第160話 ちちちち乳
『そういえばアーさんって乗馬とか出来るん?』
全てはこの一言から始まった。
コメントを投稿した者も、まさかあんなことになるとは思っていなかっただろう。それはちょっとした、ただの興味本位に過ぎない一言だったのだから。
グラススティードは馬型の魔物だ。ここ神戸ダンジョンでは珍しくない魔物ではあるが、他のダンジョンではあまり見かけないタイプである。グラススティードは馬型というだけあって、活動するのは草原のように広大な地形のみ。ダンジョンに生態系が存在しているのかどうかは不明だが、狭い通路ばかりの洞窟系ダンジョンでは、この魔物は生息していないと言われている。
そして神戸は不人気ダンジョンだ。
故にか、グラススティードの存在を識っていても、実物を見るのは初めてという視聴者も多かった。そんなちょっぴり珍しい馬型の魔物を見て、『そういえば貴族って』と思い出した程度の、ささやかな話題提供のつもりだった。
こちらの世界に於ける、貴族のイメージとはどんなものだろうか。
実物の貴族はこちらの世界にも存在するが、大半の者はファンタジーや創作世界の貴族を思い浮かべるのではないだろうか。
そういった作品の中での貴族とは、傲慢であったり、悪事を企てたり、基本的には悪しざまに描かれることが多いのではないだろうか。誇り高い貴族も描かれはするが、どちらかといえば少数派なのではないだろうか。
そんなファンタジー世界の貴族だが、どちらのタイプにしても共通する部分がある。よくは分からないが『高貴』である、というのが多く抱かれているイメージではないだろうか。貴族についての詳細は知らずとも、とにかく偉い身分なのだという認識は、恐らく誰もが持っていることだろう。
先のコメントを投稿した視聴者も例に漏れず、貴族に対してそういったイメージを持っていた。だからこそ、何気なく想起し呟いたのだ。『高貴な趣味といえば乗馬だよね』という、ひどく安直な一言を。
「乗馬が出来るのか、ですって?」
アーデルハイトが木刀を振るい、両断されたグラスウルフには一瞥もくれずに、そのコメントへと反応を返した。
「当然ですわ。わたくしを誰だと思っていらっしゃるの?何を隠そう、『公爵家のじゃじゃ馬』とはわたくしの事ですわよ!」
『お、おう……』
『そ、そうだな』
『それ多分意味違うと思うんですが』
『それ、多分褒められてないです……』
『黙ってれば完璧なんだけどなぁ』
『は?やんのかコラ。喋っても完璧だろうが』
『まぁ
『剣聖も騎士団長も兼任してるし、多少はね?』
『いやぁ、所作の端々から隠しきれない育ちの良さが出てるぞ』
『ギャップがアデ公の持ち味だろうが!いい加減にしろ!』
「やはり乗馬は貴族の嗜みですもの。そうでなくとも、軍や騎士団でも馬には乗りますわ。あちらの世界では、馬車と並んで最も基本的な移動手段といえますわね」
あちらの世界の実力者達は、こちらの世界のそれとは身体能力が段違いだ。魔法による補助があれば、その差はより顕著なものとなる。瞬間的な速度で言えば、馬に乗るよりも自らの足で移動したほうが早い場合が殆どだった。
だが、だからといって常にその速度を維持出来るわけではない。体力や魔力の消耗は勿論、その他にも様々な問題がある。故に長距離の移動となれば、やはり乗馬は必須の技能となっていた。
「私も乗れますよ。従者の嗜みです」
「わたしは一人では乗れない。色々届かないから。無念」
そんな異世界人といえど、誰も彼もが乗馬に通じているというわけでもないらしい。クリスなどは公爵家に仕えていた上、アーデルハイトに追従することも多いが故にしっかりと馬術をマスターしている。だがほとんど住処から外に出ないオルガンは、いつも誰かの後ろか前に乗っていた。
彼女は馬の操作が下手だというのもあるが、それよりもずっと大きな問題があったのだ。
『はえー。やっぱ貴族といえば乗馬だよなぁ』
『狩りとかもイメージあるけど』
『というか、馬術はこっちの世界でもなんか上品なイメージあるわ』
『神戸にも乗馬出来るトコ何箇所かあるよ』
『そんなん撮れ高間違い無しじゃんね』
『アデ公の乗馬ウェア姿……イケる!!』
『是非配信して頂きたく』
そう。
