第8章 悪人の加害者は自制心が劣っている
1
みふぎの嬢ちゃんの実家で会うことになった。
本当の実家はKRE会長が買ったかつての納家の山だが、そこの平屋を解体して
みふぎの嬢ちゃんの両親が住んでいた家なので、嬢ちゃんはそこを実家と認識している。
8月下旬。
あの忌まわしい事件から1ヶ月ほど経過した。
「好きにくつろいで下さい」そう言い残すと、嬢ちゃんはすべての戸と窓を開け放ちに行った。
ここは本当に誰も住んでいない家か?
長らく誰も住んでいない家の独特のカビ臭さがない。ホコリ溜まっておらず、ゴミも足の裏に張り付かない。場所柄KREが管理しているのだろうとは思うが。
「定期的に掃除してくれているお人好しがいるんです。それもロハで。お人好しでしょう?」嬢ちゃんはとても懐かしそうに、嬉しそうにはにかんだ。
それ以上何も言わなかったので、俺も特に深掘りはしなかった。
伸び放題荒れ放題の中庭が見える。
嬢ちゃんは縁側に脚を投げ出して座り、
俺は畳の上に胡坐をかいて座った。
暑い。
冷房が効果を発揮するのが待たれる。
「お返事を聞いていいですか」嬢ちゃんが言う。
「わざわざこんなとこまで連れてきてくれたとこ悪ィが、そのな、俺にはどうにもそうゆうのはな、現実的とは思えなくてな。いや、嬢ちゃんの仕事を否定してるわけじゃねぇんだ。ただどうにもな、本当に会えたとして、それは本当にあのときの
「わかりました。実はまだ探りの段階なので、うまくいくかは出たとこ勝負だったんです。なので逆によかったです。いますぐやってくれとか言われたら、失敗してたかもしれなくて」
「恐ろしいことをさらっと言うな、嬢ちゃんは。失敗ってのは? 茉火佳の怨霊を呼び出すとかか?」
「わかりません。わからないんです。祓ってはいるくせに、わたしには黒のことも、呪いのこともよくわかっていない。逆に、わからないからこそ、祓えるのかもしれないと最近思っていて。だって、呪いの素性をわかっていたら、その人のことを考えてしまって集中が削がれそうで」
「その人ってことは、やっぱ呪いってのは」
嬢ちゃんが肯く。
呪い――黒は、元はニンゲン。
つまり、
茉火佳の遺体がなかったのは、黒になったからという、ある意味もっともな可能性。
「この先もし、わたしが黒からニンゲンを分離できるようになったら、また声をかけたほうがいいですか」
「そうさな、そんとき考えるわな」
俺と茉火佳の家はそのままにしてある。
あいつがいつ帰ってきても生活が再開できるように。
そんな日が永遠に来ないこともわかっている。
俺はまだ、
あの日の整理が付いていない。
俺だけが24年前に取り残されている。
「ところで、あいつ、岡田だ。どこ行ったか知らねえか」
事件が終わってからぱったりと連絡が来なくなった。
連絡を待っているわけではないが、来るべきものが来ないというのは納まりが悪い。
「あれ? 挨拶なかったですか?」嬢ちゃんが言う。
ということは、あいつまた。
「俺に何も言わずにどっか行きやがった」
嬢ちゃんが肩を竦めて笑ったのが印象的だった。
笑うとどこか、
若い頃の茉火佳に似ていた。
2
黒祓いの日常が戻ってきた。
夕方に出掛けて祓って、夜に帰ってきて悪夢を見ながら朝になって、昼間はオムライスを食べてゴロゴロして。そしてまた、夕方に出掛けてといういつもの生活。
9月。
10月。
11月。
12月。
特に何もしなかったクリスマスを過ぎて、大晦日。
13時。
片山さんは、茉火佳さんの「24年目」だと連絡をくれた。
25回忌とは言わなかったので、わたしもそうは思わないことにした。
片山さんの家にお邪魔した。
立地のいい、2LDKのアパート。
あの日のままにしてあると、片山さんは言った。
さすがに食べられるものは処分しただろうが、台所や居間に生活感が強く残っていた。
他人の家のにおいがした。
