第10話 拳骨
「何処の誰かは知らないけど、助かった!ありが────」
突如目の前に現れたジャージ姿。その背中に礼を言おうとした男の言葉は、しかし最後まで続かなかった。アーデルハイトが振り向くことも無く、ただ何も言わずに手を差し出していたからだ。
別に男は体勢を崩して倒れていたという訳では無い。絶体絶命であったことは間違いないが、それでもまだ確りと両の脚で立っている。
つまりその手は、倒れてる人間を引き起こそうとしている訳では無い。では一体何の手なのだろうか。男はアーデルハイトの意図が分からずに居た。
「・・・?」
「剣」
「えっ」
「剣を貸して欲しいと言っているんですの」
その言葉に、男がアーデルハイトのほっそりとした玉手をよく見れば、そこには粉々に砕け散った木片が乗せられていた。危機に瀕していた男の気が動転し冷静でなかったこともそうだが、なによりも先のアーデルハイトの攻撃があまりにも早く、そして鋭かったが故に、男には何が起こったのかが理解っていなかったのだ。
「え、剣?」
「お借りしますわ」
時間にすればほんの数秒の逡巡だったが、アーデルハイトにとっては十分に長過ぎる時間だった。戦場に於いては理解よりも行動が優先される場合が多々存在する。業を煮やしたという訳でもないだろうが、男の手からアーデルハイトが剣を引っ手繰った。
『奪ったw』
『山賊かな?』
『それよりもさっきの動きは何なんですかねぇ』
『もうほぼ飛んでたよな』
『遂にアデ公がちゃんとした武器を・・・』
『待ってたぜぇ!この瞬間をよぉ!!』
『ここからわらしべ的に持ち替えていこう』
『他人の剣でわらしべは草』
飛び出していったアーデルハイトに遅れること少し、漸く配信用カメラが彼女に追いついた。コメント欄は、アーデルハイトが漸く武器らしい武器を手にしたことに歓喜の声を上げていた。
一方の
「わたくしの戦友をこんな姿にしたツケは払って貰いますわよ」
『なんだろう、凄いジャイアニズムを感じる』
『壊したのは自分では・・・?』
『八つ当たりでは・・・?』
『元からあの強そうな剣を使っていればこんなことには』
『木の棒は犠牲となったのだ』
「う、うるさいですわッ!」
コメント欄を飛び交うツッコミ。それを誤魔化すようにアーデルハイトが前に出る。その姿は先程までと同様、まるで緊張した様子もなくリラックスした自然体であった。右手に握った借り物の長剣を、握り心地を確かめるかのように手中で弄びながら歩を進める。
対するは何時でも飛び出せるよう体勢を低く構えた魔狼。そうして彼我の距離が15mを切ったころ、アーデルハイトが思い出したかのように話し始める。
「そうそう、簡単な倒し方でしたわね。アレに限らず、大抵の四足の魔物には共通する弱点がありますわ」
『余裕やなぁ』
『ゴーレムもそうだったけど、見てるこっちの方が緊張する』
『カメラ越しでも普通に怖いんやけど』
『王者の余裕』
『令嬢の余裕』
『お散歩フェイズとの緊張感の落差がさぁ』
ワーグを見たことがある者が居たように、視聴者達は当然、アーデルハイトの配信以外も見たことがある。にも関わらず、これほどまでに不安な気持ちにさせられる原因は、偏にアーデルハイトのその余裕の所為だった。
彼等が普段見ている配信では、パーティーを組んだ探索者達が装備を整え、何時相手が襲いかかってきても対応出来るように武器を構えて魔物と対峙している。故に彼等は安心して配信を観ることが出来る。
だがアーデルハイトは違う。
ただ一人、慣れ親しんだ自らの武器ではなく借り物の剣を握り、防具も着けず、警戒した様子も見せず、ただ無造作に歩いているようにしか見えない。如何に彼女が木の棒でゴーレムを叩き伏せる瞬間を見ているといっても、だからといって到底慣れるような光景ではなかった。
「彼等は押し並べて嗅覚に優れていますわ。人間と比べれば数千、数万倍ともいわれる彼等の嗅覚。つまりそれだけ神経が鼻先に集まっているということですわ。後は、言わずとも理解りますわよね?」
『うん、いやまぁそうかもしれんが』
『それが出来れば苦労しないわけで』
『ああ、だからさっきは鼻殴ったのか』
『結果、無惨にも砕け散る戦友くん』
『ん?この剣が戦友くんと同じ末路を辿らない保証は無いのでは?』
『たし蟹』
ワーグとの距離が10mを切る。
その一歩をアーデルハイトが踏み出した瞬間だった。痺れを切らしたのか、それとも彼女の放つ異様な雰囲気に呑まれたのか。ワーグが牙を向いてアーデルハイトへと躍りかかった。
時間にすれば1秒かそこら。地を駆けるなどということすら必要無く、ただほんの一足でワーグの牙はアーデルハイトの鼻先まで迫っていた。その大きな口と鋭い牙、強靱な顎。一度噛みつかれでもしようものならば、アーデルハイトの柔肌など無惨にも切り裂かれてしまうだろう。ましてやアーデルハイトは防具を装備していないのだ。
