタイルとは裏腹に健啖家でもある。しかしその上で、こちらの世界の食事情にそれほど詳しくはない。故に『何を食べたい?』と聞かれれば、なんとも答えに困ってしまうのだ。
「お嬢様、私が決めても宜しいですか?」
そうしてむんむんと唸りだしたアーデルハイトへと、隣りにいたクリスが助け舟を出す。主人であるアーデルハイトの考えなど、クリスには全てお見通しなのであろう。そんなクリスの申し出に、アーデルハイトはすぐさま許可を出す。自分の好みを熟知しているであろう従者の提案だ、間違いなどあるはずもない、と。
「よくってよー!」
「では……あぁ、漸くこの時が来ましたね。こんなこともあろうかと、念の為に持って来ておいて正解でした……ではお嬢様、コレに着替えて下さい」
そう言うとなにやら感慨深げに、クリスはカバンの中から衣服を取り出した。それをそのままアーデルハイトへと手渡し、自らもまた部屋の隅へと移動し着替えを始める。その手つきは妙に軽やかで、柄にもなく彼女が浮かれているのが見て取れた。着付けの難しいメイド服だというのに、一人で手早く着替えを済ませるクリス。そんな姿を訝しみながら、アーデルハイトもまた言われるままに着替えを始める。
そうして二人が着替えを終えた丁度その時、楽屋の扉がノックされる。
「はぁ……はぁ……すみません、お待たせしました! 入っても大丈夫ですか?」
「構いませんわー」
恐らくは刹羅から食事に誘われ、急いで荷物を纏めたのだろう。やたらと息を切らした大和が、アーデルハイトの入室許可と共に扉を開いた。そうして大和が目にしたものは、普段とは異なる服に着替えたアーデルハイトとクリスの姿であった。といっても、二人とも特殊な服装というわけではない。下はジャージ姿で、上は極々普通の黄色いシャツを来ているだけであった。しかしそのシャツには、デカデカとこう書かれていた。
───人の金で焼き肉が食べたい、と。
「というわけでして、花ヶ崎支部長。お高い焼き肉をよろしくお願い致します」
綺麗なお辞儀とともにそう言ったクリスの顔には、隠しきれない喜色が浮かんでいた。アーデルハイトの好みなどは関係なく、ただただクリスは焼き肉が食べたいだけであった。
* * *
その頃、異世界方面軍のアジトにて。
「みぎわ」
「うい」
「しょうゆ」
「ういッス」
「みぎわ」
「うい」
「わさび」
「ういッス」
続いてチューブのわさびを受取り、そのまま納豆へと投入する。そうして再びしゃこしゃこと、眠そうな顔のままでかき混ぜる。
「みぎわ」
「うい」
「おかか」
「ういッス───いや何で調味料系全部こっちに置いてあるんだよ!」
「そんなに使うんなら、最初から自分の手元に配置しておけばいいじゃないッスか! 何のプレイっスかコレ!?」
「む。その手があったか……」
「悲報。異世界錬金術師、ただのアホだった」
「まぁまぁ」
そう言いつつも納豆をかき混ぜる手を止めないオルガン。
オルガンがこちらの世界に来て数ヶ月。すっかり遠慮の無くなった二人であった。
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