「一人でも多く茉火佳のことを憶えてくれてる人がいればな」と片山さんが言った。
わたしは彼女に会ったことがないと答えた。
写真を見せてくれた。二人でどこかに出掛けたときの写真。
「いい女だったんだ。俺には勿体ねえくらいの。とびきりのいい女だ」
「わかります」
「だろ?」片山さんが嬉しそうに口元を上げた。「あ、悪い。惚気ちまっていけねえや」
「今日ぐらいいいんじゃないでしょうか。聞いてるのは、わたしだけですし」
茉火佳さんとの思い出話をいっぱい聞いた。
出会い。
再会。
結婚。
「けっこう怒濤な感じだったんですね」
「俺も自分で吃驚してんだよ。なんでこうなったんだろうな、てな」
振り返ってみれば楽しい思い出ばかりだったと、片山さんは恥ずかしそうに締めくくった。
来年からさすがに家の片付けを始める、とも。
「いつまでもこのまんまじゃ、あいつも安心して成仏できねえだろうしな。それになにより、俺らしくねんだよ」
わたしから言えることは何もなかったので黙って聞いていた。
「嬢ちゃんとこの、ほら、実家を片付けてくれてる掃除のプロをな、俺にも斡旋してくんねえかな。そしたらここも嬢ちゃんとこみたいに綺麗になるんじゃねえかな」
「紹介はできますけど、さすがにバイト料払ってあげてくださいね?」
「おう、そっちは任せろ」
半分以上冗談だろうと思ったので、その場は流れに従った。
実家の掃除をしてくれてる彼は、いつ
よほど奇特な奴か。相当暇なのか。
どちらでもない気がする。
15時。
時寧が「さすがに年末年始は休みをあげる」と言って姿をくらました。
もっと早く聞きたかった。
やることがないので寝ていた。
22時。
クソジジイに電話で叩き起こされたので、しぶしぶ寺に出掛けた。
寒い。
本堂に通されると、クソジジイが座っていた。案内役が帰ったので、他には誰もいない。
「思い出したことがあってな」クソジジイはわたしのいないほうに向かって一方的に話し出した。「24年前、あの大晦日の日、私が吸収した黒はもう一つあった」
まさか。
「そう、姉ちゃんの姉貴。つまり、旧姓・納茉火佳。昨日それをふと思い出してな」
「思い出すのが遅すぎないか、クソジジイ。ボケるにしてもひどすぎる」
この事実を知りたくて、
24年間ずっと苦しんでいた人がいるのに。
「いまから人を呼ぶ。駄目とは言わせない」
片山さんに連絡をしなければ。
「まあ待て。話を聞いてからでも遅くはないだろう。落ち着きなさい」
「落ち着いていられるか! なんでそれをもっと早く」
「期待を持たせるのも可哀相だから、先に結論から話そう」クソジジイの手元で数珠が鳴る。「茉火佳を
「下らんクイズはいい。結論から言うんじゃないのか」
「『どっちもお断り。片山健吾のところに返して』。茉火佳はそう言った。私はその選択肢を叶えると嘘を吐いて、茉火佳を呑み込んだ。ああ、いま気づいた。そうか。それが私のこの状況か。わかったぞ。茉火佳の姉貴、僕を
クソジジイは早口でそう呟くと、祈るように胸を押さえた。
「茉火佳は、ここだ。二度と外に出ないよう、私を抑えている」
嘘だ。
もしそれが本当なら。
「24年前、僕を封じようとして死んだ姉ちゃんの器のそばで、女の新生児が生まれた。赤ん坊がいたはずだ。片山健吾はとっくに気づいとるかもしれんが、あれは、茉火佳と奴の子じゃない。茉火佳にまつわるすべてを消去した茉火佳だ。茉火佳の外側とも言える。内側はここにいるんだからな」クソジジイが自分の心臓の辺りを叩く。
「どうしてそうなる? わけがわからない。わたしの母は
「あのときの赤ん坊は、実はムスブさんだ。言っとらんかったかな」
聞いていたのか。知っていたのか。そんなのどうでもよかった。
わたしの本当の母と父は。
誰と誰?
納茉火佳と片山健吾?
納深風誼と群慧島縞?
納の呪いの総体による、納深風誼の複製?