この時は誰も、『今から見せてくれ』などと言ってはいなかったのだ。当然だ。ここはダンジョン内であり、そして探索者にとっての戦場だ。乗用馬は疎か、軍馬もいない。唯一居るのは馬っぽい魔物だけであり、少なくともそれは人間が乗っていいものではなかった。
しかし何を勘違いしたのか、アーデルハイトはこう言い放った。
「では丁度『馬』も居ることですし、わたくしの華麗なる馬術をご覧に入れましょうか」
視聴者達は耳を疑った。
確かにアーデルハイトはこれまでにも、ゴブリンの頭部を蹴り飛ばしたり蟹を投げたりと、数々の馬鹿げた行為を見せてくれた。だがそれはあくまでも討伐の延長線上である。言うまでもないが、グラススティードは人間の命を十分に奪うことが可能な危険な魔物である。そんな魔物に乗って移動するなど、もはや舐めプレイを通り越して狂気の沙汰だった。
当然のように彼女を制止するコメントが大量に飛び交った。しかしアーデルハイトはまるで言うことを聞かず、木刀を片手に草原へと飛び出してしまった。そうして数分後、アーデルハイトは一頭のグラススティードを追い回しながらクリスたちの元へと戻ってきた。まるで威嚇でもするかのように、木刀で地面をガリガリ削りながら。
「オルガン!確保ですわー!!」
「ほい」
アーデルハイトの声に呼応し、クリスに抱えられたままのオルガンがぱちりと指を鳴らす。すると瞬時に、地面から巨大な土壁がいくつも現れた。土壁はグラススティードの行く手を阻むように聳え立ち、その疾走を食い止める。
突如として現れた壁に怯むグラススティード。その僅かな隙に、跳躍したアーデルハイトがグラススティードの背中へと跨る。当然のように振り落とそうとして暴れ回るグラススティードであったが、アーデルハイトの凄まじいバランス感覚の前では無力でしかなかった。
「よく考えると、馬具が何もありませんわね……鞍も手綱も
馬を操るには、通常様々な馬具が必要だ。だが、当然ながらそんなものがここにあるはずもなく、アーデルハイトも乗ったまでは良かったが、やはりまるで制御出来ていなかった。暴れまわるグラススティードと、掴む場所もないのに微動だにしないアーデルハイト。全く以てシュールな光景であった。
「アーデ、わたしも乗る」
そう言ってジタバタと暴れ始めたオルガンを、クリスは仕方ないと言わんばかりに放り投げる。依然として荒れ狂うグラススティードの背の上で、アーデルハイトが飛んできたオルガンを受け止め、そうして自らの後ろへと座らせる。だが運動神経皆無のオルガンが、その激しい揺れに対応出来るはずもなかった。
「こここれれれ、あああああばばば暴れれれ過ぎぎぎぎでは?」
「ちょっと!どこを掴んでいますの!?」
「ちちちち乳」
「腰!腰を掴みなさいな!!」
「ぬぉぉおおおお」
鷲掴みにしていたアーデルハイトの胸から手を離し、オルガンがアーデルハイトの腰に手を回そうとした時だった。バランスを崩したオルガンが、勢い余ってグラススティードの臀部をぺしりと叩いてしまった。瞬間、グラススティードが勢いよく駆け出した。
「あっ」
「あっ」
グラススティードの走る速度は凄まじい。流石にアーデルハイトやクリスといった異世界出強者ほどではないものの、少なくとも、こちらの世界の探索者では到底追いつけない程度にはスピードが出る。伊豆Dに生息するカルキノスの幼体、その逃走時の速度と同等かそれ以上だ。
あっという間に消え去った二人と一頭。
そこにはぽつりと、カメラを構えたクリスだけが残されていた。
『草』
『大草原』
『いや草』
『さすが撮れ高モンスター、これは予想出来んかった』
『これには流石の団員も苦笑い』
『くっそおおおオルガンちゃん裏山けしからん!!』
『キャスト居なくなったけど???』
『いや俺はゲラゲラ笑ってる』
『マジで緊張感の欠片もねぇ!!』
『らしくなってきたぜェ!!』
『クリスが不憫すぎるw』
「……はぁ……もぅ……とりあえず追いかけます……はぁ……」
そうして溜息を幾つも吐き出し、クリスもまた全力で二人の後を追うのであった。この馬鹿馬鹿しい一幕が、まさか危機に瀕していた同業者を救うことになるなどと、この時はまだ誰も想像していなかった。
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