第116話 天音ちゃん

「と、いうわけなんスよ」


 みぎわはそう言うと、見るからにお高そうなカップを手に取り、紅茶で喉を潤した。もう夏前だというのに紅茶など、と言いたくなるような光景ではあるが、室内は当然のように冷房が効いている。文明の利器に感謝を捧げると共に、心の中では地球に謝罪しつつ、みぎわは「ほぅ」と息を吐いた。


「あらまぁ……それは大変ねぇ」


 愚痴るようなみぎわの言葉に相槌を打ったのは、みぎわ達の住む部屋の、下の階に住んでいるマダムだ。見た目は30代後半から40代前半といったところだろうか。名前を七々扇天音ななおうぎあまねといい、名前の時点で既に只者ではない雰囲気を醸し出している。それに加え、この年代の女性にしか出せない大人の色気を纏った、とても上品な奥様であった。


 旦那が仕事で家を空けることの多い都合で、彼女には自由な時間が多い。かつ、七々扇夫妻には子供も居ないため、年の離れたアーデルハイト達のことをよく気にかけてくれるのだ。このマンションに引っ越してきて以来、異世界方面軍の面々はなにかと彼女の世話になっていた。


 余談だが、彼女達が初めて出会った時、「これほどのマダム感を持つ方が、最上階に住んでいないのは怪しいですわ」などとアーデルハイトが言い出したことがあった。ひどく偏見に塗れた言い草ではあったが、クリスもみぎわも反論出来ない程度には、説得力のある言葉だった。


 そうして尋ねてみたところ、実は七々扇夫妻は元々は最上階に住んでいたそうだ。今は空き部屋となっているアーデルハイト達の隣の部屋がそうだ。が、天音が趣味で行っている占いにより、現在はひとつ下の階に移り住んでいるとのことである。占いで何が見えたのかを聞いても、「あらあら」「まぁまぁ」で誤魔化されてしまうので詳細は不明である。閑話休題。


 案件動画の編集と投稿を終えたみぎわは、そんな天音の家へと遊びに来ているというわけだ。いつ訪ねても快く迎え入れてくれる上、お高いお茶とお茶請けを出してくれるので、休憩に丁度良いのだ。


 そんなみぎわは、ノートPCの画面をじっとりとした目で眺めていた。そこには夏に開催される同人イベントの公式ページが表示されていた。


「どう考えても間に合わないんスよねぇ……ダンジョンに気を取られすぎたッス」


 みぎわ達がちまちまと進めていた同人誌制作。だがそれが、どう計算しても間に合わないことが判明したのだ。申し込み自体は2月の時点で行っていた。だがそれは、アーデルハイトがこちらの世界にやってくる前の話だ。クリスとみぎわの二人で立てていた予定は、アーデルハイトの登場と共に大きく狂ってしまった。良くも悪くも、だ。


 ダンジョン配信や動画投稿等、ここ最近は忙しくも楽しい数ヶ月を送っていたみぎわ。だがそれらの作業と同時に、同人活動を進めることは流石に難しい。そもそもからして、仕事の合間を縫ってのギリギリのスケジュールだったのだ。もっといえば、元々予定していた内容を変更した所為もある。

 そういった様々な要因が積み重なった結果、ほぼ詰みの状態が生まれたというわけだ。はっきりと言ってしまえば、完全にみぎわの自業自得である。


 本はまだほんの数ページしか完成しておらず、とてもではないが完成まで持っていけるような状態ではない。アーデルハイトの意外な才能は嬉しい誤算だったが、とはいえ所詮は素人だ。ほとんどクリスとみぎわの二人で作業を行っているのだから、間に合うはずもなかった。

 だが当選通知自体はもう届いてしまっている。このままでは確実に新刊を落とすことになり、少ないながらも応援してくれているファン達を落胆させてしまうだろう。商業ではなく趣味で行っている同人活動だからこそ、同好の士であるファン達を落胆させることが最も辛いのだ。


「前に作った本を再販するのは駄目なのかしら?」


「やっぱそれしかないッスかねぇ……既刊をコピー本で出すなら、三人でも間に合うッスけど……ぬぁー!新刊を落とさないのがウチの取り柄だったのに!!」


「あらあら……まぁまぁ」


 頭を抱えて天井を見上げるみぎわ

 細々とやってきた同人活動ではあるが、クリスと出会う前から、彼女は毎回必ず新刊を仕上げて並べていた。売れようと売れなかろうと、ファンに喜んでもらうという一点のみが、同人作家としてのみぎわの拘りだった。新刊を落とすことなどそう珍しいことではないが、だからこそ、一度も落としたことがないのが彼女の誇りであった。


