第三十三話 兄の憂鬱
やっと京都。馴染みの駅に到着し、家へと向かう。懐かしすぎて、道を間違えてしまいそうになったけど、幸い家の近くにあるポストが目に飛び込んで来たから、迷子の様な見窄らしい状況にまでは落ちずに澄んだ。
家に着き、玄関のチャイムを鳴らしてみる。するといかにも仕事帰りの様に思われる疲れ果てた兄が、こんな時間に何事かと玄関を開けた。その隙を狙って家に入り込むと、ちゃんと靴を脱いで一先ず自分の部屋に上がる。自分の部屋は、僕が修学旅行の為に出て行ったあの時から何も変わっていなかった。強いて言えば、教科書や僕が読み散らかしていた漫画が、綺麗に本棚へ戻されて整頓されている。兄が少し片付けてくれたのだろう。掃除嫌いな兄の事だし僕も随分と家を空けていたから、埃も溜まっているかと思って心配していたけど、そういえばまだ一周間しか経っていないんだった。ずっと大自然にいた所為で少し空気が汚れている様に感じるけど、この部屋中に漂う匂いは、確かに僕の家だった。
自室を出て居間に入る。そこでは兄がソファで寝ころびながら、とあるバラエティを見ていた。
「お兄ちゃん、ただいま。」
声を掛けてみたけど、兄は知らん顔でテレビを見ていた。心無しか、少し寂しそうである。バラエティを見ているはずなのに、顔の何処をとっても笑っているとは思えない。仕事で何かトラブルでもあったのかな。明日ついて行ってみようか。そんな事を思いながら、僕もソファの側であぐらをかいた。一緒にテレビを見ている内に、兄が寝てしまったようだ。相当疲れていたのか、いびきが聞こえてくる。
「お兄ちゃん、この番組これからが面白い所なのに見なくて良いの?」
話しかけても、答えは返ってこない。そうと分かっていても、話しかけてしまうのだった。すると、いびきが止まったかと思えば、うぅと言う声の後に、
「見たけりゃ見とけ。兄ちゃんは寝る。」
と返ってきた。僕はずっと前を見ている。兄の視線が何処を向いているのか。きっと僕を向いてはくれていないだろう。けれど僕はそれを確かなものにしたく無くて、ずっと前を向き続けた。今の返事は、唯の寝言に過ぎない。人は寝ているうちに話し掛けると、偶に寝言として返してくれるそうだ。
「何でそんなに疲れてるの?」
「明日だ。」
「何が?」
「明日なんだ。俺の弟が死ぬ日は。」
「…どう言う事?」
「マスコミは、弟が遂に死亡したと報道するだろう。だけど本当は違う。移植相手が決まったんだ。あいらは嘘しか付かない。」
「移植って何を?」
「心臓をだよ。」
「…。」
どう言う成り行きなんだろうか。僕は今、近くの高校病院で昏睡状態の筈だ。そういえば両親の事故をきっかけに、僕も兄もドナーカードというのを作った気がする。それで心臓を移植する事になったのかな。別に僕はこうして違う形で生きているのだから、病院にある僕の身体なんて何をされようが構わない。僕のおかげで誰かが助かるのなら、別に移植だってすれば良い。でも僕は、何故かそれが兄の提案だとは思えなかった。それは兄が善人では無いという訳じゃなくて、そもそも実の弟の身体を、こんな短期間でさっさと移植してしまう様な冷静な心を、兄は持ち合わせていない。僕が知る限りの兄の欠点は、いつまでも家族に対してベッタリな事だ。両親が亡くなった時もそうだった。父は駄目でも、母は肝臓がまだ無事であった為に、臓器提供をしないかと政府から持ち掛けられた時、叔母が政府を追い返す以上に、兄は叔母の影に隠れて反抗していた。その暴れ様は凄く、僕が兄を止めようとして頭を兄の肘にぶつけ、血を流した事を覚えている。そして後から必死で謝られた事も。正直、あれは僕が以前からなっていた頭の傷が開いただけで、兄の肘が出血するまでの強さだった訳じゃ無いんだけど、それを何度兄に説明しようが、お構い無しに謝り倒してきた。そんな家族想いな兄が、あっさり僕の心臓を売ってしまうものなのか。少なくとも僕は、そうだとは思え無かった。
これ以上疲れている兄に寝言を返されても困るから、僕も兄の手を握って寝る事にした。残念ながら手の温もりは伝わらないし、兄の方も握り返してこない。たとえ一方的になったとしても、僕は兄の手を握って眠りについた。
翌日。僕が目を覚ますと兄はもうソファにはいなかった。病院に出掛けてのだろうか、それとも何処か別の場所に出掛けたのだろうか。兄の部屋に飾ってある大きなカレンダーを見ると、今日は仕事は休みの様だ。仕事の日は、日付を青で丸されており、毎週月火曜は丸が無い。用事がある日は、その日のマス目に赤で内容を書いているのだけれど、一度書かれたであろう今日の用事は見事に黒く塗りつぶされていた。兎も角、病院に行ってみよう。僕は急いで家を出て、病院へ向かった。重体ってだけじゃ思い当たる病院は複数あったけど、移植と迄くればそれは一つに限られる。正直、地元の医療機関はやけに多く、有難い事ではあるんだけどちょっと迷惑だった。いざという時の対応は素晴らしいんだけどね。個人でやってる診療所とかもあるからちょっと怖い。
