第159話 お尻が痛い

 神戸ダンジョン9階層。

 草原の中を、三人の探索者が走っていた。


「急げ!走れ走れ!!」


「アイツらは!?」


「まだ追って来てる!!いいから走れ!!」


 先頭を走るのは、頬に傷のある若い男の探索者だ。何処か野性味を感じさせる三白眼を、今は厳しく細めている。男が後方をちらりと見てみれば、そこには息を切らし、顔を顰めながら追従する女探索者の姿。

 そして更にその後ろには、殿を務めている大柄な男も見える。最後尾を走るその男は身につけた重装備も相まってか、前を走る二人よりも幾らか遅れ気味だった。


「シモン!!急げ!!もう少しだ!!」


「はぁっ!はぁっ!分かってる!二人は先に行け!!」


 先頭を走る男が、殿の男───シモンを大声で鼓舞する。

 草原と言っても全くの平地というわけではなく、緩やかな勾配は多い。普段であればどうということもない緩やかな丘陵も、こうして全力疾走の最中であれば十分に体力を奪う罠となりうる。


 シモンの身長は186cm。パーティ内で壁役を担う彼の肉体は、日本人の平均からすれば十分に巨漢といえる。無論太っているわけではないが、しっかりと鍛えられた筋肉は相応に重い。瞬発力勝負の短距離走ならばいざ知らず、持久力勝負となると些か苦手な分野であった。極端に鈍重というわけではないが、残る軽装の二人と比べれば遅れてしまうのも無理はないだろう。


「馬鹿かテメェ!んな事出来るかよ!!クソっ……ツバメ!援護するぞ!!」


「んぐっ……オッケーッ!」


 次いで丘を登り終えた女探索者、ツバメと呼ばれた少女が、切らした息を無理矢理飲み込んで弓を構える。丘を登りきったからといって逃げ切れた訳では無いが、このままでは殿のシモンは坂を登る前に追いつかれてしまう。幼い頃からの友人を、こんなところで見捨てられるわけがなかった。


 ツバメが振り返った先。

 そこにはドタドタと必死に坂を走るシモンと、それを追う十二体のグラスウルフの姿が見えた。


(くっ……なんでよ!さっきよりも増えてる!?)


 ツバメはそんな愚痴を喉元で飲み込み、先頭を走るグラスウルフに向けて矢を番える。彼女の弓は和弓ではなく、アーチェリーなどで使用される競技用のものに近い。それらを対魔物用に改造した、探索者の使用する弓としては一般的なものだった。

 番えた矢はダンジョン産の金属で作られたもので、たった一本作るのに20万という金額がかかっている。その分性能は優れており、紛れもなく彼女の切り札だ。


「───ッ!!」


 ツバメは声を発することもなく、ただ敵を睨みつけて矢を放つ。

 一般人のそれよりもずっと強い膂力で放たれたそれは、銃弾も斯くやといった速度で標的へと到達する。そうして狙い過たず、先頭を走るグラスウルフの脳天を捕らえた。20万円の矢で屠るのが一体の魔物とは、なんとも贅沢な話である。だが、今の彼女が確実に敵を仕留める為には必要なことだった。


 数を減らした事に安堵する暇もなく、ツバメは次の矢を取り出して番える。


「左を潰すわ!イチカは右をお願い!」


「任せろ!!」


 言うが早いか、ツバメが二の矢を放つ。その隣では、イチカと呼ばれた男が短槍を振りかぶっていた。小さく助走をつけて放たれた短槍は、風を切り裂いてシモンの横を通り抜けてゆく。その直後、ぐちり、という嫌な音と共に、一頭のグラスウルフの頭蓋が弾け飛んだ。だが、同胞の頭が無惨にも貫かれたというのに、群れの速度は微塵も衰えない。


「あと九!!───あと九!?」


「文句言うな!」


 あまりの敵の数に絶望しそうだった。

 高所を陣取って、二人がそれぞれなけなしの装備を使用して、そうして漸く減らせた数が二。絶望しそう、ではなく、絶望的な状況だった。


 これが草原という地形の恐ろしさだ。一度魔物に捕捉されれば、否応なく戦闘になってしまう。そしていつの間にか敵の数は増え、逃げることすら難しくなってしまう。無論、三人も知識としては頭に入れていた。だがそれは経験に基づくものではない。実際に今この様な状況に陥っているのだから、見通しが甘かったと言わざるを得ないだろう。


「そもそもアンタが『団長みたいに過疎Dで活躍して人気になる』なんて言うから、こんなことになってんでしょうが!」


「お前らも乗り気だったじゃねぇか!」


 ツバメとイチカが責任の擦り付け合いを始めたところで、漸くシモンが二人に追いついた。このパーティで最も冷静なのはシモンだ。二人の喧嘩を止めるのは、いつも彼の仕事であった。


