第65話 断章・白
雲の隙間から月が見え隠れし、仄かな月明かりが部屋へと差し込む。
真っ白な壁と、円形の窓。嵌め込まれたガラスは透明で、窓枠の装飾を見れば、それが凄まじく高価なものだと分かる。そんな巨大な建物の最上階にある一室で、一人の女が顎に手を当て、唇を尖らせていた。
「んー……何か妙ですねぇ……?」
その巨大な建物は、外壁から門、塀、天井、廊下、ありとあらゆる全てが純白だった。否、その建物だけではない。広がる街は一般家屋から店舗、果ては街路に至るまで、その全てが真っ白で。まるで街全体が『白』に飲み込まれたかのような。そんな街だった。
街全体の広さは、周辺国の中では抜きん出た勢力を持つ二大国家、帝国や王国の首都と同じくらいだろうか。作りも基本的には帝都や王都と同じだった。王の住まう城を中心に、円形に広がる広大な街。それが帝都であり王都だ。異なる点があるとすれば、街全体が白一色に染め上げられていることと、そしてその中心にあるのが城ではなく大聖堂であるという点。そして、街そのものが一つの国家であるという事。
その街は、中心に聳え立つ白亜の大聖堂の為だけに作られた街だった。
「あれからもう一月程も経つというのに、一体これはどういうことでしょうかねぇ?」
女が小首を傾げる。
月明かりに照らされたその表情は、しかし目元が影になっていて判然としなかった。それでも口元を見れば、女が酷く美しい容姿をしていであろうことは想像に難くない。瑞々しくぷっくりとした愛嬌のある唇。それでいて艷やかで、何処か相手を誘うかのように蠱惑的な唇。可愛らしさと妖艶さ。本来同居することのない、相反する二つの色を持った唇。
そんな唇から独りでに紡がれるのは、やはり先程までと変わらぬ疑問であった。
「もしかすると、一年前の分もまだなのでしょうか?私が気づかない程に少量だった訳ではなく、そもそも……?だとすると、これは……」
女がほんの少しだけ考え込む。
時間にすれば数秒程度。そんな僅かな思考の後に、女は尖らせていた唇をギリ、と噛みしめる。口の端からは朱が滴り、纏う純白の衣服に痕を残した。
「いえ、そんな筈はありませんよねぇ……?だって、『あちら』は随分と過酷な環境だと聞いていますし」
先程まで唇に添えていた人差し指は、いつの間にか親指に代わっていた。綺麗に整った女の、真っ白な歯が剥き出しになる。恐らくは美しい顔立ちであろう彼女には到底似合わない、鋭く尖った犬歯がぎりぎりと音を立てながら親指の爪を削ってゆく。
どうやら随分と深く唇を噛んでいたらしい。犬歯は血に濡れ、それはまるで悪魔か、或いは吸血鬼のようであった。
「───に謀られた?いいえ、そんなことをする理由がありませんよねぇ?そもそも、私にそう命じたのは───」
ぶつぶつと、まるで自問するかのように独り呟き続ける女。普段の彼女からは想像も出来ない、酷く鬱屈した、黒くて暗い感情がその顔に表れていた。
「なら……」
ぱきり、という不快な音と共に、彼女の爪の先が砕け散る。その瞬間、雲間から抜けた大きな月が彼女の顔を明るく照らす。深い憎悪と憤怒、そして醜悪な笑みを綯い交ぜにしたかのような、極大の怨嗟が顔に貼り付けていた。元の造形が整っているが故に、酷く歪んだその表情は余計に際立っていた。
「もしかして、まだ生きているんですかねぇ……アーデルハイトさんッ!!」
女はベッドから立ち上がり、部屋の隅にある化粧台へと歩み寄る。そうして化粧台の隣に設置された大きな姿見の前に立ち、苛立ちを露わに自らの拳を叩きつけた。一見非力そうな彼女だが、しかし鏡は当然のように砕け、真っ白な床へと散らばってしまう。傷つき血を流す右手を気にもとめず、女はその破片の一つを鋭い眼差しで睨みつける。
「どうしてでしょうか……おかしいですよねぇ?
鏡の破片を素足で踏みつけ、踏みにじり、己の血で汚しながらも粉々になるまですり潰す。
「満身創痍の状態で『あちら』の環境に適応したと、そういうことですかぁ……?分かりました、いいでしょう。相手はあのアーデルハイトさんです。認めたくはありませんが、あの化物であれば、もしかするとそういうこともあるのかも知れません。ですが、それならあの侍女は?こっちは説明がつきませんよねぇ?」
まるで夢遊病のようにふらふらと、血まみれの足で窓際の方へと歩く女。そうしてゆっくりと窓を開いた。
「あぁ腹立たしい。クソ女が。どうしてあの人は、いつもいつも私の邪魔をするんでしょうかねぇ……?大人しく死ねよ……おっと、これではいけませんね」
窓から夜空を見上げ、怨嗟の声を撒き散らし、そうして突如、その怒りに満ちた態度を一変させる。先程までの醜悪な表情は既になく、けろりとした明るい顔に変わっていた。むしろ薄っすらと微笑んですら居る始末。そんな異常な光景を目にしていた者など誰も居らず、一体どちらが彼女の本性なのかは誰にも分からない。
「……まぁ、良いでしょう。つい先日送った『あの人』がどうなるのか、それで答えが分かるというものです。どの道もうこちらには居ない人達ですし、焦る必要もありませんよね」
窓際に置かれた椅子に腰掛け、機嫌が良さそうに足をパタパタと揺らす。冷えた夜の風が、彼女の頬をそっと撫でる。
「とはいえ、アーデルハイトさんの分は流石に惜しいですねぇ……まだ『あちら』で生きていると仮定して、すこし手を加えることにしましょうか。適当に何体か見繕って、『あちら』に送り込んでみましょう。私の杞憂ならばそれでよし、もし本当に生きていたのなら……ふふ、喜んで頂けるでしょうか?」
独り言にしては大きな声でそう呟き、女は部屋を後にする。
散らばっていた筈の鏡の破片は既に無く、化粧台の横には割れる前の姿見が設置されている。去ってゆく女の手足には、血痕も、傷さえも残っていなかった。
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