地元で一番の大型病院の前まで行くと、少し困った事に気付いた。僕がいるという病室が何処か分からない。人に話しかけても僕の事が見えていないんだし、聞く事も出来ない。僕はふらふらと病院内を歩き回った。すると、運良く廊下を歩く兄の後ろ姿が目に入る。やっぱり病院に来てたんだ。兄は、スーツを着て紙袋を手にした男の人と、白衣を着た医者であろう男の人と三人で何かを話しながら歩いている。こっからじゃ会話は聞こえないけど、僕は聞く気にもならなかった。兄達がある病室の前に止まると、僕は一気に距離を詰め、誰よりも先に病室へ入った。病室の右列中央にあるベットには、幾つもの点滴に繋がれた僕が寝転がっている。モニターに映し出された心電図は定期的に波打ち、いかにも健康そうに見えた。この病室にいるのは僕だけじゃ無い。最大六人まで入る事が可能みたいだけど、この部屋は二人しか入って無かった。僕と、もう一人は左列奥の人。人が入っている所はカーテンが掛かっているから分かりやすい。病室前のネームプレートには柳田悟と書いてあった。僕は人に見られない事を良い事にもう一人のカーテンを潜って入ってみる。すると驚く事に、そこに寝入る人物を、僕は知っていた。
「ゴンさん?」
其処に寝入る彼は、僕が想像するあの姿よりもずっと痩せ細り、かなり年老いていたけど、確かにゴンさんだと一目で分かった。何故ならゴンさんには右腕の肘関節辺りに火傷痕がある。僕が理由を聞いてみてもゴンさんは分からないやら記憶に無いと言うし、本人も気にしているのかずっと長袖の服ばかりを着るからあまり触れない様になった。けれどその傷が、今僕の目の前で寝ているお爺さんの右肘にも付いている。これは間違いなく、ゴンさんだ。
「じゃあそういう事で。ご協力頂き本当に有難う御座いました。」
「有難う御座います。」
後ろで兄達が話しているのを忘れていた。気付けば僕は二人の大人にベットごと動かされ、病室の入り口まで運ばれていた。
病室に残された兄は、近くにあった小さな椅子に座り込む。さっきスーツを着た人が持ってた筈の紙袋を手にし、その中の書類を一枚一枚取って見てを繰り返す。僕はそんな兄を見ながら、ある事に気付いた。これは唯の予想に過ぎないけど、八卦の世界に送り込まれる人間というのは皆昏睡状態になった人達なんじゃ無いかという事である。コンさんの記憶だって、最後は戦闘機に落ちたところで止まっているし、ゴンさんはこうして起きる事なく眠っている。他の皆は如何だか知らないけど、仮にそうだとして、何故僕とコンさんだけが記憶があるのだろう。それだけはいつまで経っても分からなかった。
「もしもし。」
電話の音が聞こえる。僕は一旦思考を止め、携帯を耳に押し当てる兄の近くに寄って行った。
「叔母さん?聞こえてる?…うん。もう行ったよ。葬式は明日の九時からだけど、準備とかは大丈夫?…あぁそれなんだけど、お金の都合もあって小さい所にさせて貰ったよ。ごめん。駄目だったかな。…あ、いや、墓は母さんの所に増やす。…うん。…大丈夫だよ。…うん。…うん。じゃあ切るね。それじゃ。」
兄が通話終了のボタンを押した。そこに出てきたホーム画面は、僕と兄が家でふざけて撮った、ごく普通のツーショット。どうしようも無く暇な時に、兄がふと開いたカメラに向かって、二人で色んなポーズをとってして楽しんでいたのだ。その中には二人とも変顔をしたり、女子みたいなポーズをしてたり、遠近法を活かした流行りの写真だってあった筈だ。だけれど兄は、その中でも一番シンプルな、カメラ目線でピースをしているだけの写真をホーム画面に選んでいた。ニュースに出す写真はあれだけふざけておいて、自分のホーム画面は真面目に選ぶとか、何それ。普通逆じゃ無い?ちょっと怒ってしまったけど、それが兄らしくて笑ってしまう。
「お兄ちゃん、明日は早いんでしょ?もう家に帰ろう。」
そう言って兄と一緒に立ち上がり、病院を出る。明日は何をしようか。八卦の皆の身体を探すのも良いけど、それよりも自分の御葬式に出てみたい。皆がお焼香する中僕は何処にいようか、なんて考えていると、突如として襲い掛かって来た睡魔に耐えられなくなる。脳が不可解な危険信号を出していた。
「助けてっ。」
僕は兄に向かって手を伸ばすも、兄は僕を無視して歩き続ける。とうとう立っていられ無くなった僕は、倒れ込むように地面に手をついた。
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