 ましてや、今はもう顔が割れてしまっている。

 参加の告知こそまだしていないものの、会場に行けば、みぎわの顔を見て異世界方面軍だと気付く者もいるだろう。そうなれば、異世界方面軍の信頼に傷が付く事態になりかねない。初犯とはいえ、イベント運営からの印象も悪くなるだろう。遥々遠方から来てくれたファンになど、一体どのような顔を向ければいいのやら。


 実際にはそれほど大したことにはならないであろうが、今のみぎわは悪い方へ悪い方へと思考が流れてしまっている。締め切りに追い詰められた人間とは、得てしてこのようなものだ。

 そんなぐったりと落ち込んだみぎわへと、天音は頬に手をあて優しくほほえみながら、どこか諭すように声をかける。


みぎわちゃんは、ファンに喜んで欲しいんでしょう?」


「う……まぁ、そうッス。改めて言葉にされるとめっちゃ恥ずかしいッスけど」


「なら、他に喜んでもらう方法を考えればいいんじゃないかしら?」


「他の方法……ッスか?」


 天音の言葉に、テーブルに突っ伏したみぎわがずりずりと顔を上げる。


「そう。例えば買いに来てくれたお客さんに、何か簡単なプレゼントを渡すとか」


「プレゼント……グッズとかッスか?」


「それは私には分からないけれど……とにかく、来てくれたお客さんが喜んでくれるような何かを用意しておけばいいのよ」


「うーん……何かあるッスかねぇ……」


「あっ、そうだわ!みぎわちゃんがメイド服で接客するなんてどうかしら?みぎわちゃんかわいいし、きっと喜んでもらえるわよ!」


 まるで良いアイデアを思いついたとでもいうように、にっこりと笑いながら、天音が手を打った。売り子がコスプレをするというのは、今ではあちこちで行われていることだ。華があるし、イベント感も強くなる。そして何よりも、売上に多大な影響を及ぼすのだ。故に、その為だけにコス売り子を雇うことも今では珍しくない。確かに既製品の衣装を使えば、間に合う。


 とはいえ、だ。

 みぎわには、自分がコス売り子をしたところでファンが喜んでくれるとは思えなかった。天音は可愛いと言ってくれたが、少なくともみぎわは自分の顔に自信があるわけではない。おまけに小柄で、お世辞にもスタイルがいいとは言えない。一定の層には支持されそうだが、どちらかというとマニア向け。それがみぎわの自己評価であった。


 そしてみぎわが過去に出した本は、歯に衣着せぬ言い方をしてしまえば、どれもスタイル抜群のヒロインが登場するエロ本である。別に登場人物のコスプレをする必要があるわけではないが、さりとて巨乳のエロ本を買いに来た者が自分のコスプレ姿で喜ぶだろうか。そう思わずにはいられなかった。


 みぎわ自身はコスプレをするのが嫌なわけではなく、むしろオタクとしては是非やってみたい、とはずっと思っていた。コスプレとは本人が楽しむもので、周りの評価など気にするものではない。そう分かってはいつつも、踏み切れないのだ。

 新しいことをするのにはいつだって勇気がいる。それはみぎわも同じだった。同人活動を始めたときも、似たような考えはあった。はじめの一歩を踏み出すのにどれだけ悩んだことか。


 その時は、親友であるマユマユに相談した。

 彼の『好きなことやればいいんじゃん?』という一言がなければ、きっと同人活動をはじめることなどなかっただろう。魔法習得の決断を迫られたときもそうであったように、みぎわは最初の一歩を踏み出すのが苦手なタイプだった。


 そしてそれは、今も変わらない。


「あー……いやぁ、ウチがコスプレしても……」


 がりがりと頭をかきながら、みぎわが気まずそうに言ったその時だった。七々扇家の部屋の扉がノックされ、返事も待たずに勢いよく開け放たれた。


「天音ちゃん!!お茶の時間ですわよー!!」


 元気の良い声と共に、ジャージ姿のアーデルハイトがリビングへと飛び込んで来る。小脇に肉を抱え、肩に毒島さんを乗せた姿で。


「あらあら、アーちゃんは今日も元気ねぇ」


「わたくしは今日も高貴ですわよ!!……あら?ミギーも来てましたの?なんだかシワシワですわね?」


 そんな普段通りのアーデルハイトを見て、みぎわはふと思い出した。そう、今のみぎわは、一人で同人活動を行っていたときとはもう違う。そして異世界方面軍には、圧倒的なビジュアルお化けが存在する。それに加えてもう一人、同性の自分からみても綺麗だと言い切れる従者がいる。


 彼女達がいるのなら、自分だけではないのなら。きっとファン達も喜んでくれるのではないだろうか。肉の尻を叩いて天音に見せびらかすアーデルハイトを見て、そう思えた。みぎわは心の中で、他力本願のようでひどく情けない話だと自嘲する。


「お嬢、実はお願いがあるんスけど───ウチらでコスプレ、やらないッスか?」


だがそれでも、みぎわは一歩を踏み出すことを決めた。

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