第157話 風が気持ちいいですわね

 頬を撫でる柔らかな風。

 緩やかな丘と、見渡す限りに広がる開放的な大草原。


 京都や渋谷のような変化に乏しいダンジョンとは異なり───京都の未踏破地域はかなり変化していたが───、神戸ダンジョンの五階層は凡そダンジョンらしからぬ様相を呈していた。

 種類としては、伊豆Dの砂浜地帯が最も近いだろうか。地下に存在するはずのダンジョンだというのに、まるで大自然の中に迷い込んだかのような。そんな錯覚に陥ってしまいそうな風景が、アーデルハイト達の眼前には広がっていた。


「あら、素敵な場所ですわね」


「改めて、ダンジョンとは不思議な所ですね」


「うむり。謎」


 あちらの世界のダンジョンにも、こうして急激に環境を変える場所がいくつもあった。だがやはり、こちらの世界と同様にその理由や原理はまるで解明されてはいない。誰が作ったのか、或いは、どうやって出来たのか。その一切が謎に包まれた不思議な空間、それがダンジョンという存在だ。こうして突如あり得ない光景が現れたとしても、『まぁダンジョンだし』の一言で誰もが受け入れられる程度には、ダンジョンにとってはありふれた光景だ。


 そんな環境の変化が、冒険者や探索者に有利に働くことなどまずない。


 例えば伊豆ダンジョン。

 砂浜地帯は砂に足を取られ、思うように動くことが出来ない。砂浜トレーニングなどという鍛錬方法があるように、砂浜を歩くという行為は思いの外体力を奪うものだ。伊豆の浅層は魔物の数が少ない為まだマシな部類だが、そんな場所での戦闘は本来であれば避けるべきだろう。


 洞窟地帯もそうだ。

 滑る足場に、まるで自然の罠であるかのように点在する窪みと水たまり。砂浜とは異なる角度からの対策が必要になる。そればかりか、入り組んだ岸壁が魔物の発見を遅らせることもある。とはいえこれは、どこのダンジョンにでも言えることではあるが。


 つまるところ、環境が大きく変化するタイプのダンジョンは、そうでないものと比べて難易度が高くなりやすいということだ。そしてそれは勿論、この神戸ダンジョンにも同じことが言える。一見すれば壮観で気持ちの良い光景に感じるこの大草原も、探索者にとっては十分に厄介な存在なのだ。


 見晴らしがいいということはつまり、身を隠す場所がないということに他ならない。魔物の発見は早くなるかもしれないが、それは魔物側にとっても同じことが言える。


 そして基本的に、探索者よりも魔物のほうが身体能力は高く、また数も多いのだ。故に互いが互いを認識しあった時、有利なのは間違いなく魔物側となってしまう。そうなった時に身を隠すことが出来ない、つまりは戦闘か逃走を強制されてしまうのだ。簡単に囲まれてしまうが故に、待ち伏せをするだとか、一旦やり過ごして後衛から狙うだとか、そういった戦略がとりづらい。

 身体能力で魔物に劣る探索者にとって、戦略は最大の武器と言っても過言ではない。その戦略が活かせず、地力での戦いに引きずり込まれやすい。これがこの草原地帯の最も厄介な部分と言えるだろう。


 他にも『広すぎて探索が面倒』だとか、『次の階層までが遠すぎる』だとか、そういった理由も勿論ある。単純に資源や魔物の素材を求めるのならば、これほど効率の悪い場所もないだろう。また、『出現する魔物が厄介』というのも大きな理由の一つである。総じて、不人気ダンジョンになるにはそれなりの理由がある、ということだ。


 だがこれらは、お散歩ついでの偵察にやってきただけの彼女達には、それほど関係のない話だった。現にアーデルハイトは柔らかな微風に黄金の髪を揺らしながら、気持ちよさそうに伸びをしている。その様子からは気合や緊張といったものは一切感じられず、ただただバカンスに来た令嬢といった風にしか見えない。


