第74話 断章・黒

「……成程」


 周囲を見回せば、そこは見たことも聞いたこともないような世界であった。聞いていた話とは随分と違うその様子に、しかし男は少しも動揺することはなかった。

 男は『腹黒』との会話を思い返す。


 ───修行にうってつけの場所があるんですけど、興味はありませんか?


 ───どんな場所なのか、詳しくは私も知らないんですけれど。


 ───ただ、過酷な環境だとは聞いています。


『腹黒』の言葉を全て信じた訳ではなかった。そもそも『自分は知らない』だの、『そう聞いている』だのと、根拠がまるでない話だ。それでも話に乗ったのは、偏に強くなるため。ただそれだけであった。『六聖』の一人に数えられて尚、力への渇望は収まらなかった。自分はまだ強くなれる、と。


 国から国へ、街から街へ。強力な魔物の噂を聞きつければ直ぐに向かい、凄腕の戦士が現れたと聞けば、相手が誰であろうと戦いを挑み。ただ力のみを求めて、己の拳一つで世界中を旅して回った。


 そして、負けた。

 完膚なきまでに負けたのだ。自分よりも年下の少女に。磨き上げられた技術と、その細腕の何処から捻り出しているのか、と聞きたくなるほどの力。砕いても砕いても、何度でも蘇る聖剣と魔剣。男の拳も届いてはいたが、しかし先に首元へ刃を突きつけられたのは男の方であった。


 故に、男は自らを鍛え直すために再び旅に出た。技を鍛え、身体を鍛え、再び少女に戦いを挑む為に。そうして二年ほどが経った頃、自分を負かしたあの少女が行方不明になったと聞いた。

 どうやら少女は、勇者とやらのお守りをしていたらしい。彼女の任務は勇者一行を魔族領へと送り届けること。魔族領との境界付近には強力な魔物も多く現れ、確かに危険な任務ではある。だが、少女の実力を考えればそう大した任務でもない。少なくとも、少女が魔物や魔族に負けるなどとは考え難かった。


 とはいえ、戦いに絶対はない。

 若さからくる油断か、それとも不慮の事態でも起きたのか。何れにせよ、男は再戦の機会を失ったのだ。故に男は魔族領へと向かった。自分を負かしたあの少女、そしてそんな少女を負かした何かが潜んでいると思われる、その場所へと。


 敵討ちなどという高尚な目的ではない。自らの中に唯一残る敗北の記憶に、ただケリをつけたかったのだ。そもそも男と少女は友誼を結んでいた訳ではないし、特別な感情など何もなく、ただ一度手合わせしただけの関係性でしかない。二人の関係性を言葉にするなら、それはただの勝者と敗者に過ぎなかった。


 そうして魔族領へと向かう途中、しばし立ち寄った教国で、男は『腹黒』と出会ったのだ。勇者とやらと共に旅に出ていたと耳にしていたが、どうやら一時帰国していたらしい。そうして女を一目見て、男は全てを理解した。コレが元凶か、と。

 周囲を振り向かせる愛らしいその容姿も、顔に貼り付けた笑みも、媚びを売るようなその声も。その女は全てが嘘に塗れていた。


 何故男には、目の前の女が『腹黒』であると分かったのか。それは男が生まれ持った、ある能力のお陰だった。

 通常の修道僧モンクであれば、長きにわたる修行の果てに、魔力の流れをその眼で見ることが出来ると言われている。そうして敵の動きを予測し、たとえ長物が相手であってもリーチの不利を覆すことが出来るのだ。


 しかし男は違った。男は生まれながらにして、人の感情や力の流れを『色』として見ることが出来たのだ。故に、男は動きの『起こり』を捉え、常に相手の先手を打つことが出来る。修道僧が修行の果てに漸く手に入れる力、その上位互換とも言える能力を、男は生まれながらにして持っていた。それこそが『劫眼』と呼ばれる、魔眼の一種であった。そんなチート能力を以てしても、例の少女には勝てなかったのだが。


 そんな男の眼に映る女は、頭の天辺から足の先まで、それはもう真っ黒だった。


 だが、そんなことは男にとってはどうでもよかった。仮にこの『腹黒』が元凶だったとして、それが自分に何の関係があるというのだろうか。ただ強くなれさえすればいいと考えていた男にとって、目の前の女の精神性になど欠片も興味がなかった。


 そうして『腹黒』から伝えられたのが、『修行にうってつけの場所』についての話であった。怪しすぎるその言葉にほんの数秒悩んだ後、男は首を縦に振った。そもそも、この女が自分の命を狙う理由などまるで思いつかない。仮に何らかの理由で命を狙っていたとしても、果たしてこのような回りくどい手を使うだろうか。


 もとより強い相手を探して旅をしていたのだ。魔族領へ向かっていたのも、謂わばその延長線上の話に過ぎない。刺客も罠も、望むところであった。


 そうして『腹黒』の指示に従い、怪しげな『聖痕』なるものを受け入れ、気がつけば雑踏の中に立っていた。あちらとは似ても似つかぬこの世界は、果たして一体どんな場所なのか。男にしては珍しく、少しだけ気分が高揚していた。

 ともあれ、目下の問題が一つ。


「ちょっとお兄さん?話聞いてますかね?」


「……」


「もしもーし?困ったなぁー……お名前だけでも教えてもらえません?」


「……ウーヴェだ」


「おっ、ありがとねー。ウーヴェさんは、普段何をされてるんですかね?」


「……人を殴るか、獣を蹴るかだな」


「えぇ……凶暴すぎでしょ……ちなみに、この国には何をしに?」


「……何を?ふ、分かりきったことを……」


 そういってウーヴェは姿勢を正し、真正面から警官を見据えてこう答えた。


「俺より強い奴に、会いに来た」


 拳聖ウーヴェ。

 彼はまぁまぁ馬鹿であった。

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