第4話 変態
翌朝。
春先の温かな日差しの差し込む、十畳ほどの部屋。まだ少し肌寒い朝の空気が、小さく開けられた窓から流れ込む。
時刻は九時。
これが平日で、一般的な社会人であれば文句なしに遅刻が確定している時間だ。というよりも既に始業しているだろう。春眠暁を覚えず、などと言うが、それにしても遅い時間であった。
先に目を覚ましたのはクリスだった。
まだ眠気の残る瞼を擦りながら上体を起こしてみれば、そこは既にベッドの上ではなかった。横へと目を向ければ、掛け布団とクリスを蹴り飛ばしたアーデルハイトが、我が物顔でベッドを占領している。どうりで身体の節々が痛い訳である。
軋む身体をゆっくりと起こし、アーデルハイトに布団を掛け直す。
彼女が良いところのお嬢様だとは誰も想像出来ないような、そんな酷い体勢で眠っているというのにやたらと凛々しく、寝ぼけ眼も一瞬で覚めるような、そんな寝顔であった。
目の保養、というわけでもないだろうに、そんなアーデルハイトを少しの間眺めたクリスは、顔を洗うために洗面所へと向かう。洗顔を終え、ぱっちり目を覚ましたクリスは、続いて朝食の準備を始めた。
それほど広くも無く、それほど立派なものでもないが、しかし確りと備えられているキッチンで、クリスは簡単な調理を行う。昨晩はアーデルハイトと遭遇したこともあり、いつも仕事帰りに寄っているスーパーへは行けなかった。故に彼女は、トースターに食パンをセットし、冷蔵庫に残っていたソーセージとベーコンを焼き、その後に目玉焼きを作った。
本当であればアーデルハイトに、こちらの世界のもっと確りとした朝食を振る舞いたかったが、無いものは仕方がない。そもそも、朝から凝った料理をする者など、それほど多くはない。これもある意味一般的な朝食と言えるだろう。
「んぁ」
そうこうしている間に、寝坊助なお嬢様が目を覚ます。朝食の匂いに釣られたのか、或いは、調理の音で起きたのか。先程のクリスと同じように、瞼をごしごしと擦りながら、焦点の定まらない瞳でクリスを見つめていた。
「おはようございます、お嬢様。ほら、そっちで顔を洗ってきて下さい。朝食にしましょう」
クリスに言われるがまま、アーデルハイトが覚束ない足取りで洗面所へと向かう。洗面所からは、何やら鈍い打撃音とアーデルハイトの苦悶の声が聞こえてきたが、クリスは気にしないことにした。
こうして、アーデルハイトの異世界生活二日目が幕を開けたのだった。
* * *
「さて、お嬢様。昨日話した通り、本日は配信に必要な物を揃えに行きます」
「はむはむ……このパン、柔らかくてふわふわで、とても美味しいですわね……え?」
「え?ではありません。買い出しに行きますよ、と申し上げました」
「はむはむ……この肉詰めも皮がパリっと、中はジューシーですわ……え?」
「殴りますよ?」
アーデルハイトは朝食に夢中であった。
クリス行きつけのスーパーで購入したただの特売品なのだが、どうやらお気に召したらしい。箸など勿論使えないアーデルハイトは、ナイフとフォークを器用に操り、その小さな口で小動物のように咀嚼する。間違っても大口を開ける、などと言ったことはしないあたり、流石は公爵家令嬢と言ったところだろうか。
「冗談ですわ。必要なものを買いに行くのでしょう?わたくしはまだ、この世界の事をゴブリンの額ほども知りませんもの。全てクリスに任せますわ」
「まぁそうですよね。そこで、なんですけど。助っ人を呼ぼうかと思いまして」
「……助っ人ですの?」
「はい。私のヲタ友───趣味仲間なんですけど、唯一私が異世界出身であることを知っている、信用出来る人です」
「あら、貴女がそこまで人を信頼するなんて、随分珍しいですわね」
別段、クリスが疑り深い性格をしているというわけではないが、それでも、簡単に誰かに信を置くようなタイプでもない。彼女は基本的に、上っ面だけで人付き合いをするタイプだ。公爵家のメイド長や執事頭でさえも、だ。少なくともアーデルハイトは、クリスが信頼している存在など自分以外に見たことがなかった。
「こちらに来てまだ右も左も理解らない時、色々と助けてもらったんです。お嬢様の話も何度かしたことがありますので、助けになってくれるかと思います」
「何を喋ったのか気になりますわね……まぁそれは構いませんけど、一体その方に何をさせるつもりですの?」
「実はですね……彼女に助っ人をお願いする理由は二つあります。配信を始めるにあたって、色々と必要な機材があるんです。それを調達しなければならないんですけど、私よりも彼女の方が詳しい、というのが一つ」
「自分よりも詳しい者に助力を乞うのは当然ですわね」
「そして二つ目、実はこれが主な理由なんですけど……手が足りないんです」
「……?」
アーデルハイトがソーセージを齧りながら小首を傾げる。
