第84話 そこのそれ

 探索者協会渋谷支部。

 その支部長室にて独り、花ヶ崎刹羅がゆっくりとお茶を飲んでいた。例のイレギュラーの件に始まり、魔物の持ち帰りや魅せる者アトラクティヴと勇仲の共同探索、そして30階層突破という快挙。本来であれば喜ばしい出来事である筈なのに、あまりにも短期間で起こってしまったそれらの事件は、事後処理にあたった花ヶ崎の体力をガリガリと削り取っていた。


 そんな彼女にとって、今日は久しぶりに訪れた小康しょうこうだった。何かしらの事件が起きたというような報告もなく、探索者達の活動も、多少の人数は増えているものの普段通りだった。今何かと話題の魅せる者アトラクティヴがどの支部にも姿を見せていない点や、要監視対象である異世界方面軍がここ数日配信を休んでいる点など、多少気がかりな部分はあるものの。概ね、落ち着いた一日だったと言っていいだろう。


「はぁ……漸く一息、といったところね」


 ひと目見ただけで高級なことが窺える、そんな革張りの椅子へとゆったり背中を預ける。お茶請けに用意していたどら焼きを一口齧り、口の中に広がる小豆特有の上品な甘みをじっくりと味わう。そうして熱い緑茶を口に含み、また椅子へと身体を預ける。激務を切り抜けたことを実感し、心地よい疲労感に身を任せる。そして甘味による癒やし。仕事終わりに独りで楽しむこの時間が、花ヶ崎は好きだった。


「あー……」


 時刻はもうじき21時を回る頃だ。後の事は夜間勤務の部下に任せて、今日は家に帰ろうかと彼女が考え始めた、丁度その時だった。支部長室の扉を静かに叩く音が、彼女の耳にじっとりと届いてきた。

 それは不思議な感覚であった。ノックの音など、軽快であるべきはずなのに。先程までの心地よい疲労感は何処へやら、ひどく粘ついた嫌な予感が彼女の脳裏を這いずり回る。


「支部長、南方なんぽうです」


 次いで扉の向こうから聞こえてきたのは、少しくぐもった部下の声。南方の言葉は普段通り簡潔なものであったが、その声色はどこか申し訳無さそうな、或いは、何か困っているかのような声だった。南方はここ渋谷支部の副支部長であり、優秀な職員の一人だ。大抵のことであれば彼の裁量で物事を進めてくれるし、余程のことが無ければ花ヶ崎まで裁可を仰ぎに来ることはない。無論、支部長である花ヶ崎にしか判断出来ない内容であればその限りではないが、基本的には報告のみである。


 そんな彼が、こんな時間に、困ったような声色で。

 嫌な予感が、徐々に確信へと変わってゆく。


「……何かしら?もう帰ろうと思っていたんだけど?」


「申し訳ありません。ですが、そうもいかないようです」


「はぁ……いいわ、入って頂戴」


「では、失礼します」


 南方がそう言うと、ゆっくりと支部長室の扉が開かれる。本音を言えば、花ヶ崎はもう彼に全てを任せて帰りたかった。とはいえ彼の言葉通り、そうもいかないのが支部長という立場である。


「お休みのところ申し訳ございません」


「前置きは結構よ。何があったのかしら?」


「は。それが、探索者が修練場の使用許可を求めておりまして」


 その言葉を聞いた時、花ヶ崎は呆気にとられた。目をぱちくりとさせながら、不思議そうな表情で南方の顔を見つめる。


「……?それがどうかしたの?許可すればいいでしょう?そんなこと別に珍しくも何とも───」


 そこまで口にして、しかし花ヶ崎は言葉を切った。南方の言葉通りに捉えるならば、彼の用件はひどくありふれたどうでもいい内容だった。花ヶ崎は考える。優秀な部下である彼が、このような下らない理由でわざわざ自分の部屋まで来るだろうか、否、そんな筈はない、と。それと同時に、彼女の脳内にはとある探索者チームの名前が浮かび上がっていた。つい先日も大暴れしてくれた、例の『彼女達』のことだ。


「……どこの探索者かしら?」


 頭の中に鳴り響く警鐘に従って、恐る恐る尋ねてみる。すると意外にも、南方の口から告げられたのは全く別の名前であった。


魅せる者アトラクティヴです。内密に利用したい為、人払いをして欲しい、と」


 成程。南方がわざわざ部屋まで来るわけだ。注目度の高い彼らのことだ、日常訓練を行うのにも人目を気にしなければならないのだろう。とはいえ、それだけならば南方の裁量で十分に対応出来る範囲の話である。つまり彼は裁可を仰ぎに来たというよりも、事前報告にやって来た、といったところだろう。なにはともあれ、例のトラブルメイカー三人娘ではなかったことに花ヶ崎はほっと安堵の表情を浮かべた。


 世界的に注目度の高い彼らといえど、所詮はいち探索者に過ぎない。本来であれば断ってしまっても問題のない話だった。だが現在は既に夜間帯であり、支部内に残っている探索者の数も疎らとなっている筈だ。多少の特別扱いは問題ないだろう。小さな貸しを作れると思えば悪くない。