「あのときすでに胎に子がいてな。それがお嬢さんの原型だよ。なんだ、そんなに驚かんでもいいだろ。私はそんなに変なことを言ったかな」クソジジイは分厚いツラの皮の下で嗤っている。
わたしにはよくわかった。
どんなにニンゲンのフリをしようが、元は呪いの総体。
時寧もクソジジイも黒に違いない。
わたしを害するだけの存在。
クソジジイは寿命を待つとしても。
時寧は、
わたしがなんとかしないと。
できるだろうか。
「できるわけないでしょ」と時寧が頭の隅でくすくすと笑ったのが聞こえた。
ずどん、と凄まじい音で天地が揺れた。
除夜の鐘だ。
経慶寺の境内がいつにも増して活気に満ちている。
寒空の下、年が明けるのを待つ人々で溢れかえっている。
ニンゲンを直視しないように、人の間を抜ける。
23時。
片山さんに何と伝えればいいのか。
茉火佳さんに再会できるかもと。
あんな期待させるようなことを言って。
その実、すでに24年前に手遅れ。
この24年はなんだったのか。
悔しい。
憎らしい。
わたしが怒っても仕方がないが、代わりに怒るしかない。
駄目だ。
鐘の音を聞いても煩悩が消えない。
それに、
わたしがあなたの娘かもしれないと。
言えるわけがない。
確信がないからではない。
なんでそれがわかっていたなら、もっと早く言ってあげられなかったのか。
わたし以外のすべては悪意の下動いている。
23時50分。
年が明ける前に事務所に戻った。
電話が来た。
「いまから年が明けるまで話せる?」レーからだった。「年明けの挨拶を一番にみっふーにしたくて」
気持ちは嬉しかったが、いまは頭がごちゃごちゃしていて。
「いま忙しかった?」レーが優しい声をかけてくれた。
「悪い。ちょっとな。いろいろあって」
「僕でよければ聞かせてくれる?」
「いい。言ってもわからん」
「わからないかどうかは言ってみないと」
「わからんよ」
わかってほしくない、が近い。
触ってほしくない。
「誰かに何か言われた?」
「悪い。いまは」
「じゃあ言えるようになったら教えて? ねえ、何も喋らなくてもいいから、このまま電話つないどいてもいい?」
「本当に何も喋らんぞ?」
「いいよ。みっふーがそこにいるっていう気配だけでうれしいんだから」
「相変わらずだな」
「うん、相変わらずみっふーが好きな僕なのです」
「懲りんな」
「みっふー心配されるの嫌でしょ? そのくせ人の心配ばっかしてる。家にいるときずっとラジオ聞いてるのだって、黒絡みの事件が起こってないか探したり、自分で祓った建物でその後何も起こってないか確認するためでしょ? そんなに四六時中気を張ってなくていいよ」
「うるさいな。黙っててくれ」
「黙るよ。みっふーを労いたいからね。静かにしとくよ」
それからレーは本当に黙った。
呼吸音が聞こえる。
レーは生きている。
生きていてほしい。
「体調はどうだ?」
「あれ? 黙ってなくていいの?」
「いい。どうかと聞いてる」
「ん? そうだね。割といいよ。みっふーに直接会えない寂しさ以外は万全だよ。仕事も上手くいってるし」
「そうか。よかった」
わたしにはわかっている。
あのときレーに伝えた内容は一部嘘だった。
関わらなければ、というのは、そもそも汚染がゼロだった場合の話。
すでに汚染があれだけ進んでいる場合、わたしから離れてはいけない。
離れた結果が時寧として存在している以上、レーが嘘だと強く抵抗すれば、ずっと一緒にいるつもりだった。
でも、レーは。
「みっふー? 大丈夫?」
なんで。
「なんで、お前は」
「泣いてるの?」
ぼーん、というひときわ大きな鐘の音が聞こえる。
新年0時。
「みっふー、あけましておめでとう。今年もよろしくね」
莫迦だ。
莫迦なのは、わたしだ。
手遅れなのを見ていられなくて、自分の眼の前で消えられるのが怖くてわざとレーを遠ざけた。
「みっふー、大丈夫だから。いまから行くね」
来ないでくれと答える前に電話が切れた。
0時半。
レーはタクシーで来てくれた。
3ヶ月も放っておいた。
レーは、
真っ黒になっていた。
輪郭どころではない。
真っ黒い闇に覆われて、姿がまったく見えなかった。
時寧の高笑いが聞こえた気がした。
わたしは、
動くなと忠告して。
いつもの呪文を唱えた。
これを取り込めば、わたしもどうなるかわからない。
でもいまここでやらないと。
「いいよ、みっふー。僕、もう手遅れなんでしょ?」
身体の全体があたたかい。
背中をあたたかいものが撫でる。
レーがわたしを抱き締めてくれている。
黒すぎてよくわからない。
「このままでいいよ。あ、みっふーには見えてないのかな? みっふーから見えてないの、ちょっと残念だけど」
「頼むから黙ってくれ。集中が切れる」
「いいよ。僕のためにみっふーが苦しむ必要はないんだから」
いま、
気づいた。
これは、
本当にレーか?