「んー!風が気持いいですわね!」


『絵になるなー』

『ふざけてないときのアデ公マジ女神』

『は??遊んでる時も可愛いが??』

『胸部が大変なことにおなりあそばされておる』

『ぱつぱつジャージでよかったー!!』

『流石の専用ジャージも伸びには耐えられなかったか』

『のびのびたすかる』

『もう完全にピクニックだコレ』


 その一方で、オルガンとクリスは小高い丘の上から周囲を見回していた。


「あ、グラススティード」


「あちらにはグラスウルフの群れが見えますね」


 オルガンが発見したのは、グラススティードと呼ばれる馬型の魔物だ。通常の馬とは異なり、群れを形成せずに単独で活動する魔物である。鼻先から頭部にかけて硬い刃状の器官が備わっており、それを利用しての速度ある突進が武器だ。それほど好戦的ではなく、攻撃も単調であるため回避は容易と、魔物としての脅威度は高くはない。だが走る速度はやはり相当なもので、いざ突進を受けてしまえば探索者など簡単に吹き飛ばされてしまう。故に、初心者のうちは下手に手を出さないことが推奨されている魔物だ。


 一方、クリスが発見したのはグラスウルフと呼ばれる魔物だ。草原に姿を見せる狼なので草原狼グラスウルフとは、なんとも捻りのない呼び名である。だがそんな安直な呼び名とは裏腹に、探索者にとって十分な脅威となりうるだけの力があった。

 グラスウルフは通常の狼よりも少し身体が大きく、また爪や牙もより鋭い。毛皮の色は薄っすらとした緑色をしており、申し訳程度に保護色の役割を果たしている。俊敏性に関しては言わずもがな、通常の狼よりもずっと上だ。それが群れを為して襲ってくるのだから、少なくとも油断していいような相手ではない。


 ちなみに、通常の狼は血縁関係にある個体同士で『パック』と呼ばれる群れを形成する。それに対し、魔物であるグラスウルフは全く関係のない個体同士で群れを形成する。理由などは当然のように不明だが、戦闘能力の低い子供等が混じって居ない分、より戦いに特化した群れとなっている。閑話休題。


 このように、ほんの少し見回しただけでも魔物の姿が遠目に確認出来てしまう。だが、呑気な三人の様子からは伝わりづらい。


『はえー、綺麗なとこ』

『これで何で不人気なの?』

『この光景だけでもかなりいいよね』

『鬱々とした洞窟よりはよっぽど人気出そうだけどなぁ』


 視聴者のコメントには、こういった観光気分丸出しなものも多く見られた。だが視聴者達の中には同業、つまりは現役の探索者も少なくない。神戸ダンジョンに足を踏み入れたことのある者もおり、彼らの補足によって漸く、その危険性が共有される始末であった。


『こっちから敵が見えるということは、だよ』

『逃げ場とか隠れる場所がないんよ』

『異世界沼に嵌りすぎです』

『ここ普通は気合入れ直すとこだからね』

『普通の探索者がお散歩気分で来たら死ぬやで』


 これは異世界方面軍の特色とも言える光景だった。他の配信者のチャンネルであれば、わざわざ補足せずとも配信者キャストの様子から緊張感が伝わる。視聴者達が『ダンジョン配信とは危険な行為』だということを忘れてしまうのは、ある意味では異世界方面軍の欠点なのかもしれない。


「流石にこの距離では、一目散に向かってくるということはないようですね」


「それでは撮れ高になりませんわ!ボコボコにして周りますわよ!」


「おー」


 様子見を続ける魔物達に業を煮やしたのか、木刀を掲げ草原を駆け出すアーデルハイト。それに同意を示しながらも、全く走ろうとはせずにトコトコと歩き始めるオルガン。チームワークは皆無と言っていいだろう。通常のダンジョン探索であれば、パーティ内での別行動などとても推奨出来るような行為ではないのだが。


 カメラを何処に向ければよいのやら、クリスが困ったような顔を見せるその一方で。アーデルハイトが駆けていった方からは、早くも大きな破砕音と砂煙が上がっていた。舞い上がる草と、グラスウルフの悲鳴じみた鳴き声。そこから察するに、どうやらアーデルハイトはカメラの到着を待たずして、既に群れをひとつ壊滅に追い込んでしまった様子である。


 探索者として絶対に手本としてはいけない行為と、誰もが手本とするべき圧倒的な実力。その対称的な二つの要素もまた、異世界方面軍の魅力なのかもしれない。無論、大半の視聴者はキャスト達のビジュアル目当てでもあるのだが。


「ああ、もう……オルガン様、少し走りますよ」


 このままではカメラもないところで、言葉通り『ボコボコにして』周りかねない。だがアーデルハイトに追いつくためには、この運動音痴エルフを連れて行かねばならないのだ。故にクリスは、少し急いだ様子でそう断りを入れ、返事を待たずにオルガンを小脇に抱える。


「ぬわー」


 右手にカメラを、左手にオルガンを。

 そうしてクリスはアーデルハイトに追いつくべく、草原を駆け抜けていったのだった。

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