「許可するわ。多少の便宜は図っておいたほうが色々と得だもの」


「承知しました。では、そのように……あぁ、それと」


「何?まだ何かあるの?そろそろ帰りたいんだけど───」


 ふと、花ヶ崎は思い出す。

 南方がここに来た時、彼は何と言っていただろうか。そうだ、帰ろうとしていた自分に向かって、彼はこういった筈だ。


 ───そうもいかないようです


 ああ、そうだ。確かにそう言っていた。

 今彼が話した内容だけならば、自分が帰ることには何ら問題が無い筈なのに。そんな考えへと花ヶ崎がたどり着くと同時、南方の口からその名前は告げられた。


「異世界方面軍も一緒です」


「じゃあやっぱり帰れないじゃない!!」




 * * *




 人払いの済んだ修練場、その中央にて、一組の男女が向かい合って立っていた。

 一人は赤みがかった金髪の、誰もがその名を知るヤンキー女。それに対するは、誰もが知らない童顔の仏頂面男。


「アンタ、得物は要らねェのか?」


「俺の得物はこいつだ」


 問いかけたレベッカに向かって、ウーヴェが軽く上げた右拳を突きつける。拳聖にとっては己の全てが武器であり、己の全てが防具である。鍛え抜かれたその拳は岩をも砕き、磨き抜かれたその体捌きは、生半可な技術では捉えることも出来ない。しかしウーヴェの正体などまるで知らないレベッカにすれば、それは戦いを舐めているようにも感じられた。格闘家を貶める訳では無いが、それでも、武器を持った相手と戦うにはやはり不利な面が多いからだ。


 剣道三倍段などという言葉もあるように、剣を持った相手と素手で戦うのはそれほど難しい、ということだ。ちなみに、この『剣道三倍段』という言葉は現在、本来の意味とは少し変わっている。

 元々は『剣術三倍段』であり、意味合いとしては『剣』で『槍や薙刀のような長物』と戦うのには三倍の技量が必要だ、といったところである。要するにリーチの優位性についての話であり、一般的に知られているような『剣』と『無手』が戦った際の『剣の優位性』を語っている言葉ではないということだ。閑話休題。


「ふゥん……じゃあアタシも素手でやるか。勝負の条件は互角じゃねェと、やっぱつまんねェしな」


 レベッカは戦闘狂ではあるが、それは別に勝ち負けに拘っているという訳ではない。彼女は純粋な力比べが好きなのであって、相手よりも有利な状況で勝つことに喜びを覚えたりはしないのだ。故に、彼女にとってこの提案は当然のことだった。相手を舐めているわけではなく、ただ条件を合わせただけに過ぎない。

 しかしそれは、やはり心の何処かで素手を下に見ている証明だろう。この世界に生きてきた彼女は知らないのだ。行き着くところまで行き着いた格闘術は、決して武器を持った相手にも劣らないということを。


「ベッキー。後悔したくないのなら剣を取りなさいな。貴女の全力で、持てる全てを出して戦うことをおすすめしますわ」


「おぉん?……姫様がそこまで言うってことは、そこの兄さんはそんだけ強ェってことか?つってもなァ……」


 レベッカが舐め回すように、頭の天辺から足の先までウーヴェを観察する。身長はそれほど高くない。恐らくは165~170cmと言ったところだろう。対するレベッカは女性にしては身長が高めで、かつ手にした大剣は刃渡りだけで1m近くある。そこにウーヴェが素手ということも加味すれば、誰がどう見てもリーチ面でレベッカが有利だった。


「ベッキーはわたくしの配信を全て見た、と言っていましたわね?」


「おうよ。最新のまでちゃぁんと見たぜ」


「ならば、私の言葉を覚えていまして?私の世界には『六聖』と呼ばれる存在がいた、と」


「あァ、覚えてるぜ。姫さんみてェのがあと五人居るんだろ?堪んねェ、いつか会ってみてェよなァ」


 レベッカはアーデルハイトが異世界出身だということを疑っていない。というよりも、魅せる者アトラクティヴは皆そうだ。ウィリアムやレナードでさえも信じている。そう判断した理由はいくつもあるが、そもそもレベッカにとってはそんなことはどうでもいい、ごくごく些末なことに過ぎなかった。故に彼女は言う。いつかは六聖全員と手合わせしてみたい、と。


は、そのうちの一人ですわよ」


 そう言ってアーデルハイトが指差す先には、むっつりとした表情で腕を組み、いいからさっさと始めろと言わんばかりに首を鳴らすウーヴェの姿があった。


「……あん?」


「拳聖・ウーヴェ。かつてわたくしと戦い、わたくしにボコボコにされた男ですわ」


 それを聞いたレベッカはたっぷり数秒は呆けた。


「……確かに負けたが、そこまでじゃなかっただろう」


「聞こえませんわー!!歴史を語るのは勝者の特権でしてよー!!」


「……次は負けん」


 アーデルハイトとウーヴェはただ一度顔を合わせ、剣と拳を交えただけの関係だ。仲など別段良くもなく、ほとんどただの顔見知り程度である。にも関わらず、アーデルハイトはウーヴェを煽り倒していた。

 そんなやり取りを他所に、レベッカは静かに戦意を滾らせていた。もともと日本に来たのはアーデルハイトと会い、話を聞き、あわよくば手合わせをするためだった。


 彼女に勝てる探索者など、世界中を探してもそう居ない。『刺客を倒せ』などと言われた時は無駄な作業が増えたと内心で思ったものだが、しかし、今彼女は歓喜していた。立ち塞がるのは望外の強敵。強い相手と戦うことを望んでこの国に来た彼女からすれば、謂わば棚からぼたもち状態であった。


「ククッ……いやいや、日本に来てよかったなァ……兄貴もそう思うだろ?」


「ああ。お前が楽しそうで何よりだ」


「俺は胃が痛いがね」


 ウィリアムとレナードの二人にとって、レベッカの『悪癖』はいつものことだった。強者と見ればすぐに手合わせをしたがる、チームのエース兼トラブルメイカー。勝とうが負けようが、自分が楽しければそれで満足。それがレベッカの本質だ。


「んじゃァ、異世界の六聖とやらの力。じっくり見せてもらおうかね」


 獰猛な笑みを浮かべながら、彼女は一度置いた大剣を再び手に取った。

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