距離を取る。
「どうしたの?みっふー。僕のことなんか放っておいて」
「時寧。いるか?」
「もう気づいちゃったの?」時寧が天井からふわりと降りてきた。「だいぶ汚染が進んできてさ。引っ張ったらもう一体小張のガキが作れちゃったから面白いことしてみたわけ」
「いい加減にしてくれ」
黒が、時寧に吸い込まれて消えた。
そこに、
レーが倒れていた。
「レー!」
「あれ? なんで僕」レーは呼び掛けにすぐに眼を開けた。「おはよう、みっふー。久しぶり」
「おはようじゃない」
「あけましておめでとう」
「電話をくれたか?」
「うん。迷惑だった?」
「来てくれてありがとう」
やっぱりレーは、真っ黒になっている。
さっき時寧がとり込んだもう一体が今後も発現してくる可能性が高い。
「悪かった。ちょっとどうかしていた。また一緒にいてくれるか」
「いいの? 新年早々嬉しすぎるよ。やったー!!」レーが感激のあまり抱き締めてくれた。「ずっと一緒にいるからね!!」
レーは努めて明るくしてくれているが、本当はかなり体調が悪いはずだ。
ここまで汚染されていて、無事のはずがない。
あと何カ月もつ?
あと何週間まともに話せる?
あと何日レーでいられる?
カウントダウンをするのはやめよう。
残りの日をだいじに暮らそう。
1月。
レーの周りの黒が濃くなるに従って、レーはわたしに強く当たるようになった。
時寧と同じく、悪意を撒き散らしている。
この状態では仕事に行くこともできない。
店長にはわたしのほうから長期休養を申し出た。自分で連絡できないほどの体調不良なのだと店長はこちらの意を汲んでくれたのがありがたかった。
2月。
レーは、わたしのことを嫌いだと言ってきた。
もう取り返しがつかなくなっていた。
祓うしかない。
明日。
何かの記念日じゃないことを祈った。
3
2時。
レーが眠っている隙を狙うことにした。
白襦袢に着替えて、水を頭にかぶって、呪文を唱えた。
できるだけ何も考えないようにして、ベッドの脇に座った。
眼を瞑るといろんなことを思い出した。
レーと初めて会った雨の日。
レーと再会した暑い日。
レーとの子を産んだ桜の日。
レーとゆっくり暮らしたあの一年。
なんで。
なんでレーがこんな眼に遭わないといけない?