「ダンジョン配信を始めるにあたって、私が企画、脚本、広報等のマネージメント全般を行うつもりです。勿論お嬢様は演者です。ですが、機材の調整や動画の編集等を担当出来る者が、現状足りないんです」
クリスの言っている事が、アーデルハイトには半分も理解出来ていなかった。しかし言葉のニュアンスで、必要不可欠な人材が不足している、ということは理解出来ていた。これから頑張って資金を稼いでいこう、などと決意した矢先、二人だけではどうにもならない壁に早速ぶちあたっていた。であるならば、アーデルハイトに否応などあるはずもない。
「つまり、我がアーデルハイト異世界方面軍に、新たなメンバーを加えよう、ということですわね?」
「滅茶苦茶ダサいのでその名前は止めて欲しいですけど、概ねその通りです」
「その方が協力してくれるのなら、わたくしに否やはありませんわ。クリスが信を置く方ならば、何の問題もないでしょうし」
「それなら良かったです。お嬢様も、きっと仲良くなれると思いますよ。それじゃあ早速連絡してみます」
クリスはそう言うと、早速スマホを叩き始めた。アーデルハイトにはクリスが一体何をしているのかまるで理解らなかったが、気にしても仕方がないので朝食へと戻ることにした。幸せそうにソーセージを頬張るジャージ姿の彼女は、魅力を失うどころか逆に輝いて見えるようだった。
それから一時間。
クリスがうんうんと唸りながら、アーデルハイトに着せる服を選び、アーデルハイトが自らの髪をくるくると巻いていた時だった。
クリスの部屋に、チャイムの音が鳴り響く。
びくり、とアーデルハイトが肩を強張らせ、何時でも動けるよう軽く腰を浮かせる。それは戦い続きだったこれまでの生活で染み付いた、習性のようなものだ。仮令眠っているときでも、彼女は物音一つで飛び起き、戦いに向かうことが出来る。
「いや敵じゃないですから!」
クリスが室内に備え付けられた応答用のスイッチを押すと、恐らくは女性のものであろう頭頂部が見切れて映っていた。どうやら先程話していた助っ人が到着したらしい。連絡してからここまで、随分と早い到着である。
クリスが玄関へ向かうのをぼうっと眺めつつ、アーデルハイトが髪のセットを続けていると、ゆっくりと歩く足音が聞こえてきた。玄関と部屋を隔てる扉が勢いよく開けられた時、茶髪で小柄な女性が、アーデルハイトを輝く瞳で見つめていた。
「お嬢様、彼女が先程話した───」
「エッッッッッッッッ!!やったあぁぁぁぁぁあ!!巨乳だああぁぁあありがとうございますゥゥゥ!!」
「うっさい!近所迷惑っ!!ほら
「あぁ……金髪縦ロール巨乳お嬢様……実在した……ありがたや……」
クリスの言葉などまるで聞こえていないのか、
「……なんですの?」
「あああああああ!!ですわ系ですわぁああありがとうございますゥゥゥ!声も高くて綺麗ィィ!!」
入室してからこちら、興奮しきりの彼女はついに床へと頭を叩きつけ始めた。そんな彼女の怪しい様子にアーデルハイトが徐々に警戒を強めてきた頃、いい加減にしろと言わんばかりにクリスが頭を引っ叩いた。
「叩き出されたくなかったら、五秒以内に自己紹介して」
「────ふぅ……つい興奮してしまったッス。
「え、ええ……よろしくお願いしますわ……」
余程叩き出されたくなかったのだろう。ほんの数秒の間に呼吸を整えた
アーデルハイトの返事を聞いた途端、ぴくりと反応して身体を動かすも、背後からのクリスの視線に縫い付けられ、どうにか興奮を抑える事に成功していた。
「貴女がわたくし達に協力して下さる方ですの?」
「はい。アーデルハイト公爵令嬢様に於かれましては───と、まぁ堅苦しいのは抜きでいいッスかね。初めまして、凛から話は良く聞いてるッスよ」
凄まじい後輩臭を感じる話し方だが、彼女は今年で二十四歳である。十九歳のアーデルハイトと二十一歳のクリス、この二人と比べれば、この中では最年長となる。
ともあれ、彼女はこれから共に力を合わせるパーティメンバーだ。アーデルハイトとしても、無駄に堅苦しいよりは砕けた態度の方が好ましい。そして語尾や態度よりも、アーデルハイトには気になることがあった。
「……凛?誰ですの?」
考えた所で理解りそうも無いので素直に訪ねてみれば、
「あ、私です。こっちでは
それを聞いたアーデルハイトは合点がいった。彼女のフルネームはクリスティーナ・リンデマン。故に来栖凛。安直と言えば安直だが、収まりは良い気がする。
クリスはアーデルハイトとは違い、こちらの世界でまず働く必要があった。しかし外国人という立場を取ると色々面倒だった為、彼女はしばらく前から偽名を名乗っている。
「あら、ではわたくしも偽名を名乗った方がいいんですの?」
「あ、それは大丈夫ッス。凛から大凡の話は聞いてるッスけど、これからのことを考えたらアーデルハイトさんは本名で行くほうが、キャラが立って良いッス」
「……キャラ?」
「まぁその辺の説明は追々するとして、先ずは今日の予定ッスよ」
そう言うと
「すぅーっ……はぁ……めっちゃ良い匂いするッス」
