第151話 断章・赤

 まるで壁を一面切り取ったかのような、曇り一つない巨大な窓。幾つもの魔導書が収められた棚。きっちりと整頓され、無駄なものなど何一つ見当たらない大きな執務机。真っ赤な床に、真っ赤な天井。清潔感がありつつも、どこか苛烈な印象を漂わせる広々とした空間。


 部屋の主の性格を表しているかのような、そんな部屋だった。


 そんな部屋の中で、一人の女が懐中時計を眺めていた。右手に握られたそれは、一目見ただけでも凄まじい価値を持っていることが分かる。事実、この時計一つで王都に家が何件も建つほどの価値があった。そうして時計の短針が目盛りひとつ分移動するまでの間、彼女はそれをじっと睨み続けていた。


 次いで女は、左手に握った真っ赤な石へと視線を送る。

 ゆっくりと明滅するそれを認めると、ゆっくりと椅子にもたれ掛かり体重を全て預ける。そうして安堵するかのように、大きく息を吐き出した。


「ふぅー…………全く、肝が冷えるよ」


 誰に言うでもなく呟かれたその言葉は、鏡のように磨き抜かれた執務机に弾んで消える。時計を懐にしまい、石を机の上に置いて瞳を閉じる。紅く長い睫毛が小さく揺れたかと思えば、次の瞬間にはもう前を見据えていた。


「さて、これで第一目標はクリア。あとは彼女達次第という訳だ」


 本音を言えば、人任せにせず自分が行きたかった。

 こんなことを言ったところで詮無き事だというのは女も理解っている。立場の問題もあるし、誰かがこちらに残っていなければならないのも確かだったから。だが女の性格上、こうして自分だけが安全圏に居るような状況はひどく居心地が悪かった。

 そも、成算があったとはいえあの聖女に身を任せるなど正気の沙汰ではない。自ら名乗り出たオルガンが異常なのだ。

 無論理屈はわかる。誰かが行かなければならないのなら、それは間違いなく研究者のオルガンだっただろう。戦闘職の自分が行ったところで、解決の糸口を掴むことなど出来ないだろうから。だがそれでも───。


「……今更だな」


 女は頭を振って後悔を振り払う。

 オルガンにはオルガンの役目があるように、女にもこちらに残った者としての仕事があるのだから。


「これ以上、あの女が好き勝手出来ないよう牽制しなければな」


 あちらには剣聖アーデルハイトもいる。恐らくは拳聖ウーヴェも居るのだろう。戦力としては十分過ぎるほどだ。『あちらの世界』とやらがどの様な環境下など分からないが、あの三人でどうにもならないのであればどの道手に負えない。こちら側から出来る援護といえば、あの女を自由にさせないことくらいだった。


 だがそれは、言うは易く行なうは難しの典型だ。

 厄介な事に、あの女は表向きの評判だけはすこぶる良い。女神の言葉を聞くことの出来る唯一の人間だというのも、それに拍車をかけている。信者も多く、ともすれば聖女自身を崇拝しているものすらいる始末だ。あの女の本性に気づいているものは多くない。だからこそ牽制するのも一苦労なのだ。


 オルガンの推測では、今回の件は魔法によるものではないとのことだった。人間の叡智の結晶とも言える魔法だが、しかし異なる世界へ渡ることなど出来ないはずだ、と。


 であればこそ、恐らくは『法力』によるものだろうとオルガンは推測していた。法力とはつまり、簡単に言えば女神の力の一端を借り受ける能力の事だ。使える者が聖女しか居ないが故にその詳細は分からないが、例えるなら『儀式』に近い。

 法力は魔法と比べ、発動するのに手間がかかる。魔法であれば極論、呪文を唱えるだけでいい。だが法力は複雑な手順を踏んでそれを行う。

 祈る、供える、祝詞をあげる。何かしらの道具を配置する。決められた順番通りに動かす。何をしているのかは聖女自身にしか分からないが、そうした迂遠な手順を踏むことによってこの世に奇跡を顕現させる。それが法力だ。


 だがその効果は絶大。

 単純な比較は出来ないが、魔法と比べれば規模も効果も大きくなる場合が多い。少なくとも、結界や封印等といった直接的な攻撃ではない術に関して言えば、間違いなく法力のほうが上だった。故に魔法では行えない世界間の移動も、法力ならばあるいは、というのがオルガンの推測だった。


 女が頭の後ろで纏めた長い赤髪を、口元まで持ってきてさわさわと揺らす。これは彼女が何か思索に耽る時のクセだった。だがいくら考えたところで答えは出ない。女は攻撃魔法の専門家であり、それ以外の分野に関してはオルガンほど詳しくはない。そんなオルガンですら現地に行かなければ答えは出せないと言っていたのだから、これ以上の思索は時間の無駄だった。


 オルガンが聖女に接触すると決めてから、女はこうしてぐるぐると同じ考えを頭の中で泳がせていた。自分でも意味がないと理解っていながら、どうしてもそれを止めることが出来ないでいる。それは彼女が善人である証であり、友人が危険を犯すのをただ見ていることしか出来ないが故の、一種の自責だったのかもしれない。


「……まずはアスタに報告だな。あの男の手を借りれば、大抵のことはどうにかなるだろう」


 聖女は殆ど、一国の王と同等の位置に居るのだ。女もまた、王国宮廷魔術師筆頭、兼、第一魔法師団長という影響力のある重要な役職に就いてはいるが、聖女の動きを掣肘するには位が足りない。故に、聖女を牽制するには一国の王であるアスタリエルの手助けが必要だった。


 元より彼とは協力関係にあるし、今回の件についての協議も済んでいる。あちら側でオルガン達が帰還手段を模索している間、こちら側で聖女と戦うのは残された二人の仕事だった。


「……こちらはこちらで、やはり楽な仕事ではないな」


 燃えるような紅髪を右手でかきあげ、遠く離れた見知らぬ土地で、今も奮闘しているであろう友人達を思う。次いでこれからの苦労を思い、また一つため息を吐き出した。


 そんな折、部屋の扉がノックされる。外から様子を見ていたのかと聞きたくなるような、随分と間の良いノックだった。


「筆頭、そろそろ」


「ああ、もうそんな時間か……すぐに行く」


 ともあれ、まずは宮廷魔術師としての責務を果たさねばならない。放っておいても魔物を狩って回るイカれた男や、頼まれればホイホイ遠征するチート令嬢は居ないのだ。聖女の件も勿論重要だが、それだけに固執するわけにはいかないのが彼女の立場だ。


 そうして赤髪の女、『聖炎』シーリアは部屋を後にする。


 彼女は知らなかった。想像だにしていなかった。

 こうして彼女が悩んでいるその一方で、あちらの世界ではぎゃあぎゃあと騒ぎながら怪しげな単発動画の撮影が行われていることを。自らに代わり解決策を探しに行ったエルフが、研究そっちのけで腐った豆に現を抜かしているということを。


 シーリアの苦労は年単位で続きそうだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る