「今はそんなことを言っている場合ではない!」


「ッ───そうね、ごめんなさい」


「……すまん。冷静じゃなかった」


 探索者にとって、ダンジョンで最も気をつけなければならないこと。それは平常心を失うことだ。身体能力で人間に勝る、魔物を相手に戦うのが探索者だ。その武器は戦略であり頭脳。混乱し、平静を欠いた者から命を落としてゆく。探索者協会が主催する初心者講習でも、口を酸っぱくして言われたことだった。


「ここからは下りだ!一気に下りるぞ!」


 幾らか時間を稼いだとはいえ、足を止めている暇などありはしない。シモンの合図と共に、三人は一気に丘を駆け下りてゆく。緩やかな勾配とはいえ、その速度は登りと下りでは雲泥の差だ。肉体への負荷は下りのほうが大きいとも言われているが、体力的には下りのほうが余程マシだった。


 そうして坂を下りた三人は、すぐさま走り始める。

 階層入口はまだずっと先なのだ。逃げ切れるかどうかも怪しいような状況だったが、他に選択肢もない。彼らが生き残るには、どうにかして入口まで戻る他なかった。


 彼らのパーティもまたダンジョン配信を行っており、ツバメの視界の端では、三人を心配するコメントや応援するコメントが幾つも流れていた。もしもの時は、カメラを切る判断もしなければならないだろう。


 ツバメがそんな風に考えていたところで、彼女の前を走っていたイチカの足が鈍った。一刻を争うこの状況で、一体どういうつもりなのか。今はとにかく足を動かさなければ生き残れないのに。

 何か理由があるのかもしれないが、しかし今はそんな理由等どうだってよかった。そうしてツバメがイチカの尻を蹴り飛ばそうとしたその時、シモンもまたイチカと同様に足を止た。


「ちょっと二人共!?一体何を────」


 一体何をしているのか。

 そう尋ねようと前を向いたツバメの視界に、八体のグラスウルフが姿を現していた。後方から追ってくる九体と合わせれば、合計十七体。広く逃げ場のない草原で、三人は完全に包囲されていた。


「……嘘でしょ……?」


「ここまでか……」


「だな……ツバメ、カメラ切れ」


 期待の新人などと言われていた三人ではあるが、ダンジョン配信を始めたのはつい最近のことだ。まだそれほど登録者数も多くないというのに、絶望するツバメの視界の端には、滝のように流れるコメント欄があった。まだまだ駆け出しの配信者ではあるが、これでも配信者の端くれだ。これから起こるであろう光景を、視聴者達に見せるわけにはいかなかった。


「ん……そう、だね……皆ゴメンね。配信はここまでみたい」


 そう言ってツバメが、自らの後方に漂う追尾カメラへと手を伸ばす。そのままカメラの電源を落とそうとした時、ふと、ツバメの耳へと何か声のようなものが聞こえてきた。


 ────け────だ────し────


 遠く、微かに、だが確かに、何かが聞こえる。


「……?」


 死を前にしたこんな状況だと言うのに、ツバメは不思議とその音が気になって仕方がなかった。何か以前にも、何処かで聞いたことのあるようなその音。イチカとシモンの二人へと顔を向けるツバメ。どうやら二人にも謎の声は聞こえているようで、ツバメ同様に困惑したような表情で、両者共に彼女を見つめていた。


 ───避け───くだ────し────


 再び聞こえる声。

 心なしか先程よりも近く、大きく聞こえたような気がした。


「ねぇ、何か……」


「あぁ……これは……声、か?」


 見れば、前方のグラスウルフの群れもまた後方を振り返っていた。一体何が起こっているのか、ツバメにも、シモンにも、まるで現状が分からなかった。人も魔物も、その場の全員が困惑する状況の中、イチカが前方を指差しぽつりと呟いた。


「オイ、二人共……あれ」


 イチカが指し示す先。グラスウルフの群れの後方、つまりは三人の前方で、大きな砂煙が舞い上がっていた。その砂煙は徐々に大きくなっており、どうやらこちらへと向かって来ているらしい。


 三人の脳裏にまず過ぎったのは、新たな魔物の襲来だった。グラスウルフの群れが残らず警戒を見せていることからも、その可能性は高そうだった。

 だがこの階層に姿を見せる魔物の情報は、三人の頭の中にも入っている。そして彼らの頭の中の情報には、これに該当するような魔物は居ない。となれば、変異種だろうか。既に生存を諦めていた三人だったが、そう考える内に、いつの間にかそちらへと気を取られてしまっていた。


 そうして三人と十七体が見守る中、砂煙を巻き上げながら、『それ』はついに姿を現した。


「そこの方々、避けて下さいましぃぃぃぃ!!」


「お尻が痛い。割れる」


「いいから、早く降りてくださいよ!!」


 大声での注意喚起と、次いで呑気な声。

 ツバメとイチカ、シモンの三人が目にしたもの。それは暴走するグラススティードに馬具も無しで跨った金髪縦ロールとロリエルフ。そして、それをカメラ片手に追いかけるメイドの姿であった。

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