「いいから早く話を進めて下さい。この変態が」
「ああっ!」
クリスに押しのけられ、席を奪われた
「こほん。えー、改めまして……凛の友人の双海
「あら、経験者ですの?それは心強いですわね」
「といっても、ゲーム配信だし過疎だったッスけどね。で、アーデルハイトさんのことは何と呼べばいいんスか?普通にハイ───」
「
「え、あ、そうなんスか?じゃあ……お嬢でいいッスかね?ほら、なんかよくあるじゃないッスか。お姫様とか貴族の人をお嬢呼びするシブいおっさんキャラ」
ならばと
「それで構いませんわ。少し懐かしい感じもしますけど」
「え!?ってことは、もしかしてマジで居るんスか!?ちょ、詳しく───」
「えー……じゃあ本題に入るッス。といっても、そう大した話じゃないんスけどね。これから買い出しに行く訳なんスけど、今ウチらに必要なのものはダンジョン配信用の機材各種ッス。このへんはネットで注文出来るんで、全部任せて貰って大丈夫ッス。なので───」
「私達が直接買いに行く必要があるものは、お嬢様の衣服類というわけです。後は帰りに探索者登録をするくらいですかね」
アーデルハイトは、彼女たちの言っている内容が理解出来ないまでも、もっと多くの準備が必要なのだとなんとなく考えていた。
騎士団の遠征やあちらでのダンジョン探索ならば、入念な下調べと装備、消耗品類の買い出し等も含めれば結構な大仕事になるのだ。それがどうやら、聞いている限りでは必要な物は着替えだけのようで、アーデルハイトは『こちらの世界は随分と便利ですわね』などと他人事のように考えていた。
「というわけでお嬢様。先ずは身分証明を偽造するので、写真を一枚撮りますよ」
言うが早いか、クリスが手早く準備を整える。一体何が始まるのかと困惑するアーデルハイトを他所に、クリスと
「ヤバ……なんコレ?修正も加工も無しでコレは流石にヤバいッスよ」
「ふふ、うちのお嬢様にかかればこの程度、造作もありませんよ」
「これだけでも配信者としては相当な武器になるッスよ」
「
「ぶっちゃけボロいッス。こんなの適当にダンジョン散歩してるだけでも一定のファンは付くッスよ。お嬢の薄い本描いたら怒られるッスかね?」
「是非やりましょう」
こそこそと不穏な会話を繰り広げる二人。
置いてけぼりになって退屈なアーデルハイトは、『あら、おいしいですわ』等と言いながら、ぽりぽりと煎餅を齧っていた。
しばらくして、怪しげな談合が終わったのか、クリスと
「と、まぁ本日の予定は今話した通りなのですが」
「ウチらには、何をおいても決めなければならないことがあるッス」
「……なんですの?」
「目標です!」「目標ッス!」
声を揃えてそう宣言する二人へと、アーデルハイトは不思議そうな眼差しを向けた。
目標。
そんなもの、昨晩からクリスの話していた通り、金を稼ぐことではないのか。そのためにダンジョン配信なるものを始めるのではないのか。少なくともアーデルハイトはそうだと思っていたのだが、違うのだろうか。
「……資金集めではありませんの?」
「もちろんそうなんですけど、折角やるからにはやっぱり、お金以外にも目指すものが有ったほうが良いじゃないですか」
「ウチらはこれから一蓮托生ッス。意志の統一の為にも、モチベーション維持の為にも、目標は必要ッスよ?例えばお金が溜まったら。お嬢は何かやりたいこととか無いんスか?」
これまでは世界の平和を目指して剣を振るってきた。いつか魔王を倒し、安心して暮らせる世界をと願い、あの
しかし今は違う。
この世界にやって来た今、魔王など何処にも居ない。アーデルハイトは、人が生きてゆく以上争いが無くなることは無いと常々思っている。故に、恐らくこの世界にも争いはあるのだろう。しかしあちらの世界ほどは酷くないように思う。ならばきっと、自分はもう戦わなくても良いのだろう。
そう考えた時、アーデルハイトの脳裏には一つ、『やりたいこと』が浮かんでいた。時間にすればごく最近。聖女に突き落とされたあの日。
傷ついた身体を引きずりながら歩いた森の中で、死を覚悟したあの時。アーデルハイトの口をついて出た、唯一つの『やりたいこと』。
「……のんびりしたいですわね」
遠い目をして、アーデルハイトはそう言った。
「お嬢様……」
「いいじゃないッスか!ウチも最近もういいかなぁ、なんて思ってたとこッス!折角だからどっかの土地買って、家も建てて。そこで流行りのスローライフと行くッスよ!」
同情するようなクリスの瞳。
何も知らないが故か、それとも察していつつも敢えてなのか。元気よくアーデルハイトの要望に同意する
「ふふっ……それじゃあ」
「はい。異論は有りません」
「決定っスね!ウチらの目標は───」
未だ何者でもない、彼女たちの目指す先。
こうして、三人の目標は掲げられた。
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