わたしのせいか。
わたしに関わったばっかりに。
わたしが、
レーを殺した。
「時寧!! いるか」
「そんなに大きな声出さなくたって聞こえてるよ」時寧がすぐそばに立っていた。「いいの? 起きちゃうよ?」
「なんでもするから、何でも言うことを聞くから、レーの汚染を止めてくれないか」
「えー、なんで私がそんなめんどくさいこと」
「お願いだ。本当になんだってする。時寧が言ってた種で後継者を産んだっていいし、レーと別れたっていい。本当に汚染を止めてくれるなら、なんだってする」
「それ、ほんと?」時寧が大きな眼を更に見開く。
「本当だ。ほら」わたしは時寧の前で頭を下げた。「この通りだ。お願いします」
「頭下げてくれてるのは悪くないけど、そもそもみふぎがちゃんと見てなかったせいじゃん。みふぎの尻拭いを私にさせてるんだけど。前提がおかしいのわかってる?」
「好きに罵ってくれ。すべてはわたしの不徳の致すところだ」
「だから、なんで頼んでるみふぎがそんなに落ち着いてるのかってゆってるの」時寧がわたしの顎を掴んで上を向けさせる。「もっと泣き叫んで懇願してよ。大好きな人が死んじゃうの嫌だから~とか。わたしも消えたくないから~とか。私が喜ぶような言い方ってのがあるでしょ?」
横目で見たがレーは眠っている。
うようよと黒い塊が像を成して。
時寧が手をかざすと。
レーから生まれた黒がニンゲンの形になって。
「おはよう、みっふー」
「おはよう」
レーの本体はそこで眠っている。
だからこれは、ただの黒。
レーそっくりでレーと同じ声で喋るだけのニセモノ。
「何しようとしてたの? 僕を祓おうとしてた? 嬉しいな。みっふーに祓ってもらえるなんて」
会話は意味をもたない。
私はひたすら呪文を。
「みっふーが僕を祓うと僕はどうなるの? みっふーの中に封じられるの? へえ、それってずっと一緒にいられるってこと? 幸せすぎるよ。そんなに幸せなことがあっていいの?」
集中できない。
曲りなりもレーの声帯と同一なのが。
耳を塞ぎたい。
「ねえ、みっふー。僕を永久触媒にしてくれない? 僕が黒になれば僕が永久に触媒になれる。だって僕は汚染されない。そもそも汚染されてるんだから。ねえ、これって名案だと思わない?」
時寧が壁にもたれてニヤニヤと見守っている。
レーの声帯をつかった
「ねえ、そうしてよ。僕はもう汚染されてる」レーが近づいてくる。「これからずっと一緒にいるならみっふーの中よりも、永久触媒のほうがずっといい。みっふーが僕以外を触媒にするなんて耐えられない。なんで? 僕がいるのに。僕、要らなくなっちゃった? わかるよ。僕を使うと僕が汚染されるからでしょ? でももう僕は汚染された。これ以上汚染されることもないくらい手遅れなら、手遅れなりの使い道がある。そうじゃないの?」
レーが私に抱きついてきた。
レーとは思えない冷たい腕が絡まる。
全身が凍りそうだった。いや、そもそも凍っているのはわたしだ。
レーが、
こちら側に来てしまった。
「早く祓いなよ」時寧が言う。
わたしは返答せずにひたすら呪文を唱える。
祓うためではない。
精神統一のために。
「みっふー、僕のこと嫌い?」
嫌いのわけがない。
「僕はみっふーのことが嫌い」
嫌いで構わない。
「自分のことをだいじにしてくれないから」
呪文を、
止めてしまった。
レーがにっこりと笑う。
これは、
どっちだ。
ベッドを見ようとするが、時寧が黒い幕を下ろしたせいで。
部屋が真っ暗になった。
「みっふー、僕を忘れてフツーに生きて?」
「レー!!」
時寧の気配がしない。
やめろ。
やめてくれ。それだけは。
黒い幕が落ちる。
ベッドが空に。
時寧もいない。
嫌だ。
なんで。
「レー?」
返事はない。
「レー? いるんだろ? 隠れてないで出てきてくれ」
返事はない。
「時寧? ふざけてないで出てこい」
返事はない。
しばらく待った。
やはりこの空間にはわたししかいない。
黒の残滓もほとんど消えてなくなっている。
レーは、
黒になって消えたのか。
わからない。
わからないまま。
1ヶ月が経過した。
3月。
時寧が戻ってきた。
「知りたい?」時寧は勿体つけてニヤリと嗤った。「どうしよっかなぁ~」
「黒になったんだな?」
「察しがよくてサイアク。そ、フツーに職場にいるよ。見に行けば?」
「いい。お前が言うならそうなんだろう」
本当は今すぐにでも駆けつけたかったが、黒になったレーと対面する勇気がまだなかった。