犬や猫などを見れば理解るが、四足の獣というのは凄まじい瞬発力を持っているものが多い。ただの犬猫でさえそうなのだ。魔物としても上位の存在であるワーグの飛びかかりの速度たるや、その比ではなかった。ワーグのあまりの速さに、視ていた者達のコメントすら追いつかない。視聴者達も、アーデルハイトの背後で戦いを見守っていた探索者も、アーデルハイトが無惨な姿になる光景を幻視した。
しかし、そうはならない。
ゴブリンを蹴り殺して見せた。ゴーレムを木の棒で両断して見せた。しかし、それでも。この期に及んでもまだ、誰一人としてアーデルハイトの実力を推し量る事が出来て居なかった。
眼にも止まらぬ速さで振り抜かれたのはアーデルハイトの左拳。右下方から打ち上げられるように、その甲がワーグの鼻面を撃ち抜いた。要するに裏拳である。
大人三人分ほども有りそうなワーグの巨体はいとも簡単に舞い上がり、背中から地に落ちる。
先の木の棒による一撃などよりも、余程重い攻撃によって、猛烈な痛みと共に、瞬間的に麻痺したワーグの嗅覚。とはいえ、流石に仕留めるには至らなかった。
チカチカと明滅する視界に耐え、唸り声を上げながらもどうにか起き上がったワーグ。しかしその瞳に映っていたのは、既に腕を振り下ろし始めていたアーデルハイトの姿であった。
使い慣れない借り物の剣とはいえ、あとは首を刎ねるだけの簡単な作業だ。例えワーグの体毛や体皮が強靱なものだとしても、アーデルハイトの袈裟斬りに耐えられる筈もない。
しかし、そこでアーデルハイトの脳裏には先程のコメントが過ぎった。
────この剣が戦友くんと同じ末路を辿らない保証は無いのでは?
アーデルハイトは瞬時に手首を内側に巻き込み、刃で切るのでは無く、剣の柄を握っている手の部分で思い切りワーグを殴りつけた。視聴者にも、背後の探索者の元までも、鈍く重い、骨の折れる音が聞こえた。無論アーデルハイトの手から上がった音ではなく、ワーグの頚椎がへし折れた音だった。
そこでようやく、視聴者達のコメントが追いついた。それが、今の攻防に費やされた時間の短さを物語っていた。
『え』
『はや』
『やば』
『武器くらい構えろw』
『あ』
「───とまぁ、こんな感じですわね」
『は?』
『うぉおおおおお!!』
『っしゃあああああ!』
『米が追いつかんw』
『コメ打ってる間に終わってた』
『すっげぇ音したぞオイ』
『アデ公最強!!』
『剣使えって!』
『恐ろしく早い拳骨、俺じゃなきゃ見逃しちゃうね』
『もうこれ剣聖じゃなくて拳聖じゃんね』
「誰が拳聖ですの!?あなた方が『剣が壊れる』なんて言うからではありませんの!!」
『一応気にしてたんだなw』
『だからって普通あの体勢から切り替えられるもんかね?』
『結局剣技は見られないんだよなぁ』
『これが異世界乳空手スタイル』
『いや実際、ちょっと強すぎない?』
『かなり強すぎる定期』
『信じられないだろ?初配信なんだぜ、これ』
先程の緊張感は何処へやら。大いに沸き立つコメント欄に、アーデルハイトも満更ではない様子だった。
殆どの視聴者は、先程の攻防を事細かに認識出来ては居なかった。しかし結果は一目瞭然、アーデルハイトは無傷で、ワーグは即死。借り物の剣も無傷。文句のつけようもない勝利だった。倒したワーグの死体には一瞥もくれず、アーデルハイトは踵を返す。
「お返ししますわ。結局使いませんでしたけど」
「え、あ、う、うん!」
剣の持ち主の男性探索者は、自分達が苦戦していた相手をあっさりと倒してしまったアーデルハイトの姿に、すっかり目を丸くしていた。何やら呆けた様子で、自らの手に戻った剣をじっと見つめている。
そんな男を放置し、アーデルハイトはもう一人の女性探索者の元へと向かう。彼女は負傷した味方の手当を行っていた。戦況を見極めなければならない後衛担当ということもあってか、どうやら彼女の方が判断力が優れているようである。
「生きてますの?」
「え?あ、うん。直ぐに戻って手当すれば大丈夫」
負傷した二人の探索者は、どうやらアーデルハイトが戦っている内に意識を失ったようで、苦しそうに顔を歪めながら荒く呼吸を繰り返していた。
「それよりも、助けてくれてありがとう!正直、もう駄目かと思ってた。このへんじゃ見覚えのない顔だけど、強いんだね」
「お安い御用ですわ。あの程度の犬コロに負けるような鍛え方はしていませんもの」
「あはは・・・犬コロかぁ」
どこかショックを受けたような女性探索者であったが、アーデルハイトはそんな彼女の様子に気づくことはなかった。アーデルハイトにとっては容易い相手であったのだろうが、そんな相手に苦戦を強いられた彼女達の立場を考えれば、彼女の苦笑いも、さもありなんといったところだろう。
