香草との出会い
第22話
その日、遠くで鳴り響く宵の鐘を聞きながら、湯浴みを済ませた桃花が部屋に戻ろうとすると、炊事場の明かりがついていることに気付く。引き戸を開けると、中では香雪が薬缶で湯を沸かしていたのだった。
「悪い。うるさかったか?」
桃花に気付いた香雪はバツが悪い顔をするが、桃花は首を左右に振る。
「いいえ。飲み物を淹れるなら、私が淹れます。丁度、湯浴みを終えたばかりで喉が渇いていたので……」
「せっかくだから茉莉花茶を頼もうかな。淹れ方を教えるからやってくれるか?」
承諾すると、香雪は戸棚から「茉莉花」と書かれた硝子瓶を出してくれる。
あの後、香雪たちに聞いたところ、門前の看板や硝子瓶、品書きの文字は全て香雪が書いたものだと教えられた。住居と茶館を兼ねたこの家や、この家の近くに建つ香草を育てている温室の持ち主は鈴振だが、実際に管理をしているのは香雪だということも。
仕事に戻るという鈴振が桃花に対する数々の非礼を詫びた際に、この家と温室の鍵を譲ってくれた。『私の代わりに茶館と温室、兄者と海石榴を頼みます』と言って。
そして可能であれば、今後は桃花にも茶館や温室を切り盛りして欲しいとも頼まれた。香雪一人では限界もあるだろうから、と。見た目は厳しそうだが、鈴振も家族想いの優しい青年なのだろう。
そんな鈴振が心配する香雪は炊事場の作業台にすり鉢やすりこぎ、香草が入った硝子瓶をいくつか出して、今まで何かを作っていたようであった。包丁とまな板に加えて、油紙も出されていたので、これから切り分けるところだろうか。
「明日の骨董市の用意をしていたんだ」
「骨董市があるんですか?」
桃花の見ているものに気付いたのか、茶器を用意していた香雪が手を止めて教えてくれる。
「この近くの神社で開催されるんだ。昼に聞いたら、まだ場所が空いてるって言われたから申し込んできた。茶館の宣伝も兼ねて何か出そうと思ってさ」
「何を出すんですか?」
「香草入りの石鹸だ。茶館に来た客の土産用として好きな大きさに切って販売していたけど、どうせ誰も来ないから明日の骨董市の売り物用として小分けにしていた」
どうやら茶館で売っていた時は大きさや個数、重さに応じて値段を付けていたが、骨董市では最初から値段を決めて小分けにした状態で売るつもりらしい。
小分けにしてあらかじめ価格を決めておけば、手に取りやすく、何より試しにと買いやすいだろう。気に入ってくれれば石鹸を求めて茶館に足を運んでくれるようになり、茶館を利用する常連客にもなってくれるかもしれない。まさに一石二鳥の良案であった。
「私も手伝ってもいいですか? 香草入りの石鹸に興味があるんです」
「それは構わないが……。疲れていないのか?」
「鈴振さんが来るまで寝ていましたし、夕餉の後は海石榴ちゃんと雑誌を読んでいただけなので体力は有り余っています。手伝いに来てくれた化け狸の姉妹にもゆっくりして良いと言われましたが、逆に落ち着かなくて……」
夕方に鈴振と入れ違うように、通いで手伝いに来ているという化け狸のあやかし姉妹たち――見た目は桃花と同い年くらいだったが、実年齢は香雪たちと同じだった。が、夕餉と湯浴みの用意をしに来てくれた。
桃花のことは香雪から聞いていたようで、夕餉の支度をする二人に手伝いを申し出たものの、主人である香雪の妻に家事をさせるわけにはいかないと、丁重に断られてしまった。
夕餉の時間以外は香雪も部屋にこもって何かをしていたようだったので邪魔しないでいたが、もしかすると骨董市の用意をしていたのかもしれない。
「これまでは使用人同然に働いていたので休む暇も無かったんです。でもここではゆっくりさせてもらって、食事や湯浴みも用意してもらって至れり尽くせりで。それなら代わりに空いた時間は香草について知識を深めたいと思ったんです。そうしたらもっと茶館や香雪の役に立てますよね?」
「真面目な花妻様だな。女主人らしく、もう少し踏ん反り返ったっていいのに」
その時、薬缶で温めていた湯が沸いたので、桃花はあらかじめ香雪が用意していたティーポットの中の湯を捨てると茉莉花を入れる。湯を注げばティーポットの中で茶葉が踊って、優雅に澄んだ甘い香りが漂いだす。
「やっぱり茉莉花茶はいいな。優しい香りに心が落ち着く」
「茉莉花茶もそうですが、香草ってどれも良い香りがして癒されますよね。昼間に入れた神目帚もそうでした」
「香草って万能なんだ。飲めば病気、塗れば怪我に効くし、美容や保湿にも最適。匂いを嗅いだだけでも精神を安定させる効果もある。調味料として料理に使っても良いし、部屋に飾れば綺麗だし魔除けにもなる。使い方は無限にあるんだ。この国ではまだまだ香草を重要視していないが、外つ国では薬と同じくらい重宝されている」
茶葉を蒸らしている間、ティーポットと同じようにティーカップにも湯を注ぐ。香雪の説明によると、あらかじめ湯通しするのは、冷たいティーポットやティーカップに直接湯を入れると、温度が下がって茶葉の香りや風味が損なわれてしまうから。言われてみれば、これまで冷たい湯呑みに熱々の煎茶を注ぐと、飲む頃には煎茶が温くなっていたような気がした。
「茉莉花っていう花はな、陽が沈んでからこの甘い香りを漂わせるんだ。海を渡った東の国々には、『昼は薔薇、夜は茉莉花が花の女王になる』っていう言い伝えさえ残っている。それだけ香草は昔から愛されてきたんだよ」
「何でも知っているんですね。香草の知識や効能だけじゃなくて、歴史まで詳しくて」
「俺の知識は、全部海石榴の受け売りだ。海石榴は香草のことは何でも知っている。独学で覚えたんだ。書を読んで、自分で育てて、俺と鈴に試飲させて……。何百年経っても、アイツには敵わないよ」
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