「みふぎのせいだよ? 愛する人さえ守れない。あ、別に愛してはなかったんだっけ?」
黒に。
なったのか。
力が抜けて床に座り込んでしまった。
「いい感じじゃん」時寧が項垂れるわたしの顔をのぞき込む。「それとね、触媒調達係もさせることになったから、近々会えるんじゃない?」
「自分が立候補するんじゃないのか?」
「どっちのほうがみふぎ、つらいかなって。調達係をさせてる元内縁の夫に永久触媒を毎回迫られる図っての、けっこう傑作なんじゃないかって思ってさ」
「なんでもするからっていう約束憶えてるか」
「ん? 黒になっちゃったから無効でしょ?」時寧が言う。
「なんでもするから、わたしの記憶を消してくれないか」
「なにそれ。あんまりにつらくて耐えられなくなっちゃった?」
「このままじゃ思い詰めて自殺しかねない。そうしたら巫女の仕事も頓挫して、後継者もいなくて、困ることばかりだろう? 悪い話じゃないはずだ」
「消すったって」時寧が困ったような顔を浮かべる。「私別に魔法使いじゃないんだけど?」
「魔女だろ? 悪い魔女」
「それはそうかも。いいよ。どのあたりから消す?」
そんなの。
決まってる。
「レーを二回も触媒にしたせいで、レーを黒にしてしまったこと。これだけわたしの記憶から」
ぱん、と強烈な音がして。
黒い風船が弾けた。
黒い紙吹雪が落ちて。
黒いシャボン玉が飛んでいった。
ああ、これで。
わたしはレーを喪わなくて済む。
それから4年後。
わたしは、実家を4年以上掃除してくれていた少年と再会する。
タウ・デプス
ルズラ 連続殺人犯
1~8章タイトル
ロイ・バウマイスター『純粋悪の神話』Wikipedia「悪」より引用
4
みふぎが実家の掃除をすると言ったので天地がひっくり返るほど笑った。
掃除?
あ、違うの?
黒を祓う。
そっちの意味ね。
じゃあとっておきの触媒を用意しないとね。
前に言ってたみふぎの新しい夫候補だよ。
学校帰りの私の息子―ユキに声をかけた。
ユキは私のことが見える。黒が見える眼を持ってる。
これ以上の適任はいない。
学校が終わったらここに来てね、と日時と場所を教えた。
ユキは不審そうな顔をしてたけど、絶対に来てくれる。
だって、
私の息子だもん。
当日。
私は家に入れないから外で待ってる。
ユキが来るのを待ってた。
あれ?
なんで?
ユキは?
全然別人が家に入って行った。
まずいなあ。
あの子じゃ計画が。
いや、待てよ?
あの子に眼をあげて、あーしてこーすれば。
よし!
計画変更!!
私のいいところは土壇場のハプニングを楽しんじゃうところ。
これはこれでうまくいくはず。
ああ、これで。
もっちゃんの要らない息子が役に立つ。
5
わたしの家には、母が祓ってきた濃厚な黒が溜まっている。
いい加減それを祓うべきときなのかもしれない。
そう思ったのは、善意で掃除してくれている少年に被害が出ていないのか唐突に心配になったからで。
ここを後回しにしていたのは、溜まった黒の量というよりは、気持ち的な問題。
時寧はここで死んだ。
ここに溜まった黒をどうにかするということは、時寧ごと黒を祓うということ。
向き合うのを避けているのはわかっている。
でも、やはりやらなければいけない。
わたししか、できないんだから。
時寧は家に入らずどこかに行ってしまった。
最高の触媒を用意したと鼻歌を歌いながら、どこぞへ散歩しに行ってしまった。
邪魔する意図がないのは結構だが、触媒のほうが問題だ。
わたしの予想が間違っていないなら、騙し討ちで呼ばれている。
時寧の息子だろう。
あの子は生まれつき黒が見える。
黒に汚染された状態の時寧が産んだことで発現してしまった。
もし息子が来たら使った振りして。
いや、駄目だ。
約束してしまった。
わたしの記憶を消してもらうのと引き換えに。
守らなければならない。
わたしの記憶の蓋をこじ開けられたら困る。
しかし、
やってきたのは。
「人違いだ」
わたしの家を4年以上掃除してくれていたあの少年だった。
*****
次回予告
黒を祓うために好きでもない男の元へ行かなければいけなかった巫女。
黒の中で踊り狂う姫をエスコートするは、救済の王子か守護の騎士か。
タウ・デプス
水晶の姫君
他、黒にまつわるオムニバス全5編
黒曜の少年
「お前には見えるのか?」
「なんとなく」
タウ・デプス 濃悪の令嬢 伏潮朱遺 @fushiwo41
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