第147話 すんすん……くさっ!!(閑話)

 まだ朝方だというのに、迷惑など知ったことではないと言わんばかりに喧しく鳴く蝉の声。扇風機から届く風は生温く、どうにも動く気力を減退させる。そんな日差しの中でも、元が魔物だからだろうか、肉と毒島さんは元気いっぱいだった。

 バルコニーを騒がしく駆け回る二匹を眺めながら、異世界方面軍の四人は朝食を採っていた。


「この『納豆』というのは素晴らしい」


 器用に箸を操りながら、ぐるぐると納豆をかき混ぜるオルガン。にょん、と伸びる糸を見つめながら、彼女は満足そうに呟いた。


「腐った豆を食べるなんてイカれてる。そのイカれ具合が大変よい」


 よく分からない理由で納豆を褒めるオルガンを、アーデルハイトが嫌そうな顔で眺めていた。まるで『よくそんなものが食べられるな』とでも言いたげな表情だ。


「わたくしは苦手ですわ……」


 そう言ってフォークで『暴薫』を口へと運ぶアーデルハイト。ただそれだけの行為ですらどこか上品に見えるあたり、流石は公爵令嬢といったところだろうか。ぷちり、という小気味良い歯ごたえと共に、口の中へと広がる肉汁と暴力的なまでのスモークの香り。それをゆっくりと咀嚼しながら、アーデルハイトは幸せそうな顔を浮かべている。


 ちなみにアーデルハイトはパン派だ。そんな彼女の眼の前にはこんがりとトーストされた食パンが二枚並んでいる。


 異世界方面軍の食事はクリスが一手に引き受けており、それぞれの好みに合わせてメニューを用意してくれるのだ。非常に面倒で手間のかかる行為だが、クリス本人が好きでやっていることなので、特に苦ということもないらしい。むしろその為に内見でしっかりとキッチンをチェックしたのだ。クリスが料理中の時など、キッチンから鼻歌が聞こえてくるほどである。コレを活かさないのは勿体ない、という意見がみぎわから出ており、近い内にクリスの料理動画を投稿しようかと画策されていたりもする。閑話休題。


「好き嫌い分かれるッスよねー。日本人でもそうなんスから、異世界人はより顕著かもッス」


「海外でも似たようなものですしね。私は嫌いではありませんが……食べ難いのが難点でしょうか」


「くさいですわ!!」


 拳を握りしめ、そう力説するアーデルハイト。


「ウチのパ───父なんかは、匂いが好きって言ってたッスけどね」


「くさいですわ!!」


 確かに、納豆には独特な匂いがある。好みが分かれることで有名な食べ物ではあるが、その大きな理由の一つとして『匂い』が挙げられることは多い。

 実際に、日本人でも『納豆の匂いが苦手』という者は多いだろう。逆に『それがいい』という者も居るだろうが、異世界出身のアーデルハイトには耐えられなかったらしい。


「アーデ、好き嫌いはよくない」


「くさっ!!ちょっと!!こっちに近づけないで下さいまし!!」


「くらえ」


 ぎゃあぎゃあと喚くアーデルハイトの隙をつき、オルガンがアーデルハイトのトーストへと納豆を投下する。こんがりといい色に焼けていた食パンの上は、すっかり納豆に侵食されてしまっていた。


「あ゛ーーーーっ!!」


「おぉ……見た目わる」


「貴女がやった事ではありませんの!!」


 そんな二人のやり取りを眺めていたクリスから、剣呑な気配が漏れ始める。当然といえば当然だが、食べ物で遊ぶ事など彼女の前では許されない。そんなクリスの気配を敏感に察知したアーデルハイトは、涙目になりながら納豆トーストを指でつついてみた。


「すんすん……あら?意外と……すんすん……くさっ!!」


 小さく整った鼻をつまんで、椅子の上で仰け反るアーデルハイト。初めは焼き立てトーストの香りでよく分からなかったが、よくよく嗅いでみればやはり臭かったらしい。そんな事をしている間にもクリスの怒気は順調に膨らんでゆく。


 アーデルハイトは選択を迫られていた。

 残してクリスに怒られるか、肉に与えるか、我慢して食べるか。


 残してクリスに怒られる。

 これは論外だ。そもそもトーストに納豆をぶちまけたのはオルガンの仕業であり、アーデルハイトは何も悪くない。アーデルハイトからしてみれば、悪いことをしていないのに怒られるのはどうにも納得がいかない。


 肉に与える。

 これはなかなか妙案な気がした。肉は雑食だ。口に入るものはなんでも食べる。それこそ魔物の素材ですら食べるのだから、この怪しげな創作料理もおいしく食べてくれるだろう。だが問題はクリスだ。クリスがそれを認めてくれるかが分からない。自分達でやったのだから自分達で処理しなさい、と言われるような気がしてならない。


 結局のところ、アーデルハイトのとりうる選択肢は一つしかなかった。


「どうしてわたくしがこんな仕打ちを……」


「納豆はよいぞ」


「なら貴女が食べればいいではありませんの!!」


「ごめん。もうむり」


「……覚えていなさいな!!」


 元々小柄で少食なオルガンは、既に腹をぱんぱんに膨らませてぐったりとしていた。へそ丸出しで椅子にもたれ掛かるオルガンを睨みつけつつ、アーデルハイトが納豆トーストを両手でつまむ。


「うぅ……くさっ!くさいですわ!」


「ほれイッキ、イッキ」


「ぐぬぬ……」


 そうして小さな口を開き、トーストの端をほんの少しだけ齧る。たっぷりと投下された納豆は表面の隅々まで行き渡っており、それだけでも十分に口に入ってしまう。柳眉を寄せ、顔を顰めながら控えめに咀嚼するアーデルハイト。淑女たるもの、一度口に入れたものを出すことなど出来はしない。


「んむ……もぐ…………あら?」


 瞳を真ん丸にして小首を傾げるアーデルハイト。飲み込む決心がつかず、しばらく口の中に居座っていたトーストが、こくん、という小さな音とともに嚥下される。アーデルハイトは自らが齧った部分を少しの間眺め、そしてもう一度、今度は通常の一口でトーストに齧りつく。


「もぐもぐ……ん……?なんだか……意外とイケますわね……」


「まぁ、納豆トーストって実際にアレンジレシピであるッスからね。チーズなんか載せたりして。実はウチも結構好きッスよ」


 こちらの世界の住人であるみぎわは、どうやら食べたことがあったらしい。意外そうな顔をするアーデルハイトへと、何故かしたり顔でそう語る。

 結局、アーデルハイトはオルガンによって創造された納豆トーストを一枚ぺろりと平らげてしまう。先程まで濃密な怒気を放っていたクリスも、これには大満足の笑顔を見せていた。


「まぁコレなら食べて差し上げても───え、くさっ!わたくしの口が納豆ですわ!?」


 こうして、アーデルハイトは納豆嫌いを少しだけ克服することが出来たのだった。なお後日、アーデルハイトによってオルガンへの復讐が為され二人仲良くクリスに怒られることとなるのだが、それはまた別の話である。

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