と、そこでコメント欄が
『ていうか砂猫の
『ほんまや』
『じゃあさっきのは
『顔見切れまくってて気づかんかったわw』
『有名配信者やんけ!!』
『そういやここ京都か』
『いえーい!砂猫の視聴者みてるー??』
アーデルハイトがそれに気づき、コメント欄へと目を向ける。視聴者達の話を見た限り、どうやら彼女達は界隈では名の知れた配信者であるらしい。もしもそれが本当のことならば、ダンジョン内で初めて遭遇した人間が同業者、それもアーデルハイトにとっては先輩ということになる。
「あら?貴女方も配信者ですの?」
「あ、うん、そうだよ。ホラ、カメラも───あれ?ってことはキミも?」
「そうですわ!初配信中でしてよ!!」
「あ、道理で見覚え無い顔───え、初配信・・・ってことは新人!?あれで!?」
「あら?何か問題でもありまして?」
「あぁ、いや、ゴメン!そういう意味じゃなくて───」
無論茉日はケチをつけようとしたわけではない。新人どころか、上級者だとしても強すぎると、そう言いたかっただけである。しかしアーデルハイトには微妙に意図が伝わらなかったようで、茉日は慌てた様子で手をパタパタと振っている。
あちらの世界では知らぬものなど居ないとすら言える、そんな実力の持ち主であるアーデルハイトだ。『流石』と言われることはあっても、その腕前を『意外』だと驚かれるような経験は久しく無かった。故に、茉日の言葉の真意を図ることが出来なかったのだ。
『まぁそうよな』
『至って正常な反応』
『お前のような新人がいるか(今季二度目』
『ゴブリンから数えると三回目なんだよなぁ』
『俺は分かってたよ。アデ公が新人だってことはね』
『皆知ってんだよ!!信じられんだけでな!!』
そんな茉日の気持ちを代弁するようなコメント欄を見て、アーデルハイトは漸く彼女の言いたかった事を察した。しかし別に気分を害していたというわけでもないアーデルハイトは、殊更に実力を誇示するでもなく、たださらりと流してしまうだけだった。
「ああ、そういう・・・ところで、直ぐに連れ戻らなくては行けないのではなくて?」
「・・・そうだった!そろそろ余裕ないかも!界人!急いで戻るよ!!」
「オッケー!荷物はもう纏めてある!」
その声にアーデルハイトが目を向けてみれば、いつの間にか近くへとやって来ていた界人と呼ばれた探索者が、大きな荷物を肩に担ぎ、もう一人の負傷した男性探索者を背負おうとしているところだった。
そして茉日もまた、大急ぎで負傷した二人の内、女性探索者の方を背におぶっている。そんな界人と茉日の姿は、だれがどう考えても戦えるようなものではない。帰路とはいえ、魔物が居ないなどという事はない。アーデルハイトがここへやってくる途中、徐々に魔物の姿が増え初めていた事を考えれば、既に帰路には相当数の魔物が湧いているだろう。ゴブリンやコボルト等、出現するのは大した魔物ではないが、しかし今のこの二人の様子を見れば───。
アーデルハイトがそう思案していたとき、茉日から一つ『依頼』を受けてくれないかと頼まれた。
「助けてもらっておいて、こんな事を頼むのは心苦しいんだけど・・・」
「まぁ、なんとなく想像は出来ますわね」
「あはは・・・地上まで護衛、頼めないかなぁ?勿論お礼は弾むからさ!」
茉日から聞かされた『依頼』は、アーデルハイトの予想通りのものであった。
アーデルハイトとしては、当初の予定であった10階層までは来ることが出来ていた為、彼女の依頼を引き受けることは
「うーん・・・わたくしは助けて差し上げたいと思いますわ。皆さんはどう思いますの?」
『助けたりーや』
『もう十分撮れ高はあったしな』
『なんなら帰りも異世界サッカーで撮れ高あるやろ』
『十分楽しませてもらった』
『恩を売るチャンスやで!』
『見捨てるのも後味悪いやろうしなぁ』
素直に視聴者達へと意見を求めてみれば、概ね肯定的なものばかりであった。中には打算的な意見も見受けられたが、結果としては同じことだ。であるならば、アーデルハイトとしても否やは無かった。
「では、わたくしが責任を持って貴女方を地上までお送り致しますわ!そうと決まれば早速行きますわー!!」
その後、地上へと向かう帰路にて。
視聴者の予想通り、異世界サッカーは敢行された。現れるゴブリン達の頭を蹴り飛ばしてはずんずんと進んでゆくアーデルハイトの姿に、茉日と界人はただただ驚愕するばかりであった。
記念すべき初配信となった今日。結局、アーデルハイトが剣を振るうことは一度としてなかった。
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